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ゲルマン人の侵入について

ゲルマン人の侵入は何年頃と考えればよいのでしょうか?年号で言うと375年となっていますが、軍人皇帝時代にも北方のゲルマン人の侵入がありますよね?このゲルマン人と375年のゲルマン人はちがうのですか?どう考えればよいのでしょうか? よろしくお願いします。

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  • norakuma
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回答No.2

こんにちは。 ゲルマン人の侵入は、受験レベルの暗記では375年となっていますね。 しかしながら、それよりはるか以前よりローマ帝国領へ出没しています。 ちょっと広く考えてみれば、カエサルの頃にガリア人をその支配下におさめつつ、その後、ガリア経営を成功させたローマ帝国。若干の内乱を経ながらも、ガリア地方の安定経営を続けておりました。 さて、ゲルマン地方は?といいますと、 五賢帝時代に、ライン川とドナウ川を持ってその北方の国境としています。 辺境地帯ではローマ軍団を中心に待ちが開かれ、徐々に都市の領域が拡大していきます。 当時のローマ軍団の特色として、ローマ市民から成る軍団兵と現地人中心に構成された補助兵という組織で構成されていることが挙げられます。 ゲルマン地方に近いところでは、「ローマ軍団の補助兵」として、ゲルマン人が雇用されるケースも頻繁にありました。 さらに、ローマ軍団の補助兵として兵役を終了すると、その子孫はローマ市民権を与えられるので、ゲルマン民族のローマ市民も登場しています。 そういうことを考えると、すでにゲルマン民族との接触が始まっている紀元前1世紀には、ゲルマン民族もローマ帝国(当時は共和国ですか…)に侵入していた… といえるのではないでしょうか? というのを長い前ふりとしまして…。 現実にローマ帝国とゲルマン民族が戦い始めているのは紀元前1世紀にガリア地方を征服したカエサルの頃からです。 カエサルの力もあって、一時期はライン川の奥地まで攻め込んで国境周辺の部落を攻めたりもしていたのですが、その後の第二次三頭政治の頃の内乱もあって、 ローマ帝国の国力が落ちると、トイトブルクの戦いの敗北もあり、ローマ自身もゲルマニア(ゲルマン地方)の征服を断念します。 五賢帝の時代にトライアヌス帝が領土を一時的に拡大し、続く皇帝たちが領土経営を充実させますが、そこまででした。 ネロ帝の頃から一年に一度くらいのペースでめまぐるしく皇帝の座が入れ替わり、その権威が失墜していきます。その中であちらこちらで、理由はどうであれ、帝位を狙い、あるいは簒奪をたくらむ輩が出てきます。 ここで重要なのは、「帝位というものの権威が失墜したこと」です。これで、簡単に言うと「ローマ帝国がなめられた」状態になったのですね。 外部では、東部国境でササン朝ペルシャとの戦い(しかも、押し捲られて…)、あいも変わらずユダヤ統治の困難さもあり、国力が疲弊していきます。 という外的要因、内的要因が合わさり、東部に比べて重要度が低下していった北部国境の軍事力が低下していきます。 (東部国境への軍団移動や北部国境警備の軍団同士での戦い(それぞれの司令官が皇帝になろうとして)とか) そんなこんなで、国境警備が手薄になり、今まで行われてきた、軍団補助兵への加入や平和的な移住だけではなく、国境周辺の村落への略奪行為というのが盛んになってきたのですね。まぁ、そんなのは規模も小さいので国境警備だけでなんとかなりました。 その頃、フン族(昔は中国のほうにいて匈奴と呼ばれていたらしい)が西進してきました。帝国北方から黒海周辺にいたゲルマン民族は、次々と圧迫されて部族単位で西進を始めたのです。個別での移住は吸収してきたローマ帝国ですが、今回は部族単位での西進です。国内混乱を防ぐために防戦に努めますが、それもむなしく西ローマへの侵入を許してしまいます。 当初は「難民」として友好的に融和しているかに見えたゲルマン民族ですが、その後、475年の西ローマ帝国皇帝の殺害で、個々独立を果たします。 質問の回答としては、 軍人皇帝時代の侵入は、ゲルマニアを基点としての略奪活動。 375年は、変える場所を失った難民としての移住。 つまり背水の陣。命がけです。 同じゲルマン民族ですが、気合が違う…と。

その他の回答 (4)

  • norakuma
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回答No.5

#4について修正と補足。 すいません。誤字訂正です。 ×回答→○解答 IMEめ…。 次に、ゲルマン民族の侵入を混乱と定義していることについて。 国内体制がしっかりしていれば、少数の武力をもっての侵入も、すぐに撃退できるので問題となりませんが、区内体制が疲弊した状態での侵入は、それが少数であっても撃退が成功せずに長期化したり深刻化したりしたでしょう。 これが国内全体を動揺させるほどの問題となってはいませんが、ゲルマニアと国境を接する属州では、トピックとなっていたこともあるでしょう。 そういう意味では、ある地方では混乱があったし別の地方では混乱はなかったのです。 #4でも書きましたが、その限定的な出来事でも、受験テクニックとして記憶しておく必要がある項目であれば、こういう出題のときには、記入しなければいけないのでしょうね。ここが受験暗記のおもしろくないところですね。

super_mario_
質問者

お礼

>すいません。誤字訂正です。 ×回答→○解答 回答と解答って全く違う意味だったんですね。今までいい加減に使ってましたが、辞書引いてみてハッとしました(笑)。 >#4でも書きましたが、その限定的な出来事でも、受験テクニックとして記憶しておく必要がある項目であれば、こういう出題のときには、記入しなければいけないのでしょうね。ここが受験暗記のおもしろくないところですね。 それもそうですね。私もそう思います。興味のある分野があってもほどほどにしてオールマイティにこなさないといけないのがちょっと辛いです・・。世界史って膨大ですもんね。何はともあれがんばります。どうもありがとうございました!!

  • norakuma
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回答No.4

#3のお礼に書かれていた内容について。 妥当な回答か?と言われると、「重要度を無視した単なる羅列」となるので、歴史好きとしましては、ふざけるなぁ~ですが、元社会科塾講師としましては… 受験での短文回答に、すべてを盛り込んだ「ありがちな回答」といえます。 したがって、受験テクニックとしては妥当な回答といえるでしょう。短い文に必要項目を含めようとするとこうなります。これが受験テクニックの詰め込みの弊害です。 こういう点に疑問を抱いて、更なる理解を深めていくことはよいことです。 がんばってください。

super_mario_
質問者

お礼

お返事ありがとうございます!! そういうことだったんですね、よくわかりました。 norakuma様のおかげで理解がふかめられたので良かったです。

  • norakuma
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回答No.3

#1さんへのお礼にかかれていた追加の質問に回答します。 ---引用開始--- 本に、軍人皇帝時代の国内の混乱状況として「皇帝が短期間で何回も入れ替わったこと、ササン朝の侵攻、ゲルマン人の侵入」が挙げられていたのですが、そうすると国内が混乱するほどゲルマン人の侵入は大きかったということですよね? ---引用終了--- 違います。 国内混乱の主要な原因は、皇帝が短期間でめまぐるしく入れ替わったことです。 それにより、皇帝権威の失墜が始まり、政治権力に対する侮蔑が生じます。 国内的には、指令が行きとどかなくなったり、不正が横行したり、軍団の勝手な行動が行われたり、政治の混乱により、経済が不安定になりました。 対外的には、ササン朝ペルシャとの戦いに勝てない(軍団総司令官がころころ変わるんじゃ勝てません)要因ともなっています。 これが国内の混乱であって、ゲルマン民族の個別移住や略奪程度で、ローマ帝国国内が混乱したりはしません。 ゲルマン人たちは、ローマの隙をうかがっていた程度です(大きな目で見れば)。 375年の移動は、追われているゲルマン人たちは、ローマ帝国の隙をうかがう余裕もなく、力ずくで侵攻してきたのですね。

super_mario_
質問者

お礼

お返事ありがとうございます。 ちょっとこれに関して問題ごとお聞きしたいのですが、これはこの前、模試に出た短答記述の小問です。解答を見ていろいろ調べてみると疑問がわいてきたので質問させていただいて次第です。 問題:「パッククス=ロマーナも3世紀になると混乱期に入る。この3世紀の混乱の内容を、内外の政治・軍事的な事情から簡潔に説明せよ」 解答:「内政面では、各地の軍団によって擁立される軍人皇帝が乱立し、対外的にはササン朝ペルシアやゲルマン人の侵入が相次いだ。」 これは妥当な答案なのでしょうか?この解答では、ゲルマン人の侵入が相次いだのを混乱と取り上げていますよね?ご意見お聞かせ下さい。

  • zawayoshi
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回答No.1

 375年の大移動はフン族により東ゴート、西ゴートが制圧されたことにより 本格的な民族移動となったわけで…  それ以前のものは民族こぞってローマ内に侵入なんてものではなく、小競り合い程度のものでしかなかったはずです。

参考URL:
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/101-europe1.html
super_mario_
質問者

お礼

お返事どうもありがとうございます。本に、軍人皇帝時代の国内の混乱状況として「皇帝が短期間で何回も入れ替わったこと、ササン朝の侵攻、ゲルマン人の侵入」が挙げられていたのですが、そうすると国内が混乱するほどゲルマン人の侵入は大きかったということですよね?これに関してはどう考えればよいのでしょうか?すみません、よろしくお願いできますでしょうか。

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