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”KY"は悪か?
小学三年生のころ参加していた地域の子供会でダンス大会に参加しようという話が上がりました。 提案したのは大人たちで、子供たちが集められたときには既にその話は出来上がっていたようです。 しかし、大人の一人が「子供たち一人一人に参加したいかどうか聞こう。」と言い出したのです。 恐らく、大人たちが勝手に進めて来た話に子供たちが乗るという形では、子供たちの意欲が揚がらないと考えたのでしょう。 そこで子供たちに質問することによって「参加したい」と言ったのは子供たち自身であると思わせたかったのでしょう。 当時の私はこの大人たちの意図を見抜いていました。 そして大人たちの企てに抗うことなく乗ることは嫌だったのです。 私は皆が順番に「参加したい」という中で独りだけ「参加したくない」と発言したました。 すると皆の視線が私に集中しました。 皆「なんだこいつ」という表情をしています。私は泣き出しそうになりました。 そして慌てて発言を撤回して「いや僕も参加したい」と言い直しました。 その後数回の練習に参加していたのですが、だだ一回だけ無断で休みました。 そうすると、その日に参加者が登録され、私は大会に出場することができなきなくなりました。 私は大会に出場したかったわけではなかったので、このことに関しては悔しいとは思いませんでした。 しかし、子供会から受けた仕打ちに深く恨みを覚えました。 そしてその恨みは今も消えそうにありません。 昨今”KY”という言葉が流行しているようで、あのときの私は至極”KY”であったことを認めます。 しかしながら私は私の言動が間違っていたとは思いません。いやむしろ正しかったとさえ思っています。 しかし結果はよいものではありませんでした。私は子供会から疎外される破目になりました。 私は人を恨むことを好みません。けれども恨まずにはいられません。 私は恨みを解消することを望んでいるのではありません。 私は何度考えてみても本当にあのときの私の言動が正しかったのかどうか分からないのです。 そして今後どのように言動を気をつければいいのか… どうかご教授のほどお願い申し上げます。
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- rinring
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誰かを精神的に傷つけるような言葉は、KYかもしれません。 小学生の子どもに空気を読めというのもおかしな話です。 質問主様の過去の言葉は、正誤を問う内容では無いと思います。 したくないモノはしたくないと言ったまでですから。 参加しないと言った言葉で大人が傷つくとも思えません。 私も小学生の頃、放課後クラスで授業以外の事で何かイベント的な事があったのですが、その日は習い事があって参加できないと言ったところ、それこそKY扱いされて、精神的な袋叩きの目に合いました。 元来の頑固さで一歩も引かなかったせいで相当なダメージを受けました。泣いて許してもらおうなんて思ってませんでしたが、なんでそこまで言われなきゃならないんだと思うと悔し涙が溢れました。 周りと同調しないと駄目なんだとその時は学習しました。 悔しいけどその後習い事の曜日は変えられなかったので、習い事をやめなければなりませんでした。 今は会社勤めをして何社か渡り歩きました。適度な距離を保つのが一番かと最近は思うようになりました。 相手の言動をしっかり聞いて(自分に向けられたもの、他の人にむけられたもの関係なく)、その事について自分自身はどう感じたか、どう思ったかを考えて自分が発言する際に気をつけてはいます。
- kodami
- ベストアンサー率13% (15/108)
自分の意見も大事だと思いますが、 周りに合わせるというのも集団生活では大切なことです。 あと、KY発言を差し引いても メンバーからは外されていたかもしれません。 たった1回でも、無断で練習を休むと信用をなくします。 まして、ずっと練習してきたダンス大会。 その当日に無断で休まれては 大人としても参加する子供たちにとっても最悪です。 いくらダンスが上手くても、 信用のない人をメンバーに入れるよりは、 下手でも必ず来ると信用できる、 練習を頑張ってきた子をメンバーに入れたいと思います。 KY発言だけが原因ではないと思いますよ。
まだ小学校五年生にはなっていなかったと記憶している頃のことです。 腕白仲間と遊んでいて そのグループに ある日ある時 リーダーが必要だと皆が思うようになっていた。多少学力があったわたしに 視線が集まって来た。つまり 空気です。 仲間たちは その時必ずしも口に出した言葉で わたしに問い掛けてきたのではなかった。暗黙のうちに それとなく 分かったわけで そのわたしは どういうわけか 同じように 心に念じるようにして 仲間に応じようとします。 おそらく 慣習として こういうときには 暗黙のうちに指名された場合でも 指名されたほうは 声に出してよいはづなのですが わたしは 声には出さずに 答えようとしていました。そのとき ふと 思い留まりました。 わたしが受けた仲間からの念力のようなものは もし それが通ったなら わたしと仲間との関係は おかしなものになると 感覚的に悟りました。 なぜ おかしなことになるのか その理由については そのときは 次のことだけを思っていました。もしこのとき 《わたしにリーダーになって欲しいということなのか》と 仲間に 言葉に出して尋ね返すなら 何か おかしな雰囲気になるだろうという予感がしたということ これだけです。 ずっとあとになるまで もう 突っ込んでは何も考えなかったのですが けっきょく 人の意思表示のないことがらを頼りとして 自分の意志行為をおこなうというその成り立ちが 問題なのだと考えるようになりました。 いまご質問のように わが国は この念力などによる非言語的コミュニケーションが 存外に発達している社会です。その後 わたしが そのグループから仲間はずれになったことは 自然の成行きでした。 答責性がない社会だと考えてください。答責性について ちゃんと考えている偉い人たちのばあいにも この答責性で困った立ち場に追い込まれないようにと 強いて言えば共同責任という名の無責任仲良し会という社会関係のあり方を 共同の知恵で こしらえています。その空気のなかで泳いでいれば 安全だとされています。そこまでの人間だとあきらめてください。
>そこで子供たちに質問することによって「参加したい」と言ったのは子供たち自身であると思わせたかったのでしょう。 ありますねえ。 大人による子供への精神的陵辱ですよね。反発する子供が一人ぐらいいてもいいのでは?逆に全くいなかったら、日本もいよいよ終わりですよ。 KYですが、そういう人は必要だと思います。 今、食の偽装がつぎつぎ明らかになっていますが、現場で「これは偽装だけど、それをするのが普通だ」という「空気」に包まれている中、「でもやっぱり悪いことなのでは」と考えるにはKY力が要ります。 「それをするのが風習だから」というのを突き破って正義を通すには、KYな人間は必要なのです。全員が空気を読むことを至上命題に考えているような世の中では、偽装問題のようなことが歯止めなく大きくなっていってしまいます。ドミノ倒しのように。 >しかし結果はよいものではありませんでした。私は子供会から疎外される破目になりました。 この場合、KYで場の空気を乱したマイナス面を払拭するような、別のプラス面を子ども会に与えてやれていればよかったと思います。難しいですが。 あなたの別の長所がみんなのプラスになるような場面をできるだけ多く作りつつ、KY力も大事にしていって欲しいと思います。貧乏くじですがねえ。頑張りましょう。
- eienn
- ベストアンサー率16% (77/462)
あなたがここで質問する価値はありません。 なぜならば、あなたはどんな回答にも納得できないでしょうから。 というか、半分は愚痴ですね。これ。 あなたが正しいと思っていても、社会では正しくないことなんてごまんとあります。 同調できないなら、阻害されるのは至極当たり前のこと。 阻害されるのが嫌ならば、妥協して同調しなさい。 多数決の原理が日本の社会の根幹です。 あなたは何を恨んでいるのかわかりません。 子供会から阻害されたこと? 正しいと思ってやったことが、認められなかったこと? そのどちらも、くだらない問題です。 そもそも、言葉はそんなに重要ではないのですよ。 嘘も真も、偽善も偽悪も、なにを言おうと個人の勝手。 言葉は道具なんですから、上手く使えば良い。それだけですよ。
- maxmixmax
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日本の社会は基本的に出る杭は打たれる、ですからねぇ。 自己肯定だけで自分を支えられない限り、 空気は読んだ方が身のためですよ。
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