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「空気を読め」という風潮
最近「K・Yさん」という言葉をよく耳にするので誰のことだろうと訊いたら「空気を読め」的な人に対する言葉だと知りました。つまり飲み会なんかで脱線や暴走している人が面と向かっていえないためにこのような記号で伝え合うのですね。 何かこう、とても日本人的な穏やかなやり方だと思いましたが決して穏やかでないものを感じました。 私自身そうなのかもしれませんが、面白い人や変わっている人が好きです。そして真剣にものごとを考えられる人も好きなのですが、どうも飲み会など不特定多数の知り合い程度の人間が集まるところでは楽しい話だけが歓迎され、個人のプライベートの悩みなどについては「空気を読まない人」として排除する傾向のようですね。 空気を読むことはそれほど大切なのでしょうか。個人の身の上話といっても、それまで知らない個人という文化のことを知るかもしれないし、好奇心からではないのなら皆で考えてあげることもできるのではないかと思うのです。もちろん酒の席なら「楽しければいい」というのも分かりますが、皆で楽しくしてても虚しいと感じる人もいるわけです。 「K・Yさん」に現れるものは現代日本の社会心理なのでしょうか?
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前のほうの方の回答にあって納得したのですが、その意味に2通りあるようですね。文字通り、「多数派に対する感知能力がない」という特に有害なものがない場合と、「人の感情が読めずに場の空気を壊す」というやや有害な場合。質問者さんが問題にするのは、当然前者のわけです。なので、その点について。 非常に馬鹿なことです。なぜ「独創性」を拒絶し批判するのでしょうか。いつまでも安寧に発展のないルーティーンな日々をよしとする、石頭どもの発言ですよ。結論から言って、これが大衆というものでしょう。そういう低質な多数派がいて、芸術や、上に立つ人物の必要性と存在理由が生まれます。
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- garcon2000
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結局彼らのいいたいことはこうだと思いますよ。 「そんなことを言うやつが自分たちにかかわっていると、社会体制的にに住みにくくなるだろ。だからやめろ。『空気』の読めないやつめ」 ということなんだろう。「空気」=社会支配体制的慣習(これをやってれば食いっぱぐれないよ)
基本的にはNo.8、特にNo.13の御意見に同意しています。 うーん、質問文読んだ限りでは何かがずれてるという感じがしてしょうがない。それと、こう言っちゃ何だけど各ご回答に対するあなたの返事読んでると自分の都合のいい視点にだけ立ちたいがためヘリクツに走り勝ちという印象を受けた。その飲み会で傷つけられたプライドの鬱憤晴らしを、わざわざ哲学カテゴリーでしてるのかなという印象です。だから本質を論じるところに届けないのかなという感じがする。 >私もつい調子に乗って過剰なサービスをしたところ今度は「空気が読めない」とレッテル貼りされまして(笑)。私はもうそのサークルには行きませんが、盛り上げ役がいなくなってちぃとは後悔させているのなら多少溜飲がおりますけれど。まぁ「空気を読め。皆引いたよ」というそいつも、暴走してましたけれどね。 調子乗り過ぎは良くないです(笑)間違いなく顰蹙を買う。 この「つい調子に乗って過剰なサービスをした」というのが、いったい何をやったんだか実際どんなものだったのかわからないので何とも言いにくいのですが >空気を読めという人こそが空気を読んでいないのですよね(笑)。自分の楽しい気分を大切にしたいからでしょう。 >例えばお葬式で喪に伏してるときに大きな笑い声をあげたなら確かに「空気を読まない」ということになるでしょう。というよりマナー違反ですが、会話がこの記号の強制力や暗黙の圧力のためにどんどん収束していく。 >確かに他人の話なんぞ知らん、自分は楽しく飲みたいだけなんだと言う人が多数いたらその人の目的、時間、空間やお金が奪われたと思われるでしょうね。 >私、敵か味方か分からない場所で自己開示する人って嫌いじゃないんですよね。 >それは「K・Yさん」になる前にかばうということでもあるんです。しかし皆が皆で解決のための道を考えてあげるという展開があってもよいのかなと。酒を共有する嬉しい、楽しい、面白い場所では、ユートピアは望めないのですかね。一見オープンでも心は皆クローズドなのでしょうか。 そりゃーあなたの反対側に立つ人から言わせたって同じことになりますよ。 「敵か味方か分からない場所で自己開示する人って嫌いじゃない」それは、どこまでいっても、あなた個人の好き嫌いに過ぎません。普通は、好き嫌いではなしに、あまりやらないことです。少くとも身を守るといううえで賢いことではないですから。 No.8の回答者さんがいうところの >気心知れた仲間 というものが、あなたにはないということが、実は、あなたの質問の根っこに問題としてあるんじゃないですか。 >直感のアンテナを無視してしまった したっていいですよ。 敢えてそうしよう、そうすることが必要だと判断したならば。それは「空気」に流されないということですし、流されてはいけない「空気」であるという迎合しない態度です。 それと今回のあなたの質問とは本質的なスタンスが違うんじゃないかと思う。 「自己開示」とやら、あるいは要するに愚痴こぼしが、その場の「空気」に逆らってまでも主張するべき価値のあることなのかどうか。 もちろん、あなたにとっては聞いてもらう価値があるのだろうし、そうした話題を好む人もいるのは確かだけど(そして一番用心しなきゃならない人種かもしれない)、でもそんな話題よりも楽しい雰囲気を味わうことの方が価値があると思う人も、おそらくはずっと多い。まして「楽しい飲み会」という大前提で開催されたものなら、お葬式などのマナー守るのと基本的には一緒でしょう。 世の中には、むしろ他人のネガティブなスキャンダラスな話を根掘り葉掘り聞きたがる週刊誌記者みたいな人もいるが、そういう話を聞かされると自分までが救いようのない暗い気分に陥ってかなわんので巻き込まないでほしいというのが本音の人もいる。人数が多いほど、こういう人がたくさん混じってる可能性が高くなるわけだから、それを考慮に入れないで、自分が話したいんだからいいじゃないか、というのは、やっぱり自己中心と言われてもしかたがないのではないですか。もっとも、実際の現場では、それを喜ぶ雰囲気が濃厚だったというのなら、それもまた危険なことかもしれない。 そりゃ皆で真剣に悩み解決のため考えてくれるのなら結構なことですが。でも、自分の気持ちが気分がこうなんだから!と言い張り合うばかりの人間に、他人の悩みを親身に考えてあげるなどということが果たして本当に期待できるものなのかな??これは誰でもない自分自身の胸に手を当てて考えてみるべきだろう。 ところで質問者さんは、これまで同じようなことで失敗ばかりしてきているんじゃないかと思いました。 違うなら失礼だけど、「空気を読む」ということ、自分は本音こうだけど、そうじゃない、自分とは違う人だって、ことに、この人数ではたくさんいるんじゃないかと慮るのは何よりも自分の身を守ることでもあるが、要は判断力が問われることなんです。 そのへんに問題ありだとすると、これがいわゆる「学習能力が低い」ということになります。 間違ってることを間違ってる、と「空気」に呑まれず筋を通すことと、単に自己都合を通させろ、と主張することとをゴッチャにしてないですか。 相手に「譲れ」と言う前に、まず自分が譲れるのでなければ美しい姿勢とは思えないし、第一、説得力感じないです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >自分の都合のいい視点にだけ立ちたいがためヘリクツに走り勝ちという印象を受けた。 としたらそもそも質問をしていませんが。あなたの押し付けがましい意見の方が屁理屈に聞こえますね。そして人は皆同調を求めるものは自然だと思いますが。ご回答者様もそういう切実さや悲願のようなものがあるから(あなたの他の回答を読ませていただきました)ここにきて憂さ晴らししてるんじゃないですか?悩みを持ち、誰かに話を聞いてもらいたいというのは同じじゃないですか?私や他の質問者と。 >自分の都合のいい視点にだけ立ちたいがためヘリクツ ではこのサイトに寄せる回答もヘリクツあなたのそれも同じことになりますよね。理屈を同調すると屁理屈になるというリクツ・・・。面白いですね。 >その飲み会で傷つけられたプライドの鬱憤晴らしを、わざわざ哲学カテゴリーでしてるのかなという印象です れっきとした社会的現象を哲学カテゴリで語れないという理由をお聞かせください。そしてなぜカテゴリにこだわるんです?哲学は高慢な批判者だけのものですか?そうそう、哲学カテゴリに相応しくない人がそのようにもっともらしく「ぶる」んですよね。
モラル違反=空気が読めない、と書かれている人が居ますがモラルと空気とでは大分違うと思います、空気と言うのはモラルの規制もない無法地帯のことを言うのであってモラルではないですよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに大切なモラルと空気が読めないのは大きな違い・・・というのは重要なポイントですよね。
- garcon2000
- ベストアンサー率25% (32/125)
結局は「権力闘争」の様相を内包するものです。 たとえば前の方の回答を借りれば、「個人の独白などその場の雰囲気じゃない」「そんなの無理やり聞きたくない」という多数派の思惑があるわけですが、「俺は追い詰められているんだ!誰でもいいから聞いてくれ!」という少数派か個人化の主張があり、多数派だからそれがだたしいという理論は、常識的であるが、本質的に合理的ではない。底には弾圧という萌芽がある。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >弾圧という萌芽 市政の中の小さなファシズムかと思いました。権力闘争はどの階級にもあるんですね。芸術という場でもそれに違いはなくて、というか対象が芸術だからこそ「自分がいちばん」という能力や才能が欲しい。でも「自分こそ一番」なんて死んでも言えない。だから他の対象にすり替えて仲間内で犠牲者を求めているのだと思います。
私も「KY」が流行語として取り上げられているのを聞き 何だかとっても複雑な気持ちになりました。 複雑な思いの正体を暴くのは簡単ではないと思うものの 自分なりにちょっと頑張って考えてみました。 ●なぜ穏やかでないものを感じるか? これは言葉の問題というよりも構造の問題ではないかと思いました。 つまりここになぜ不穏なものを感じるかというと これは「陰でこそこそ悪口を言い合っている」構造だからだと思います。 既出の指摘どおり、「あいつ、臭くねぇ?」なんて書いたノートを こっそり回して喜んでいるのと同じ「初期のいじめの構図」です。 これを無自覚に無頓着に流行語感覚で使っている人がいるのだとしたら ちょっとデリカシーに欠ける気がしますし 本当にそういう人が多いのだとしたら恐いなと思います。 ただ幸いなことに私の周りでは「KYって知っている?」といった 読み方を話題にする人はいても、この隠語を使って喜んでいる人は 見られません。 ●空気を読むことはそれほど大切なのでしょうか? 大切だと思います。 これはコミュニケーションの技術だと思います。 「空気を読む」とは、TPO+相手の反応を考えることだと思います。 もし、自分の思いを相手に理解してもらおうと思うのであれば 相手の反応を考える=「自分の思いの伝わり具合を計りながら 話し方を最適化させる工夫」は絶対必要です。 例えば大人が子供に話をするときは、子供が理解できているか?を 五感で推察しながら、話し方に工夫を加えていく筈です。 あるいは、例えば葬式で笑い話をするのがTPOに反すると誰もが思う筈ですが 不特定多数にプライベートの悩みなどを話す際にも、かなりの配慮が必要な筈です。 もし「誰でも構わないから私の悩みを聞いて下さい」では沢山の相手に失礼だと思います。 コミュニケーションになっていません。 それは一方的な独白であり、それを聞くのを相手に強いるのは「わがまま」です。 そこに無自覚・無頓着な人が増えているのだとしたら それもまた恐いことだなぁと思います。 ●「K・Yさん」に現れるものは現代日本の社会心理か? KYのもともとはネット言葉である「空気嫁」だと思います。 メディアが携帯に変わり、中高生を中心に「KY」が使われ始め それを毎度のようにTVが面白がって取り上げ たまたま阿部総理の問題とシンクロしたので全国的に広まったものと理解しています。 ネット→携帯→TVという流れは非常に現代的だと感じます。 でも、中身(内容)はどうなんでしょう? 何となく「相変わらずだ」と私は感じたのですが。 KYが流行っているのは「空気を読むことを大切に思う人が増えている」のか それとも「空気を読むことを軽視する(読まない)人が増えている」のか いろいろ悩んでみたのですが、だんだん「そんなの関係ない」という気分になってきました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >読み方を話題にする人はいても、この隠語を使って喜んでいる人は 見られません。 確かに私のときもそうでした。「K・Y」もひとつの酒のネタになってるんですよね。そのノートをまわし読みされてても本人に回されなければイジメが表面化されることはない。 逆にそういう大人としてはタブーを回避するために「K・Y」という隠語というよりも標識を立てて暗黙の了解にする。 あらかじめタブーを避けるためのタブーを公言することによって「してしまわないよう」に気をつけるという心理?なのかなと。 >自分の思いを相手に理解してもらおうと思うのであれば 相手の反応を考える=「自分の思いの伝わり具合を計りながら 話し方を最適化させる工夫」は絶対必要です。 もちろんそうですよね。自分の話を聞いてもらうには相手の聞く態度を尊重しなければなりません。それは自分を労わることでもありますよね。 >「誰でも構わないから私の悩みを聞いて下さい」では沢山の相手に失礼だと思います。コミュニケーションになっていません。 ご尤もです。 ところで「KY」はネット言葉だったんですね。 >いろいろ悩んでみたのですが、だんだん「そんなの関係ない」という気分になってきました。 私も不特定多数に自分をさらすことではなく、「関係ない」と思われることで傷つく自分を労われるよう、自分との関係の空気を読むことが大切かと思いました。
no.6です。 no.6の続きです 空気というものに対して感情が踊ったり行動規制をされたり 逆に行動促進をされたりする現象にいたる傾向が示されています その良い例が亀田問題でしょうw A=法律とボクシングのルール、B=世間的空気 としたら亀田家は基本的にBを破ったから世間からバッシングを食らったのでしょうw ワイドショーの街角インタビューで亀田について聞いてみたところ 「態度が嫌い」「喋り方が嫌い」「パフォーマンスが嫌い」とうでしたw これは非常に面白いです世間の人はAの侮辱罪やパワハラ、はたまたボクシングのルール違反に怒っているのではなく 亀田家が作り出してきた空気にキレているのですw しかもその空気はメディアまでをも感染し謝罪インタビューの 時には『お前は間違えているんだお前の作り出しているその空気を何とかしろ』的な インタビューでしたw そのことにより2回も謝罪会見をさせられるという破目になったのです つまり亀田家の場合1回で十分な謝罪会見を2回もさせられたといったところでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 大衆相手の業界は分かりやすい反応がきますよね。「K・Y」と亀田家のエピソードを対応させるのはユニークな視点だと思いました。
- code1134
- ベストアンサー率20% (703/3370)
●私も「決して(空気と言う名の)雰囲気を的確且つ精確に察し、絶対に乱さぬ!」のに長けていません。そして個人的嗜好だけからするとKYで"空気を読めぬ"よりもKY下手云々と使いたい類だと諦めてはいます。 ●ですけど、「(NO6さんが触れている如く)提唱者とされ、1991年12/11に69才で他界した山本七平氏の死後、16余年経過して尚延々と未来永劫に使い続けなければならぬ程の学術的価値があるとは一切考えぬ」立場です。何れハンサムがイケメンに変った様に他の語に取って代られてもその本質が失われぬなら、それも有、でしょう。 ●(NO8さんが指摘されている通り)>みんなで盛り上がっているところで、水を差す(以下略)事がないよう留意するのは重要なのでしょうが、 私及びα、β、γの4人のグループがあった時、私が他の3人の話合に空気に読み切れぬなら、黙り込むのは許されて然るべきなのが当為と私は解します。何故なら"沈黙は金なり"との格言も厳然とある故だからです。 その場合(私以外の)α、β、γの3人が私に対して、「空気を読むのが下手云々と、言う(そして暗に可及的速やかな習得を期待する)のが、分岐点で「空気を読め」と強要するのは行き過ぎ!!なのが私の捉え方です。 最後に90代のa総理( http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/souri/90.html )の著しい不始末のお陰で、空気を読めなくても1年だけなら務まった職がこの日本に実在し(!?)又、単に空気なら(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B0%97 )で、流石に山本氏の意味するそれの説明に至っていないのを付記して置きます。失礼致しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >何れハンサムがイケメンに変った様に他の語に取って代られてもその本質が失われぬなら、それも有、でしょう。 なるほどです。同調を強制するのは日本人の本質でしょうか。それを表現する言葉が代われど、いつでもどこででも、そういう自分らの民族性を客観的に、ユーモアに、いかにもな感じでオブラードとして示しているわけですね。 そういえばこの言葉は芸能人がよく使ってますよね。でも芸能界というフィールドが個性を商売にしているのなら、ブラウン管の範囲ではその個性のぶつかり合い、そこで創造されるエンターテイメントの空気があって自分達をさらに売り込むことができる営業の場となるわけです。逆に相手の個性を封する策略ともいえませんが…。
空気の読めない人を「K.Y」と呼ぶことがズルイと思います。 そう思うなら「空気が読めてない」と本人にいえばいいのに、と思います。いえないのであれば黙っていて欲しいです。 空気の読めない人を私は嫌いではありません。 むしろ、「あの人ってK.Yだよね」という人の方が嫌いです。 空気を読んで当たり前、みたいな世の中にはうんざりします。空気を読まないとどうして陰で「K.Y」などと呼ばれてしまうのか、嫌な奴と思われてしまうのか、疑問です。 空気ばかり読んで人の顔色を伺ったり場を盛り上げる人がいてもおかしくないように、空気が全く読めない人というのもいて当然と思います。 いろんな人がいるのだから、こっちのタイプの人間はよくてこっちのタイプの人間は悪い、という何でも白黒つけたがる姿勢はどうにかならないのかな?といつも思います。 でも、空気が読める人っていうのは世の中的には常識人というか、できてる人間って認識されますよね。 そういう常識に沿ったタイプの人にとっては、「K.Yさん」と空気の読めない人を馬鹿にするのは快感なのではないかと思ったりします。 いってる本人はきっと自分は空気読める側なのだと思います。自分は常識に沿っている、世の中からはみ出ていない、正しいんだ、という気持ちが、「K.Yさん」を見つけてそう呼ぶことで確認できるのではないかと。 でも、そもそも常識って何?と思ってしまうんですけど、きっと「K.Y」と発する人は、世の中の常識や正しいことについて疑問を持ったりすることなく、比較的ラクに生きていけるんだろうな、と思ってしまいます。 まとまりなくてすいません。 勝手に思ったことなので参考にはならないかもしれませんが・・・。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >いってる本人はきっと自分は空気読める側なのだと思います。 その場面では逆でした。面白いことに「空気を読め」なんか強迫観念的に仕切る人がこちらのプライバシーにズケズケと進入してくるんですね。私がお酒の勢いでうっかりしゃべってしまった自分の過去の古傷を皆の前で酒の肴にしようとうする(上手くかわそうとしてもしつこい)。彼は外の世界の空気を読めるけれど人の心の動きや背景は読めないという意味での「K・Y」さんですね。 いや、彼はそのような表面的つながりであるだけの集団に帰属してないと感じることすら怖いのでしょうね。つまりその恐れから私のような生贄が必要とされ、「K・Yさん」にならないように自らを制し、他人にはその役割を記号を用いて穏やかに強制する。…いやー人間てまったくもって素晴らしいものですね!(笑)
- adaypajimy
- ベストアンサー率20% (201/964)
みんなで盛り上がっているところで、水を差す言葉をする人は「空気を読まない」とされてもしかたがない気がします。社会的常識は疑う必要が時にありますが、場面場面の節度ある態度(マナー)というものも必要です。 プライベートのことはせいぜい気心知れた仲間と話せばよいと思います。だからこそプライベートでありパブリックではないのですから。話し合っても解決しない問題、つっこみようのない話、とどめようのない話、失礼な話、こういうところは大衆酒場で語らなくとも、友達同士で語らなくともいいでしょう。 文字という媒体で語られてもいいですし、アングラはアングラとして1ジャンルを築けばいいだけ。穏やかではない感じもまた大衆の持つ特性ってことで位置づけられませんか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >場面場面の節度ある態度(マナー)というものも必要です。 そうですね。確かに不特定多数の、平均で割ると皆が知り合い程度の付き合いならば、個人的な濃い話をするのは、「薄い関係=空気」の目的を乱すことになりかねません。確かに他人の話なんぞ知らん、自分は楽しく飲みたいだけなんだと言う人が多数いたらその人の目的、時間、空間やお金が奪われたと思われるでしょうね。 確かにこのような社会心理が一般的なのだとしたら、「K・Yさん」は一種の主張者かもしれませんね。 でも私、敵か味方か分からない場所で自己開示する人って嫌いじゃないんですよね。彼、もしくは彼女が「K・Yさん」ならここではなく個人的に聞いてあげようか、という気持ちになります。それは「K・Yさん」になる前にかばうということでもあるんです。しかし皆が皆で解決のための道を考えてあげる、という展開があってもよいのかなと。酒を共有する嬉しい、楽しい、面白い場所では、ユートピアは望めないのですかね。一見オープンでも心は皆クローズドなのでしょうか。
- yyou
- ベストアンサー率59% (25/42)
仰るとおりだと思います。空気が読めない人を非難する大衆は、そこに表れた自分自身を恐れているのですよ。 もちろん、一々そんな大変なものと向き合っていては大変なので「空気読もようよ」というのも致し方ない面がありますが、そう言ってしゃぁしゃぁとしている態度は実に劣悪です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ブログ拝見しました。この方はプロの文筆家なのでしょうか?理論展開が非常に冴えてます。 >実は問題にしたいのは「空気が読めない人」というより、「空気が読めない人批判」の方です。 >「無い」ものを読めているか読めていないかは、当然ながら自分で判断することができません。では何をもって「読めている」とするのか。それは「読める人たち」の共同体に入っているか否か、です。 >いかにしてこの共同体は形成されるのか。「空気が読めない人」の排除によって、です。「空気が読める」とは「あの人空気読めないからねぇ」という陰口に参加しているかどうか、によって決定される 以上、まったく同感です。 >「読めてないよねぇ」と相槌を返す時の後ろ暗さというのは、つつがなく「読める」共同体に適応している人たちでも、いくらかは経験があるのではないでしょうか。 そうですよね、確かに私もわかったふうな口を利いているけれど、それはヤバイ空気を察知したとっさの防衛反応なんですよね。 この記号は一見「和」を尊んでいるように聞こえるのが怖いです。差別してはいけないというのは刷り込まれてますから、このような記号を用いるのでしょうね。差別よりは少し軽い罪の意識で自己弁護すること、その意識の共有を求めるときに同意しやすくさせる、それが「K・Y」という記号なのでしょうか。 という私も以前からそんな「空気」を感じてたのですが、直感のアンテナを無視してしまった私もその共同体の性格という「空気を読めなかった」ことになりましょうか(笑)。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 >なぜ「独創性」を拒絶し批判するのでしょうか 創造する側が創造性を否定していたことにショックでした。芸術の反骨精神ってこういうのを否定していくことなのに・・・。つまり当日私が同席してた連中は芸術家を気取ってても本質は大衆なのでしょうね。本当の芸術家は差異性を批判することなく、それでいて自身は強烈な個を保ってます。大衆が光に反射する月のようなものなら彼の輝きは恒星のようなものです。