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戦国武将
戦国武将でこの人物がもう少し長生きすれば歴史が大きく変わっただろうと思う人物は誰だと思いますか?信長以外でお願いします。ちなみに私は松平清康だと思います。
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今川義元 桶狭間の合戦が無ければ、織田・豊臣・徳川政権は無かったのでは 無いでしょうか
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- drakichi70
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蒲生氏郷 信長がその資質にほれ込み、秀吉がその武勇を愛し、かの千利休をして「天下に2人といない文武に優れた器量人」と言わしめたほどの人物。 彼が生きていて会津を領していれば北方越後の上杉と共に徳川氏を関東に封じ込め、家康は豊臣家の筆頭大老として余生を全うした筈。
- greendale9
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今川氏輝です。
- fathar-m
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松平清康。面白いですねえ。 14歳で松平家の家督を継ぐと,瞬く間に三河を平定し,織田信秀と覇を争い・・・25歳で亡くなったのは惜しいと思います。が、家臣に弑されたのはちと残念。次の広忠と2代にわたっての家臣の裏切りが、家康のあの性格に反映してるのですかね。 ここでもう一人、3代後の徳川信康。彼が長生きしてれば,関ヶ原は,圧勝。毛利家は取りつぶされ、島津家も大隅半島の片隅に追いやられていたかも。さすれば,徳川幕府は,もっと続いていたかも。いやそれ以前に、豊臣の軍門に下らなかった、かな。
1. 織田信忠 彼が逃げ延びていたら、堺の四国遠征軍を掌握して反転して明智を討ち、織田幕府が成立したと思う。 2. 今川義元 恐らく戦国最強の武将だと思う。 彼が桶狭間で死ななければ、織田信長の出番は無く、武田信玄は甲斐の田舎大名で一生を終わっていたと思う。 3. 徳川家康 彼が生きていたら、江戸時代はもう少し開放的な時代になっていたと思う。 家康は海外貿易を積極的に行っており、彼の死によって一気に鎖国に向かってしまったので、彼の死は一種の転換点ともいえて、非常に残念。
- ben1151
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出ていますが、武田信玄。 天下にリーチだったから。 最期に「瀬田の唐橋が見える」と、言ったとか。 無念だったでしょうね。
- earli-blue
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私もNo.4の方と同じく信長の嫡子、織田信忠が本能寺の変に巻き込まれず生き残っていたなら、それ以降の歴史は相当変わってくると思います。 信忠が生きていれば織田家中が割れることは無いと思いますし、まだ天下を統一されていませんが織田家に対抗できる大名はもはやいません。信長がいなくとも織田家で天下は統一できたと思います。 織田家が徳川幕府ほど続くとは思いませんが、その後の秀吉や家康に多大なる変化が起きたでしょう。 本能寺で信長だけでなく、信忠も亡くなったことが歴史上重要な事柄だったのだと思います。
- buchi-dog
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質問者様が挙げる松平清康ですが、「徳川家康の祖父」として著しく過大評価されているように思います。本格的な活動を行う前に死んでしまったわけですから、客観的には「能力の程は良く分からない」と考えるべきでしょう。これは信玄の嫡子の武田義信と同じです。 「清康公がご存命であれば、松平家が今川家の配下になることもなく独立を維持できたのでは」という、松平家臣の「死んだ子の歳を数える」心理が、清康の人物像を拡大しているように思えます。 さて、「戦国武将でこの人物がもう少し長生きすれば歴史が大きく変わっただろう」と言える人として、私は 豊臣秀長(1540年~1591年、享年51歳) を挙げます。 当時としても、51歳での死亡は「天寿を全うした」とはいえません。仮に70歳まで存命とすれば1610年まで生きています。 1610年の時点で、 豊臣秀次 42歳 豊臣秀頼 17歳 となります。 豊臣秀吉の縁者で、まともに仕事が出来る人は秀吉、秀長、秀次の3名、それと「武将としてきちんと教育された秀頼」だけです。秀次は、決して凡庸な男ではなく、徳川秀忠程度の器量は持つ「役に立つ男」でした。 秀長が健在であれば、秀頼にはきちんとした武将が守役として付けられ、まともな武将に成長した筈です。現実の秀頼は、淀殿の下で大坂城に籠って武将としての教育を受けず、ただの「デクノボウ」に終わってしまったようですが。 さて、1610年頃まで秀長が健在であることは十分期待できました。 史実 「豊臣秀頼が1593年に誕生」 「豊臣秀吉が1598年に63歳で没」 がそのままとして、下記のようなことが期待できます。 1. 秀吉の実子である秀頼の誕生(1593年)の後も、秀次は「秀吉の後継者」としての地位を維持する。 秀吉と秀頼はあまりにも年齢差がありすぎ、秀吉から秀頼への直接の権力委譲が無理であるのは、冷静に考えれば分かることです。豊臣政権の崩壊は、秀吉が「唯一の後継者」である秀次とその一家を抹殺した時から始まっていたと言えます。 秀長が1591年に没せずに健在であれば、必ずや兄の秀吉を説得し「豊臣家の安泰のために秀次はどうしても必要」であることを納得させたでしょう。 2. 秀長が存命であれば、何のメリットも期待できず、国力を消耗しただけの朝鮮出兵は行われなかったでしょう。即ち、小田原北条氏が消滅して「天下統一」が成った状態で、日本は平和を謳歌する状態が続くことになります。 3. 秀長が当時の天寿である70歳台に入る1610年以降、「まともな武将に成長した」秀頼が成年に達して、秀次が関白職を秀頼に譲り、豊臣政権が何事もなく継続したでしょう。秀次は、その後は後見役として秀頼を支えます。 ※ 秀次が関白職を実子に譲りたいと言い出せば一騒動ですが、存命の秀長が秀次を抑えたことでしょう。 子供に恵まれない秀吉一族の中では例外的に、秀次には何人も子がありましたので、秀頼の義理の甥に当たる「秀次の息子たち」は豊臣家の藩屏として役立ったでしょう。 ※ 秀吉の養子である秀次は、秀吉の実子の秀頼の「義理の兄」となります。 秀長は家康(1543年生)より少しだけ年長ですので、同じ頃に家康も「江戸の大名」として天寿を迎えて歴史から退場します。豊臣政権は揺るぎません。 石田三成(1560年生、1610年には50歳)を筆頭とする豊臣家の官僚たちが実務を取り仕切り、日本は近代化の道を歩んで行ったと思われます。恐らく、現実より早く。
- oresama72
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No4の方と同じで前田利家、それから豊臣秀長。この二人のうちいずれかが 生きていれば、豊臣家臣団の分裂もなく豊臣政権が続いていた可能性があると思います。
- LINHOF
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豊臣秀吉 家康より長生きしていたら徳川幕府は無いから。
- cse_ri2
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私は織田信長の嫡男、織田信忠に一票です。 厳密に言えば庶子の兄がいるのですが、信長の晩年に信忠は、内外共に実質的な織田家の後継者と見なされていました。 信長が勢力を拡大した後、信忠は時には多忙な信長に代わって一方面軍の指揮を任されることもしばしばあり、また父の居城だった岐阜城で大名クラスの領地を治めるなど、兄弟と比べても一段上の扱いでした。 諸事天才肌の信長のような才能は発揮しませんが、任された仕事は着実にこなしており、武田家征伐では実質的な総指揮官の立場でした。 信長が直接指揮しないと、角付き合ってバラバラな行動になりがちな織田家の方面軍司令官クラスの家臣たち(柴田・丹羽・秀吉・光秀など)も、信忠が指揮をとる場合には一致した行動を取っています。 仮に本能寺の変で信忠が生き延びたとすれば、織田家の諸将は信忠を担いで光秀と対決したであろうことは、容易に予想できます。 その場合、秀吉が台頭することはなく、おそらく信長よりは穏健な性格だった信忠を中心として、織田家による天下統一が成し遂げられたと思われます。 参考:ウィキペディア『織田信忠』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0
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