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現在の日本の繁栄の要因はなに?
理系の大学生です。学問の分野は違うのですが、少し歴史に興味がありまして質問させてください。 私は、現在の日本の繁栄がどうしてできたのか常日頃疑問に思っていました。今日、私たちのが享受できている経済的な豊かさや教育水準の高さなどは、やはり先人の努力が大きいと思います。 日本は、江戸時代には鎖国をしていて、その後の明治維新で西洋の学問をどん欲に吸収し、工業大国となった。だから、アジアやアフリカのようにヨーローッパ列強の植民地化に対抗できるだけの力をつけることが出来たというような認識を持っています。 工業が国力を決定しているようには思うのですが、日本は他のアジア諸国と何が違っていたのでしょうか?地理的なメリットがあったとか、教育の素地が整っていたとか、いろいろ要因はあると思いますが、少し浅い質問で申し訳ありませんが教えてください。また、入門書なんかも何冊か教えていただけると嬉しいです。
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『日本文明と近代西洋―「鎖国」再考』 (NHKブックス) (-) 川勝 平太 (著) やや古い本ですが、参照してみてください。 既出の答えの中でも、「教育」「思想」「地理的要因」など、正しいポイントだと思いますが、これに経済的要素も加えて良いとおもいます。 上記の本の趣旨としては、倭寇や信長・秀吉の時代の対外的に積極的だったのが、180度鎖国に替わったのは、隣の大国である中国との貿易赤字をなくすための手段(貿易を極度に制限すれば、当然輸出入は限られて貿易収支は小さいものになります。)であり、その結果当時のいわゆる高級品(砂糖・藍など)も自給自足せざるをえず、その結果開国時には海外に対しても競争力のある生産基盤が出来ていた、というものです。 (勿論、機械化されたイギリスの生産力に叶う訳はありませんが、本書では、それでも日本が持つ生産基盤で世界との貿易に勝ち残ることができた理由が別に指摘されています。) 個人的には、経済力を見るには生産力だけでなく、ヒト・モノ・カネ・情報の4要素の流通自由度の総合判断だと思っていますが、この見方でも、(1)ヒトは明治維新で身分と行き来の自由がある程度達成し、(2)モノの生産・流通の自由度は先に挙げた本にある通り、(3)カネについては幕府が採用していたコメ本位制から金本位に替わったことで明治政府や幕府よりカネを自由にコントロールできる裁量が広がり、(4)情報については既出の通り識字率の高さからもともと世界有数の流通度があった、という点で開国から明治維新の段階でかなり経済大国になれる要素をクリアしつつあったのではないかと思います。 (ちなみに、中国やインドは人口と面積の大きさから、富としては日本や西欧を越えるものの、身分制や経済活動の制限などで、一部の特権階級だけが富や情報を独占し、生産力向上に振り向けられなかったことが、植民地化に繫がった原因だと思います。時の政府も、大国の政府ではありながら、実態としては江戸幕府と同様、破産状態で国がコントロールできる経済力は非常に限られていたと思います。)
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アメリカから多くを恵んでもらったからです。 ・GHQが行った農地解放(理想的ではない部分もあるが) ・戦前の日本経済のいびつな所得格差(30年代には最貧困層は50%、 40年代になると逆に増えて,終戦の年には90%)、貧富の差がなくなり、昔なら小学校か、農業学校までしか行けなかった大多数の子供が、大学まで行くようになった http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/jugyou/sengokaikaku.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E7%94%9F%E5%9C%B0%E4%B8%BB%E5%88%B6 ・政治的に安定している発展途上国の成長率は先進国より高い http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08n.html
- IXTYS
- ベストアンサー率30% (965/3197)
質問 : 日本は他のアジア諸国と何が違っていたのでしょうか? 答 : 無用の権力闘争を排除して、スムースに近代化が出来たこと 19世紀、欧米列強による植民地化の波の飲まれ、アジアの国々は次々に列強の植民地になってしまいます。 欧米の植民地化の戦術には共通点が見られます。 フランスは権力者側に、イギリスは対抗勢力に付く。 両国はそれぞれの勢力に武器を供給して内戦に導く。 内部抗争が決着した時点で、列強の軍隊がが乗り込んで来て植民地にする。 フランスは徳川幕府につき、イギリスは薩長側について武器を供給したり、近代軍隊機構の整備に加担しています。 さあ、これから内戦と言う段になって、将軍の徳川慶喜は大政奉還をし、朝廷に権力の座を返してしまいました。 内部抗争を最小限にして、外部勢力介入の機会を排除することに成功したのです。 徳川慶喜の聡明な判断が国を救ったともいえます。 彼にその英断を促した勝海舟を始めとする側近の英知と洞察力は賞賛されるべきものです。 幕府側の上層部も長崎の出島を通して齎される世界の情勢にもかなり精通していたようです。 日本のこの情報を共有する進取の精神は長所のひとつです。
みなさん、いいことおっしゃっています、その通りだと思います。 さらに一言付け加えさせていただきますと、NO.2さんのご回答に通じるところがありますが、日本人の持つ「恥の文化」の影響が大きいように思います。 「恥の文化」はイコール「見栄の文化」と云えると思います。 『切腹』、これは武士の最高の見栄でした。 そして、武士に限らず、百姓町人までがこの考えに染まっているところがあり、それぞれの立場や境遇で差異はありますが、恥をかかないように、見栄を張って頑張ってきました。 この恥の文化は、戦後になっても引き続いて残っていました。 でも、今のこのような世の中がドンドン進んでいくと・・・もうダメだな(これは棺桶に片足を突っ込んでいる老人の繰言です(苦笑))。 ↓ご参考に。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E8%AB%96 http://www.amazon.co.jp/%E8%8F%8A%E3%81%A8%E5%88%80%E2%80%95%E5%AE%9A%E8%A8%B3-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%95%99%E9%A4%8A%E6%96%87%E5%BA%AB-501-%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88/dp/4390105000
補足
回答ありがとうございます。 「恥の文化」=「見栄の文化」。世間体を大事にしている文化という気がします。 「切腹」、これも確かに見栄ですね。名誉とかを取るわけですね。 現在は、恥の文化の衰退期とも解釈できますね。
- googahaku
- ベストアンサー率17% (43/242)
多方面、総合的な観点からは、既に皆さんが回答されている通りだと思います。 私がもうひとつ付け加えるとすれば、幕末時の日本にはお金があった」ということでしょう。 列強からの侵略の危機にさらされたとき、世界有数の金・銀産出に恵まれていたため、島津や長州などの雄藩、これを基盤とした新政府にも軍艦や兵器を買う金があり、わずか二十年程度で外国との戦争(日清戦争)ができるほどの軍備が整えられたことでないでしょうか。 アフリカやアジアの国々はこれが出来なかった。
補足
回答ありがとうございます。 中国はアヘンを買い銀を大量に英国に持って行かれたような記憶があります。そうした中で、日本には、金・銀という資源があったんですね。石見銀山もそうですよね。
- jamiru
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時代が進んでも自然信仰だったから。 自然信仰こそ人類の最古の宗教であり教養の思考の根幹。 キリスト教や他の宗教は人類が歴史を刻んだ何千年も後の物。 いきなり応用から学んでいることになります。 しかし、日本は人類発祥である自然信仰から地道に学んでいたこと。 かもしれませんね。
補足
回答ありがとうございます。 ユダヤ・キリスト教的な発想が私は、ヨーロッパの植民地化を進めていった(キリスト教の布教など)ように思っています。そういう意味で、日本がキリスト教のような不自然な思想がなかった、もしくは弾圧したということが結果的に良かったのかも知れません。
- nanndesuto
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日本が他のアジア諸国と違っていた点は”お互いを信頼できた”ということにあると思います。確かに地理的なメリットなどはあったと思いますが、それだけではないと思います。結局のところお互いを信頼できないができないために内部で争いあったり、様々な”力”の共有や協力がなされなかったりなどの問題が発生するからです。 ヨーロッパの場合は契約は守るという宗教的なところから発生した概念とアジアやアメリカという巨大な収入源があった点が最大のものだと思います。
補足
回答ありがとうございます。 「信頼」という視点から語っていただきました。 信頼関係はやはり日本の財産だったのだなと思いました。 他国は力が分散してしまった結果、植民地化されてしまったように思いました。
- nishikasai
- ベストアンサー率24% (1545/6342)
興味深いテーマです。 すでに三人のかたが述べておられる通りだと思います。それに二つ付け加えると、 1.日本人の協調性が挙げられます。これは悪いほうに向かうと付和雷同になったり、いじめになったりもしますが、良い方向へ向かうと大きな力となります。組織力となります。これがアングロサクソンなど白人の世界では難しい。個性が強すぎて力が分散されるのです。 2.中国は中華思想をもって白人達の文化を馬鹿にしていましたが、日本人はそんなことはなかった。すぐれた文化に敬意を払い、それを吸収し発展させた。
補足
回答ありがとうございます。 日本人の協調性という視点。 「力の集中」が日本人は他国に対して強いと解釈してもよろしいでしょうか。 2に関して、虚力を実力と勘違いし続けていた国とでも言えるでしょうか。排他性というのはひとつの弱さから来るもののように思えますね。
- tryouts
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ポイントは2点ではないでしょうか 1つめはご指摘の通りの教育の素養です。 江戸後期の識字率は、世界でも断トツの1位であり、士族だけなく各階層の平均でも欧州の貴族層の子弟とさほど変わらない水準でした。 これは江戸中期からの寺子屋などによる教育ブームにより、町域はもちろんのこと農村部においても読み書き算術を学ぶようになったためです。 また士族においては、各藩の藩校や幕府直轄の学問所などで高水準な文武道徳を合わせた教育を行っており、これが幕末行こう明治にかけて西洋の学問を容易に吸収することが出来る土台となっています。 鍋島藩では蒸気機関に関する蘭書を入手し、これをもとに蒸気機関を100%再現させて、西洋人を驚かせたりと。 工業国の土台となったのは、この学力の高さと、国民全体が勤勉であったことが大きな決め手だと思います。 もう一つのポイントは植民地にならなかった理由であり、道徳教育で江戸中期以降に多く学ばれるようになった朱子学や国学の影響です。 武家政権が確立されて以来、影の薄くなってしまっていた天子様がこれにより下級武士を含めた武家社会の中で光が当っていくこととなりました。 江戸初期の山崎闇斉(元朱子学者)の影響も大きく、彼の提唱した垂下神道の考えが水戸学や薩摩藩に影響を与え、明治維新後の統一した日本の土台となる思想となっています。 脱線しますが、彼は会津藩との繋がりも深く、会津藩で朱子学を教えており幕末の東西ともに尊王思想が強かったのも彼に起因するもので、隠れた影の立役者だったと言えるのではないでしょうか。 この尊王思想が植民地化を防ぐことに大きく役立ちました。 幕府と藩の関係は上下関係はあったとしても独立した国であり、藩に属する武士は藩に忠誠を誓っていました。 これが尊王思想の影響により、天子様を頂点とした日本全体を一つの国と言う考え方が芽生え、これにより東西に分かれた幕末においても、外国に侵略の口実を与えないよう細心の注意を両軍が払い、最終的に明治を迎えることになったのです。 植民地化された多くの国々では、国内で権力争いや内部国家同士の争いが存在しており、西洋列強にここを付け込まれています。 そう言う意味でも、江戸時代の後期であったからこそ、尊王思想が浸透していたからこそ植民地化を防げたのだと考えております。 おまけ さらに1個理由を植民地化されなかった理由を記述するならば、現在で言う全ての役所の役人に相当する人々が軍人であったことも理由だと思います。 当時の役所に相当する期間で働くのは、士族であり、太平の世であった江戸時代であっても、幼少より死ぬことを恐れずに戦うことを教え込まれます。 このため、黒船が来たと言っても、降伏するくらいであれば死んでも戦うことを選びますし、一旦藩を上げて戦うと決めれば、現在の日本とは異なり一瞬にして国が戦時体制になることが可能でした。 武士は刀などに執着する面もありましたが、戦争と言う面であれば、近代的な武器を入手すると言う側面もありました。 これにより、初期の日本の工業化は軍備に関することから急速に発展して行ったのです。
補足
回答ありがとうございます。 教育水準の高さと非植民地であったこと。 また、土台となる思想があったことなど、興味深く一読させていただきました。 その頃の日本人の土台にあったのはやはり戦いの思想だったわけですね。 私はよく、何か戦争はいけないという主張を耳にしますし、現に私も出来ることならしたくない。 しかしそれは理想なのですよね。「きれいごとよ去れ」と誰かが言っていましたが。 先ほどの回答者の指摘にもありましたが、なにか男性的なもの否定されるような現代社会の一つの病理のような気がしました。 過去の日本は均整のとれたピラミッドが国中にいくつも存在し、それが、国という一つの大きなピラミッドを形作っていたようなイメージを思い浮かべました。 一瞬で戦時体制になれたというのもおもしろい指摘でした。 回答ありがとうございます。
明治~昭和初期に限りますが、富国強兵を旨とする世相に当時の日本国民が持つ ・維新の気運がまだ残る中での立志の精神 ・封建制から受け継いだ滅私の精神 ・武士道から受け継いだ向上心・克己心・清貧を良しとする精神 がこの上ない相乗効果となった という解釈でよろしいかと思います。 そこから日清・日露戦争での大勝によって「自信」と「慢心」を両方手に入れ、その後の挫折に繋がっていくわけですね。
補足
回答ありがとうございます。 精神や気風の側面で指摘してもらいました。 立志の精神などは、現在では否定されてしまった価値観ですよね。 「自信」と「慢心」なかなか微妙な境界ですね。
- ooxx
- ベストアンサー率25% (130/514)
他国からの侵略が少ないことについては、海に囲まれているという地理的要因もあったと思います。 ただそれだけでは国は守れないし、発展もしません。 大きな違いは人的要因と国としての成熟の度合いだと思います。 ヨーロッパの列強がアメリカ、アジア、アフリカに侵略し、支配していった様子を見ると 1.国としてまとまっておらず、部族程度のまとまりのため簡単に屈服させられ、支配された。→アメリカ大陸、アフリカ大陸 2.国の統一が不十分で、群雄割拠の状態のため、ヨーロッパ列強の支援を受けた勢力同士の争いがそのままヨーロッパ列強の代理戦争となり、勝利した勢力を支援したヨーロッパの国がその地を支配した。→インド 3.国の指導者が自分のことばかりで国民や国家のことを考えないためつけ込まれた。→中国の西太后 日本は織田信長の天下統一以降、徳川家康が国家の体制を形成していたため、簡単にはつけ込めない状況にあった。 人的要因は幕末から維新にかけての薩摩、長州の活躍や、徳川の引き際の良さなどもありますが、最も大きな点は武士階級が権力を握り、政治を執り行ったことでしょう。 王侯貴族による支配は一時的には善政が敷かれますが、継続は難しく、悪い為政者が出てきてしまいます。 武士階級が優れた政治を進めたのは、皇族・貴族に対する引け目が自己に対する厳しさになっていたことと男性社会だったことが大きいと思います。 自分の欲望を超越し、広く国のことを考えるのは、成熟した大人の男の人でないとできません。 よくマスコミが江戸時代、明治政府は「女性差別の男社会」だったと非難しますが、あれは間違いです。 成熟した男の人が中心になって社会をつくったから、人を活かし人を育て産業を発展させ、現在の繁栄を築いたのです。 現在の日本は翳りが見えてきています。 毎年莫大な借金を作っているということは、現在の日本の生産力では以前と同じ生活を送れないということです。 現在の生産力ではもっと貧しい生活しか送れないということです。 現在の日本人が、先人の苦労を忘れ、享楽の生活に溺れているからでしょう。
補足
回答ありがとうございます。 『人的要因』と『国としての成熟度』という切り口はなるほどと思いました。 教育と歴史とも言い換えられるでしょうか。 武士階級は江戸末期で、確か日本人口の6%ほどでしたが、そうした、成熟した人たちを活かすシステムがあったようですね。そして、その人たちの精神に、武士道精神があったと見てもいいでしょうか。
補足
回答ありがとうございます。 著書の紹介ありがとうございます。図書館で借りて読んでみようと思います。 さて、「教育」「思想」「地理的要因」そして「経済力」の4要素が一つの切り口になっているようですね。 もっと分かりやすく言えば、ヒト・モノ・カネ・情報の4要素と言うことですね。 そして、その「流通の自由度」というのもうなずけました。面積が狭いことから来る陸路の流通、また、回りが海で囲まれていることから来る、海路の流通。さらに、教育水準の高さ、いろいろな相乗効果があったのですね。 我々の国は知れば知るほど、地球上で異質な国だったように思えてきました。もっと学んでみようと思います。