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自動思考と雑念は違う?
認知療法などで「自動思考」という言葉が出てきます。 これは雑念とは違う用語なのでしょうか。 以下私なりの用語の解釈です。 根拠も自信も全くないのですが、参考までに。 雑念は、ぼんやりしているときなどに勝手に浮かぶ「自由な思考」 これに対して自動思考は、勝手に浮かぶ「決まりきった思考」
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こんにちは。 #1です。回答をお読み頂きありがとうございます。 >情動とは関係ない、純粋な思索のような雑念もでます。 >この辺りはどう考えたらいいのでしょう。 そうですね、 ちょっと言い訳みたいになってしまいますが、まず、「雑念」といいますのは我々の経験上の概念であり、心理学や生理学などで扱われる学術的な分類ではありません。これに対しまして、「自動思考」といいますのは認知療法の分野ではきちんとした定義が成されており、それは我々の脳の生理学的構造とほぼ一致します。このため、「雑念」に関しましては国語辞典の解釈を参考に致しました。 先の回答ではそれが情動反応であるという点に少々説明が不足していたように思います。ちょっと唐突ですよね。たいへん申し訳ないことであります。 これに就きましては、「情動反応が発生しなければそれが雑念として働くことはない」というのが私の考えです。 「情動反応」といいますのは入力された情報に対して「利益・不利益の判定」が下されるということです。そして、我々の「行動選択」といいますのはこの「情動反応の結果」に基づいて行なわれるものです。では、脳内に何らかの情報が獲得されたとしましても、これに対して利益・不利益の判定が下されなければ対応する行動が選択されるということはありません。従いまして、大脳辺縁系に情動反応が発生しない限り、それが雑念として理性行動に影響を及ぼすことはないということになります。 最初に述べました通り、雑念には学術的に明確な定義というものはありません。ですが、ただひとつはっきりとしていることは、発生した結果を基に何らかの評価が下されない限り我々はそれを雑念と判定することはできないということです。 質問者さんの仰る「純粋な思索」というものがどのようなイメージであるのかはちょっと計りかねますが、それが如何なるものであろうとも、果たして「雑念」と分類されるためには必ずや何らかの価値判断が下されなければなりません。何故ならば、雑念といいますのは構造分類ではなく「結果分類」であるからです。ならば、それは雑念として発生するのではなく、その結果に対して「不利益」あるいは「無報酬」といった判定が下されることにより、我々はここで初めてそれを「雑念」と分類することが可能となります。 情動反応が発生しなければ結果を選択することはできません。そして、質問者さんがそれを雑念と分類することができるということは、既に何からの結果が選択され、これに基づく評価が下されているということになるのではないでしょうか。 なんか理屈でごまかしてしまったような感じですが、今回の質問者さんのご指摘には真剣に悩みましたねえ。返信を頂いたときは、何だそんなことかと回答を書き始めたのですが、途中から私のキャパの限界を超えてしまいました。 自分なりに相当考えたつもりなのですが、何処かに何か落ちがあるような気がしてなりません。雑念なんてのはこんなものだ、などと気安く発言をしてしまいましたが、突き詰めると難しいものですね。勉強になりました(汗)。
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- Diogenesis
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すでに疑問は解消しているようですが, ひとこと補足を。 近年「侵入思考」という概念のもとに 日常的な雑念から病的な強迫観念までを包括的に捉えようとする 研究アプローチが生まれています。 下記Q&Aを参考になさってください。 haunting and harassing thought http://okwave.jp/qa3299583.html
お礼
ありがとうございます。さっそく本を取り寄せることにします。 自分にとって久しぶりのわくわくする本となりそうです。
- ruehas
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こんにちは。 「雑念」とは、 「生理的欲求あるいは二次的欲求に伴って発生し、主に理性行動を阻害するもの」 そして、「自動思考」とは質問者さんの仰る通り、 「そのひとの学習体験に基づいて特定の思考結果が選択されてしまうこと」 ということになると思います。 このふたつは共に「大脳辺縁系の情動反応」が要因でありまして、構造は全く同じです。ひらたく言えば「人情」というやつですね。ですから、自動思考が理性的な選択の邪魔をするならばそれも雑念ということになります。これらが自分の意志に反するのは、「理性行動を司る大脳皮質」と「情動反応を司る大脳辺縁系」が別々の仕事をしているからです。 では、雑念とは異なる「自動思考の特徴」といいますのは、「特定の結果が学習されてしまう」ということです。ならば、「お腹が空いた」という反応に対して必ず「チョコレートが食べたい」というならば、そのひとは「チョコレート依存症」ということになります。これは、大脳辺縁系にチョコレートに対する「報酬反応」が強く学習されてしまったためです。このように、自動思考では常に学習された通りの反応が発生しますので、しばしば「状況と対応しない結果」というものが選択されてしまい、これが「心的外傷(トラウマ)」の主な症状となります。
お礼
明解な解答、ありがとうございます。 これほどはっきりお答え頂けるとは思ってもみませんでした。 ただ、気になるのは雑念が「情動反応」という点です。 自分の雑念を振り返ると、情動と関連するものが多いのはたしかですが, 情動とは関係ない、純粋な思索のような雑念もでます。 この辺りはどう考えたらいいのでしょう。
お礼
丁寧なお返事ありがとうございます。 実は私は座禅をやっていたことがあって(今はちょっとさぼり気味) 座禅中に発生する雑念に苦しんでいたわけです。 「考えまい」とすると勝手に生じてしまう雑念を振り払おうと苦労していた とき、「ひょっとしたら、実は雑念は自分というものを維持するためにむし ろ不可欠なものではないか」と考えたのです。 自動思考というのは、自分の思考パターンの骨格の一つとして、身に染みついているので、排除しにくいものだと思うのです。 それで雑念と自動思考がにているのではないかと考えたわけです。 ruehasさんは「大脳辺縁系の情動反応」という共通性を指摘されたのだと思います。 ここからは私の勝手な連想ですが、雑念がない世界を体験できるようになる(悟りに近い体験?)と 自動思考からも自由になれるのかな・・・ また大脳辺縁系の情動反応というのは大脳皮質による思考に比べてシンプルだとおもうので、 自動思考や雑念はいくつかのパターンへの分類可能なものなのかな・・、などと空想します。