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(江戸時代)将軍が天皇を訪問していた事実は?

江戸時代には7年間に一度、将軍が天皇を訪れていたと読み取れる記述に出合いました。これは史実ですか。 この話の出所はオランダ商館医の帰国後の著述物であろうと推測します。 よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

将軍本人が京都をおとずれるのは家光の時代を最後に幕末までありませんでしたが。 家光以前でもそんなに頻繁にはおとずれていません。

sono-higurashi
質問者

お礼

正しい知識はありませんが、体制の安定期に将軍が直々に天皇を訪れていたというのは疑問に思い、御聞きしました。 有り難うございました。念のために本日中は締め切らないでおきます。またの機会にもよろしくお願いします。

その他の回答 (2)

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

#1の回答にあるように、家光以降は14代将軍家茂まで上洛の記録はありません。 その間は、将軍名代が天皇に謁見していたようです。 まぁ、江戸幕府当初と幕末に上洛が多いですから、政治的な意図が理解できます。

sono-higurashi
質問者

お礼

どうやら、「7年間に一度」説は初期の混乱期の会見が誤り伝えられたものと考えるのが妥当なようです。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

回答No.2

 意外なお話でしたが、やはりそういうご回答もありました。  軍事演習、軍事示威で御狩をしましたが、その状況や普段のメンテナンスのいろいろを自治体の講座で勉強し、葛飾と千住、向島などが川で隔てられていなかった時代もあり、小菅の刑務所などは将軍の休憩かなんかのお屋敷であった時代。  名前にも残る、葛飾の白鳥。狩は千住の向こう、松戸あたりもあったらしいし、いろいろ捕獲したが、白鳥はワタを出して、塩詰めして、京都の禁中に早馬。禁中はお吸い物とかにしていた。  という貢は長く継続していたようですが。

sono-higurashi
質問者

お礼

呉越同舟とでもいうのか、面従腹背とでもいうのか幕府と朝廷は一定の範囲で尊重(だか、牽制だか)し合っていたイメージがあります。互いに高度に形式ばった儀礼の交歓はあったのだと推察しています。 武家の合理主義からいうと不可解なようにも、また権威主義からいうと当然のようにも思えます。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

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