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戦中の一般家庭の暮らし、町医者について…
昭和10年代、特に戦中の一般家庭の暮らしや、 町医者について調べています。 なんとか手に入れやすかった食材、病院食になるもの、 配給制度の詳細、等々…。 ご存知のことがありましたら、ご教授願います。
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すべては幼い頃の目で見た、今ではやや不鮮明となってしまった記憶をよみがえらせての回答です。 昭和20年までの戦時中...... 通称町医者、つまり医院では病院食といったものを患者に供することはありませんでした。これは当時でも今日でも同じことです。 また、当時の病院でも、医科大学の付属病院とか公営の病院など大規模な病院では病院食を出していたところがありますが、個人経営レベルの病院では、その規模に関係なく、患者の付き添いが病院内の共同炊事場で個々に調理するというのが当時の姿であり、実際にそうしていたのを思い出します。 食材というほど選択肢を感じさせる豊かな表現のものではありませんでした。食料、昭和16年ぐらい以降、ことに18年以降は急激に食料不足になりました。地方都市ではまだ幾分かの米も手に入りましたが、大都市では米どころか麦でさえ手に入りにくくなりました。 こうした食料や消費財の逼迫については、関東関西の大都市と県庁所在地レベルの地方都市、さらに小都市などと、それぞれの地域によってその差は非常に大きなものがありましたから、当時何々が手に入った.....と一律に言い切れないものがあります。その理由としては、産地ごとの生産能力の差と、さらには生産地から消費地への輸送能力の減退が挙げられます。 この頃にわたくし自身入院したことのあるさる医大の付属病院、まだ一日一度だけお粥が供されていたと祖母から聞かされたことがありますが、一族が経営する個人経営の病院では、前述のように、患者に食事を供することは元々からありませんでした。 ことに昭和19年から20年にかけては、食料の逼迫は激しく、ことに大都市などではいち早く米や麦が姿を消しました。大都市はもとより、次第に地方都市でも、病院の中庭、学校の校庭、こうした場所では甘藷(さつまいも)が栽培され、自給自足が叫ばれましたが、それにも限度がありました。とうもろこしの粉はまだいい方、しまいにはヌカやフスマといったお馬さんが食べるようなものを口にせざるをえませんでしたし、こんな粗末な材料で作った「ドンツクパン」なんてものが飛ぶように売れた究極の時代でした。 しかも、都市部は次々と空襲によって焼け野原となってしまい、住む人の数も激減してしまいました。頼るは配給だけ、それでも夫(父親)が出征兵士として戦地にある家族などにはある程度の優遇措置が見られるなど、「銃後」の相互扶助の意識がまだまだ暖かく生きていたと思います。 それに比べれば地方の小都市の場合はまだ幾分かの余裕があったと思います。ただし、以下は経営者一家と看護婦(今日の看護師)や家政婦などだけに用意されたレシピです。患者たちが何をどのように調理して食べていたかまでは記憶にありません。 記憶にある範囲では、この頃の昼食は主に配給で得たり小作農たちが持ち込んだ甘藷をふかしたもの、ときにはそれが馬鈴薯(じゃがいも)に代わるぐらい。それでも病院とあって、配給にはたぶんかなりの公的な優遇措置が取られていたと思いますが、それだけに、多量に溜め込んだ甘藷や馬鈴薯の山は倉庫の中で次々に腐りはじめ、ふかし芋にすると緑色に変色したりしたものでした。 夕食といえば、主食は配給で得たわずかな米で作った透き通るほどのお粥、ただし麦と甘藷や馬鈴薯がかなり入っているためになんとなくねずみ色っぽい感じ、これがドンブリ一杯ずつ。お菜は甘藷のツルを醤油で煮たものとか、庭を畑に変えて栽培した自家製の野菜の煮たもの、それに漬物ぐらい。タンパク質や脂肪分が不足気味でしたが、稲につく昆虫のイナゴを焼いて干したものとか、時には川魚や塩鮭などが手に入ることもありました。 配給制度といえば、米と塩は統制品としてことに厳しく分配されました。ほんの近年まで残っていた米穀通帳ですが、これはその当時からのもの、当時は通帳の一部が切り取り式のクーポン券のようになっていて、割当量をそのクーポンで受け取っていたと思います。配給はかなりの品目に及び、砂糖をはじめ、子供にはクレヨンさえその品目のひとつになっていたことを記憶しています。 ただ当時は、地方の小都市の病院の経営者ともなると小作農を抱えていたし、彼らが作る野菜や果実などはある程度手に入っていたように思います。もちろん彼らは米麦も生産していましたが、それらはすべて「お国の物」として供出されるべきものであり、個人間の横流しに対しては官憲の目が厳しかったため、自家の田んぼの生産物でありながら入手にはかなりきわどい思いもしたはずです。 昭和20年・終戦以降....... しかし、本当に食糧問題が厳しかったのはむしろ終戦直後の方だったと思います。まさに食べるものが何にもありませんでした。子供たちにとってもそれは深刻で、多くの親友たちはお昼抜きでした。さすがに地方とはいえ医家とあって幾分かは余裕のある生活をしていたと思いますが、腐りかけた芋類をお焼きのように加工したりしてなんとか糊口を凌いでいたようです。問題は栄養不良、医師や看護婦(看護師)たちの中にもビタミンB1の不足による脚気(かっけ)や鉄分の不足から来る慢性の貧血などで倒れる人が相次ぎ、そして多くの人たちが慢性の栄養失調に悩んでいたようです。 そうした危機を乗り越えるために、経営者としてはそれなりのツテを頼って、統制の目をくぐりぬけた闇米の買出しを依頼したり、闇市の高価な食材を手に入れたりして栄養の補給に勤めたものです。そのために女性たちの高価な着物や装身具などが次々に消えて行きました。 昭和22年ぐらい以降........ 食料問題にやや明かりが見え始めたのは、たぶん昭和22年ぐらいからだったと思います。町のパン屋さんでコッペパンが焼かれ始め店頭には長い列が出来たものでした。駄菓子屋には突然のように飴玉が並び、森永や明治、フジヤやカバヤといったメーカーからキャラメルやキャンディーが売り出されと。また、この時代といえばアイスキャンデーが大流行、甘いものに飢えていたのは子供だけではありませんでした。院長も医長も医師も看護婦もサッカリンという名前の合成甘味料で甘みをつけたアイスキャンデーを競ってしゃぶったものでした。
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- buchi-dog
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戦争中の暮らしについては、個人の回想レベルから専門家の研究レベルまでさまざまな文献があります。ネットで他人に聞く前に図書館なり本屋で調べましょう。 一つだけ文献を教えて差し上げますと 戦下のレシピ 太平洋戦争下の食を知る http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31008471
お礼
せっかくネット環境があるので、色々な方達のホームページを拝見しております。 情報、アドバイス、ありがとうございます。
ANo.2さんの名回答に脱帽します。 当時の食べ物は、みな不味かったですね。 エネルギー源の主力だったサツマイモも、今のものと違って品種改良される前の世代のものですから、スジ(繊維質)や水分が多く、ふかしてもビチャビチャしていて不味かったです。とくに尻尾の方はスジばかりだったですね。 ですから屁がよく出ました。防空壕の中のスカシッペほど臭いものはありませんでした。何せ通風がないところです(笑)。 サツマイモのつるも食用になりました。これはスジを取らないと食用にはなりません。ちょうど今のサヤインゲンのスジを取るような感じで、切れないように剥いていくわけですが、アクが強く爪が真っ黒になり、アク抜きをしないと食べられませんでした。 サッカリンやズルチンの人工甘味料は、イヤラシイ、しつこい甘みで、気持ちのいいものではありませんでした。 当時は腹が減っていましたから、何でも食べざるを得ませんでしたが、今食べると喉を通らないんじゃないかと思います。
お礼
じゃがいもは、どこでも育つから、校庭などで作っていた、と聞いたことはありました。 しかし…やはり不味かったのですね…。 じゃがいもというと、今のじゃがいもしか知らないので、味のことまでは想像しておりませんでした。 ご回答ありがとうございました! 防空壕の中のスカシッペ、ですか。たしかにそれは、辛そうですね…!
- PENPENMAKKY
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当時の配給関係は地域によって違いますのでなんとも答えられません。 ちなみに大阪はとうもろこしの粉などです。
お礼
やはり、地域によって違いがあるのですね。 ご回答、ありがとうございました!
お礼
ご回答、ありがとうございます!! 本で読んだことなどの裏づけも出来ました。 その時代を実際に体験した方ならではの、具体的な描写(色のことなど)や、 知らなかった事も、たくさんあって、教えていただけて、感謝しております! 小さな病院では、元々から病院食はなかったのですね。 入院している人を支えつつ食べるものを調達するとなると、相当な負担だったでしょうね。 町医者は、病気や怪我を診るだけでなく、地域の人々との繋がりが強かった(本で読みました)とはいえ、 入院できるだけ、まだ良い方なのかもしれませんが…。 終戦後の方が厳しかったのですね。 闇市というのは、戦後に出来たものなのでしょうか…。 やはり、金銭的には一般人には買えない額だったのでしょうね。 今後は、そのあたりを調べてみようと思っています。