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怒らない武道家・格闘家の精神構造

 当質問は、先日投稿させて頂いた質問、『武道家が、他者からケンカを売られたり、侮るような態度を取られたとき等に、怒るのは未熟な証拠? ( http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3515635.html )』に関連した質問です。  前回の質問で頂いた回答から、『武道家が、他者からケンカを売られたり、侮るような態度を取られたとき等に、怒るのは未熟な証拠』という考え方もある、というところまでは理解できました。  そこで新たな質問です。  私は、「強さに重要な価値を見出し、強さを求めて日々血の汗を流しているような武道家や格闘家であれば、その強さを否定するように、侮られたりケンカを売られたりしたときに、心に怒りが生じるのは自然な反応では?」と思うのですが、そのような状況でも怒りが生じない武道家や格闘家の精神構造は、どのようになっているのでしょうか?  どのように考えることで、そのような状況でも怒りが生じない精神が形成維持されているのでしょうか?    ご回答、宜しくお願い致します。

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  • noname002
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回答No.6

武道関係等に、とくに縁のない者ですので、武道家・格闘家のかたがたの精神構造について私などが投稿するのも…と、ためらいましたが思い切って参加させていただきます。 私自身ずっと以前に、格闘技のカテゴリで質問させていただいたことがあり、そのおりに、その道に長年携わっておられるというかたがたから「心・技・体」というコトバも出てまいりましたが、結局どのような方面であれ道を究めるということは、他者の評価如何を頼るではなく自分自身に厳しく問うことであり、また自分で自分の立ち位置が分かってしまうに至るということなのかなと思いました。 ですから、そもそも他者を侮ったりケンカを売るというようなことをすること自体が明らかな人格的未熟なのですし、したがって、そうした者と同じ土俵に立たない、という本物のプライドと余裕と共に、それこそ「日々血の汗を流しているような」修行に励んでいればこそ、自分の実力が実際どのあたりなのかも自ずと分かってくるのではありませんか。 自分自身で自分の力が、どのあたりに位置しているのかが分かるのも実力のうちなのでしょうし、それは他者に、どのように挑発されようとも揺るがないからこそ本物の実力、眼力が身についていると言えるのでしょう。 また、武道というものが究極に求める「強さ」というのは単なる腕力や技術だけではないのだということも伺いました。だから精神修養ということを重視すると。その点からも、単なる腕力の強さ技術の巧みさだけを試すようなことを言われても取り合わない、同時に、そうした挑発に乗らないというところに精神力の強さをも発揮するということなのではないでしょうか。 単に腕力・技術の面にしぼってみても本当に強いと言えるレベルに達している実力者であれば、そのことを、ちゃんと自覚できているはずで、自分よりも力劣る者に真っ向から立ち向かうなど、くだらなくもあり、また、けがなどさせてはいけないという抑制のほうが強く働くだろうと思います。なぜなら武道は本来、単なるケンカや攻撃のためのものではないそうだからです。 つまりは、どの側面から見ても余裕が備わっているかどうかということなのだと思います。 私は個人的に、失礼な言動、最低限のテリトリーを侵してくるような言動をとる相手には誰であろうとハッキリ異議申し立てをするというのが基本方針です。それを「売られたケンカを買う」「同じ土俵に立つ」ということになるのかどうか分かりませんけれど。。。 本当に高い実力が備わっているということは「最低限の」テリトリーという範囲にも余裕があって、なかなか侵害されることもないのでしょうし、そこにまで達していない者ならば、達するまでの途上における精神修養という、まさに修行である、ということなのではないかと思います。

noname#68007
質問者

お礼

 noname002さん、アドバイスありがとうございました。  ケンカを売るような人間は人格的に未熟、等と言ったお考えは、おっしゃる通りかと存じます。    しかし、お互いの闘争能力の優劣については、実際に闘ってみないと判然としないと思いますし、私の知る限り、そのように考える格闘家や武道家は多いです。

その他の回答 (7)

  • Roman0
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回答No.8

> Roman0さんは心理学等の専門家の方でしょうか?  今の回答の立場から言えば、武道の専門です。具体的には、空手と剣道です。 > その中には一流と言われる人も含まれております。  言われるだけで、一流ではないのでしょうね。 > 私の見聞では、このような状況は、私の周囲だけで起こ > る、特殊な事例等ではないようです。 > このような現状を、どのようにお考えになりますか?  私の見聞では、それは特殊に思います。  少なくとも、私の周囲でそんなに軽々に試合以外の場でその技能を振るう人はいませんし、そういう話を「武勇伝」として語る人もいません。むしろ、恥じますね。  いわゆるチンピラ系の人間がケンカの強さを求めて武術を身につけたようなパターンであれば、そういうこともあるでしょう。あなたの周りは、例えばそういうパターンに偏っているのではないでしょうか。

noname#68007
質問者

お礼

 長々とお付き合い頂きまして、ありがとうございました。  私は複数の団体の方と親交がある為、その経験から、怒ることが特殊な事柄とは思えませんが、それを証明するデータの提出等はできませんし、その事柄をご存知無いRoman0様から、これ以上、話を伺うつもりもございません。  怒るのは一流ではなくチンピラ。  そして、その事柄を知らないにもかかわらず、しかも人の仲間に対して、さらに理由すら述べずに、『一流ではなくてチンピラ』等と罵倒することは問題無い、とする 武道の専門家 Roman0 様のお考えだけは、確かに承りました。

noname#68007
質問者

補足

 ご回答を頂いた皆様へ  この度は、ご協力頂きまして、誠にありがとうございました。  お蔭様で、怒らない格闘家・武道家の精神構造が、少しだけ理解できたように思います。  また何かありましたら、宜しくお願い致します。  寒さが厳しくなってまいりましたので、お風邪をひかれませんよう、ご留意ください。  それでは失礼致します。

  • Roman0
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回答No.7

>  ここで言う「修行」とは、具体的に、どのような行為のこ > とをおっしゃっているのですか? >  それは、すべての武道や格闘技で行われているであろう、 > 強くなる為の稽古や練習、トレーニング等のことでしょうか?  おおむね、そうですね。  稽古や練習、トレーニングという行為は、自制心が必要ですし、自律能力が必要ですし、成果が出るまでに時間がかかりますから忍耐力も必要です。要は、なかなかにままならないものだということです。  そういう試練を実体験として経ていれば、自然「世の中はそうそうにはままならぬもの」という認識が抱けますから、そうそうには怒ることもなくなりますし、仮に感情が昂ぶった所でそれを抑制しなければ望む結果が得られないことも体感的に理解できるようになるものです。

noname#68007
質問者

お礼

 度々のご回答、ありがとうございます。  Roman0さんは心理学等の専門家の方でしょうか?  私が知る格闘家や武道家の多くは、質問文にあるような状況では普通に怒ります。  それどころか手を出してしまう人だって居ます。(この行為を肯定するつもりはございません)  その中には一流と言われる人も含まれております。  彼らは、日々激しい稽古や練習、トレーニングを積んでいます。  私の見聞では、このような状況は、私の周囲だけで起こる、特殊な事例等ではないようです。  このような現状を、どのようにお考えになりますか?

  • noujii
  • ベストアンサー率15% (109/721)
回答No.5

#2です。 興味ぶかいテーマなので、回答というより自分の思うことを書かせていただきました。 同情と書きましたが、”優越感ありきの同情”というより”許せる気持ち”や”相手の陰に気持ちに負けている様を理解する気持ち”そう思えたのです。 年齢を重ねるとともに表現力を低下させることなく、人間的に我の強さがなくなり、穏やかな人になっていく書家や芸術家にも通じるように思えました。

noname#68007
質問者

お礼

 noujiiさん、度々のご回答、ありがとうございました。

noname#131426
noname#131426
回答No.4

>心に生じた怒りを雲散霧消させて微塵も残さない」等と言った意味でしょうか? そう考えてもかまわないと思います。 心頭滅却すれば火もまた涼し。って知ってますよね。 集中することにより、暑さ寒さを感じなくなると言うことですが、その他の感情もそうすることが出来ます。 剣道や柔道などの「武道」は、敵に対する強さよりも自分に対する強さを鍛えるためのものです。 痛い、つらい、きつい、苦しいを押さえ込んでいきます。 それらをどれだけ押さえ込めるかで相手との勝負に勝つことが出来ます。 怒りや悲しみも自分の心の迷いの一つなんです。

noname#68007
質問者

お礼

 koba-pさん、度々のアドバイス、ありがとうございます。  そのような考え方もある、と解させて頂きます。

  • Roman0
  • ベストアンサー率18% (118/628)
回答No.3

> 強さに重要な価値を見出し、強さを求めて日々血の汗を流し > ているような武道家や格闘家であれば、その強さを否定する > ように、侮られたりケンカを売られたりしたときに、心に怒 > りが生じるのは自然な反応では?  怒りも生じるでしょうが、同時に理性も働きます。あなたも人間でしょうから、両方が働いて理性が負けたときに怒りに基づく行動をしているという実感があるのではありませんか? だから、後になって「しまった」などと後悔するわけです。  そもそも感情が強烈なものに盛り上がらないし、理性の働きも十分強くなることが、修行というものの力です。その結果、少々怒りの感情が沸き起こった所で、簡単に理性によって制圧されてしまいます。

noname#68007
質問者

お礼

 Roman0さん、ご回答ありがとうございます。 >そもそも感情が強烈なものに盛り上がらないし、理性の働きも十分強くなることが、修行というものの力です。その結果、少々怒りの感情が沸き起こった所で、簡単に理性によって制圧されてしまいます。  ここで言う「修行」とは、具体的に、どのような行為のことをおっしゃっているのですか?  それは、すべての武道や格闘技で行われているであろう、強くなる為の稽古や練習、トレーニング等のことでしょうか?

  • noujii
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回答No.2

例えば自分より20歳以上年下で、健康状態も悪く、経済的にも裕福だとは言えない人から、少々コバカにされたりしても同情が先に立ち起こる気になれないと思います。 それは相手を理解しているからかもしれません。 他者を正確に見つめるて把握するには、自分の心の健康状態を良好に保つ事が出来ているのが前提だと思います。 それは、陰である劣等感やストレスや欲を認識してコントロールしてこそ成り立つ状態でしょう。 仕事上、お客さんの嘘をついている部分に触ろうと(踏み込もうとすると)お客さんの中にはその重さに耐え切れず、キレたり威嚇したりする人もいます。 「弱い犬はよく吼える」に似ているかもしれません。 怖さは相手でなく自分の中にあるんですね。

noname#68007
質問者

お礼

 noujiiさん、ご回答ありがとうございます。 >例えば自分より20歳以上年下で、健康状態も悪く、経済的にも裕福だとは言えない人から、少々コバカにされたりしても同情が先に立ち起こる気になれないと思います。  これは「優越感があれば、怒りではなく同情が生じる」等といった意味かと存じますが、それでは具体的に、質問文にあるような状況でも心に怒りが生じない武道家や格闘家の場合、何に関して優越感を抱いているとお考えですか?

noname#131426
noname#131426
回答No.1

たぶん、怒りたいんだとは思います。 しかしながら、怒りの感情は視野を狭くさせて動作も大振りになりがちです。 パワーは大きくなるでしょうけれど、当たらなければ意味がない。 武道などで極めてくると、平常心が求められます。 怒りを伴ったまま手を出すことは、平常心が失われていると言うこと。 怒りを生じさせないのではなく、持ち上がった怒りをきわめて短時間に押し込められる精神構造なんだと思いますよ。

noname#68007
質問者

お礼

 koba-pさん、アドバイスありがとうございます。 >怒りを生じさせないのではなく、持ち上がった怒りをきわめて短時間に押し込められる精神構造なんだと思いますよ。  ここで言う「怒りを押し込める」とは、どのような意味でしょうか?  「心に生じた怒りを雲散霧消させて微塵も残さない」等と言った意味でしょうか?  

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