戦中戦後の食糧管理制度
ヤミ米と山口判事と他の判事さんたちに関する質問が出されました。
書き込もうとしたらBAを決定して締め切られています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14150929219
同じ事項をここで質問させてもらいます。
1. 1942(昭和17)に制定された食糧管理法は米の流通を統制していた。
食料管理法の統制対象はお米だけであったでしょうか?
つまり"麦","粟","稗", "蕎麦", 或は"サツマイモやジャガイモ"などについても農家は売買を統制されていたでしょうか?
2. 浅草、蒲田の戦災で罹災したわが家はしばらく壕舎生活をしていました。
早産の未熟児であった私は学童疎開にいかず、壕舎生活の経験があります。
古い商家の娘であり農家出身ではない母は浅草のわが家の焼け跡を耕し、サツマイモやカボチャ、その他の野菜を作り四人の子どもを育てていました。
隅田川などの川を越えた地域に転居し壕舎生活をしなくなっても、しばらく此の焼け跡の畑での作物に我々は育てられていました。
そして時折は衣類や貴金属を持って、近隣の農家に行き畑作物と交換などをしていました。もちろん現金も都合つけて持参したことは言うまでもありません。
お米のご飯などはめったに口に入るものではない。毎日毎日三度の食事は代用食です。
以下のご質問での山口判事はヤミ米に手を出さないという事でした。当時の彼は33歳とか。お子さんも小さかったでしょう。
母は親類や縁者の助けも頼み、何とか育ててくれました。山口判事ご夫妻も天涯孤独ではなかったはずであり、代用食で露命をつなぐことはできたのではないでしょうか?経済統制の担当であった方として荀に立派といえるが、餓死の前に家族と自己のために何か工夫はできなかったのか。
判事や官公吏のまえに人間であり家族の責任者でもあることは大事ではなかろうか。
多くの判事はヤミ米をどういう気持ちで食していたかのご質問ですが、私は多分いろいろな助力がおありであったろうし、近隣で家族の方が空き地などに畑をつくっていたろうし、代用食も活用していたと存じます。
山口判事は中学の時に友人から聞き、なにか身のすくむ思いでした。
独り身ならそれでもいいが、家族を抱えていたら少しは考えることが必要であったろう。多くの裁判官は、法の許容する範囲で工夫をして生きていたと思う。
みなさんはどう思いますか。
私は戦中戦後のひとつのエピソードであっても、今、山口判事の事を出して他の判事の生活と意見を考えることは無意味だと存じます。
【参考】
食糧管理制度:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9F%E7%B3%A7%E7%AE%A1%E7%90%86%E5%88%B6%E5%BA%A6
お礼
ご回答、ありがとうございます!! 本で読んだことなどの裏づけも出来ました。 その時代を実際に体験した方ならではの、具体的な描写(色のことなど)や、 知らなかった事も、たくさんあって、教えていただけて、感謝しております! 小さな病院では、元々から病院食はなかったのですね。 入院している人を支えつつ食べるものを調達するとなると、相当な負担だったでしょうね。 町医者は、病気や怪我を診るだけでなく、地域の人々との繋がりが強かった(本で読みました)とはいえ、 入院できるだけ、まだ良い方なのかもしれませんが…。 終戦後の方が厳しかったのですね。 闇市というのは、戦後に出来たものなのでしょうか…。 やはり、金銭的には一般人には買えない額だったのでしょうね。 今後は、そのあたりを調べてみようと思っています。