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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:教育者アラン)

アランの秩序と革命に対する姿勢

このQ&Aのポイント
  • アランは交通信号の例によって秩序のもつもっとも端的な性格を示している。
  • 彼は戦争反対であったのにひとたび戦争が始まると、わざわざ一兵卒として志願し、最前線で民衆出自の兵たちとともに戦った。
  • 彼には有名な「軽蔑は従うための理由である」、「従いつつ軽蔑する、これ王者なり」、「身体で従い、けっして精神では従わないこと。完全に譲ること、と同時に完全に抵抗すること」という言葉がある。これらの言葉はアランの中に始終出てくる。これこそ秩序の維持と精神の自由の維持との秘訣であり、革命家たちのもって銘ずべき逆説である。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

『教育者アラン』という本は、未読のため、回答には限界がありますが、分かる範囲で回答します。 まず、アランは人間のなかには、知覚、意志、行動という三つの柱がある、というふうに考えています。 知覚というのは、生きた人間、身体としてある人間にとって、非常に不安定なものでもあります。身体の動きや身体をとりまく外界の変化に絶え間なく影響を受けるからです。 ならば、一切から離れ、ひたすら自己の内部にとじこもることで真理に到達できるのか。 そうではない、と考えるのです。自己に抵抗するもののないところでどれだけ考えたところで、それは夢想、あるいは妄想である、と。 身体の動きに盲従することもなく、情念を抑制しつつ正しい知覚を得るにはどうすればよいのか。そういうことを可能にするのが意志である、というふうに考えるのです。 ここがアランのおもしろいところで、意志というのは、自由な精神として、身体、さらには外界の外にあり、こうしたものに制約されない、全く自由な精神としてなければならない。 さらに、この意志は何のためにあるのか。それは行為するためにある。 アランは哲学を単に知的追求の対象とするのではなく、教え子たちに正義の実践を説きます。 彼は一貫して反ファシズム、反帝国主義、反戦平和主義者としてあったわけですが、こうしたアランが「平和」や「自由」を戦争とは無縁のところで、危機に直面し、死につつある人が大勢いるにもかかわらず、自分は安全なところでぬくぬくと考えることで良しとするだろうか。 まず何を置いても彼は行動に出ただろう、しかも前線に立つことを希望しただろうと思います。 > 交通信号の例 これはおそらく『マルス、または戦争批判』のなかに所収されているのではないかと思うのですが、わたしは読んでいないので正確にはわかりません。 けれど、『世界の名著12 アラン/ヴァレリー』の解説にはこういうふうに説明してあります。 「たとえば直線は、人間がその存在を強く意志するのでなければ存在せず、いつまで待っていても与えられるんものではないのである。自由そのものについても同じであって、自由の存在は証明しえない。自由を意志するのみである。」(桑原武夫) たとえば、身近な例で考えると、近所に大きなクスノキがあった。ところが道路を拡張することになって、クスノキは切り倒されてしまった。当初、道路を拡張して、渋滞が緩和されることしか考えてなかった人も、やがて、これまでクスノキが、わたしたちの目を和ませ、あるいは鳥たちのねぐらとなり、木の下は子供の遊び場でもあり、ネコの集会場所でもあり……といったさまざまなことに気がつくわけです。そこで、初めて人は「環境」ということに思いいたる。 つまり何かが問題意識にのぼってのは、せいぜいが、それが脅かされたとき、多くは失われたり、制限が加えられたりして初めてなのです。 けれども、「環境」に当然思いいたらない人もいる。 それは、道路の拡張をありがたいと思って、歓迎している人です。つまり、何かに気がつくためには、最低でもふたつの意見、あるいは、ふたつの見方というのを知っていなければならない。 アランは幸福論のなかでも、「ひとつの考えしか持たないことほど危険なことはない」と言います。 自由ということを考えるためには、秩序の中に入っていき、身を「不自由」な状態に置かなければならない。けれども、それはあくまで「自由」を考えるためであって、秩序に我が身を委ねるためではありません。 それと同じように考えると > 「軽蔑は従うための理由である」「従いつつ軽蔑する、これ王者なり」「身体で従い、けっして精神では従わないこと。完全に譲ること、と同時に完全に抵抗すること」 というのも、理解できると思います。 アランは反ファシスト、反帝国主義、反戦平和主義者でしたが、かといって、社会主義者でも共産主義者でもありませんでした。つまり、社会主義や協賛主義もまた、秩序の側にまわるからです。自由を求めて既存の秩序を打ち倒し、仮に新たな秩序を打ちたてたとしても、そうなると今度は自分の側が秩序を維持するためにそうでない人を弾圧しなければなりません。そうではなく、彼は、秩序の内にありながら、自由であることを考え抜いたと言えるでしょう。そうして、従軍はその思想を行動に移すものだった。 さて、質問者さんはアインシュタインの例を出しておられますが、アインシュタインとアランは立場がまったく異なり、単純な比較にはまったく意味がありません。 まず、アランが従軍したのは第一次世界大戦だったこと。 この段階ではヨーロッパ人たちも、この戦争がどういった性格、つまりは19世紀までのヨーロッパの秩序を根こそぎにし、3700万人の死傷者と1000万人の市民の死傷者を出し、政治経済の大混乱をヨーロッパ全域にもたらしたものであること、そうして、それが西洋全域に強い絶望感と文明が崩壊したという意識をもたらすものであることを理解していませんでした。 けれど、アインシュタインの場合はちがいます。 アインシュタインも第一次世界大戦中はドイツの戦争参加を厳しく批判し、しかもかれは平和主義者でありつつ、ユダヤ人国家建設運動であるシオニズムにも参加していました(当時のシオニズムと今日のシオニズムを同列に語ることはできません)。そのことで、第一次世界大戦中から、厳しい非難にさらされていたのです。そういうアインシュタインでしたから、ヒトラーが政権を執ると、すぐに国外に亡命しています。文字どおり、命の危険が迫っていたのです。 アランとアインシュタインの行動を比較することに意味はない、というのはそういうことです。 以上、この回答に関する質問、あるいはさらに聞きたい点がありましたら、補足要求なさってください。ですが、雑談を目的とする回答ではありませんので、あくまでも当初のご質問と、この回答に関するご質問の範囲内でお願いします。

noname#91067
質問者

お礼

ghostbusterさん、詳しくありがとうございます。私も「教育者アラン」の本は持っていなくそんなに詳しくはないんです。ネットで拾った言葉ですが、何となくわかってきました。それで私は実に単細胞ゆえ、自己完結しがちで、「お礼以外の適当なことも書いてしまいがちである」という自覚までも得ました。 アランの幸福論に「私が信頼すれば彼は正直となる、非難してかかれば彼は私のものを盗む」「信じようとする人は証明を見つける、ただ信じるだけの人は何を信じているのかさえ知らない」というのがあり、軽蔑しているのに従い信じることで何が信じるに値させているのか明確な証拠を引きずり出そうとしたのでしょうか? すごい想像力(創造力)ですね。単に真面目に従ったのではなく、多角的な可能性と選択の道を考えたのでしょうね。 >何かに気がつくためには、最低でもふたつの意見、あるいは、ふたつの見方というのを知っていなければならない。 >自由ということを考えるためには、秩序の中に入っていき、身を「不自由」な状態に置かなければならない。 という言葉が印象的です。 アランは「自由主義」(リベラリズム) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9 に近い思想か、或いはそうなのかともおもいました。 「立場入れ替え可能性の確保」に似ていると思います。 検討違いでしたら又ご教授お願いします。 結果どうなったのかも気になります。 「王者」というからには支配できたような自信が感じれます。 新たな秩序を内部から作らさせ秩序を変革させれたのでしょうか? それにより反戦派や人民にも同意を得られ、自由を示すことができたのでしょうか?回答を強いるものではありませんが、違う見方もある可能性を信じるのは、雑談は無効とする理由である!(?)まだ締め切らず待ってみます。 アインシュタインは戦争というより、人種差別思想によるホロコーストから逃れる為移民をしたんですよね。実は感謝するほど好きなのです。博士の名誉の為の弁明も出来ますが、割愛します。

その他の回答 (2)

回答No.3

>よく出てくる「軽蔑」はどういうものでしょう? この軽蔑は、普通の意味、辞書的意味の軽蔑でしょう。 ただ、ひとつ気をつけておかなければならないのは、わたしたちがふだん軽蔑を感じるのは、自分を規準にして、劣ったものに対してです。さらには、力のないもの、美しくないもの、地位の低いもの、知性に欠けるもの、そういったものに対する軽蔑は、同時に力の感覚でもあります。軽蔑することによって、相対的な優越感をわたしたちは得ることができる。 それに対して、アランの言葉に出てくる「軽蔑」は、自分より上位のものに向けられていることに注意しておくべきだろうと思います。 自分を支配してくるもの、自分に力を及ぼそうとするもの、そういうものを軽蔑することは、自分より劣位のものを軽蔑することとは根本的に異なっています。 わたしたちは、ふだん自分を支配してくるものは、自分より上位にあるもの、自分より優れているもの、自分より力のあるもの、と、無意識のうちに考えています。というのも、自分より劣ったものに支配されていると思うと、自分の自尊心が傷つくからです。 けれどもアランはそうしたものに批判の目を向けよ、軽蔑せよ、という。そうすることで、唯々諾々と従うのではなく、考えよ、と言っているのです。 そうしたものを軽蔑する、とは、たとえば、政府が悪い、首相が悪い、官僚が悪い、と言うことなんだろうか。 確かにそうした批判は、無批判に従っているのとはちがう。けれども、その実、自分より上位のものを引きずり下ろし、軽蔑しているだけです。そういう「偉い」人を軽蔑することで、劣位の人間を軽蔑するより、さらに力の感覚を得るのです。 それが証拠に、批判ばかりしている人は、決して、どうしたらいいか、を考えようとしない。それは、誰かほかの偉い人が、なんとかしてくれるだろうと思っているからです。 だれか偉い人ならどうにかしてくれるはず、と思いながら文句を言っていることとは、「従いつつ軽蔑する、これ王者なり」「軽蔑は従うための理由である」ということと、本質的に異なっています。つまり、この「軽蔑」というのは、同時にみずからのありようを厳しく問いつめることといわば、車の両輪としてあるのだと思います。 > 秩序の中で従う相手にも自由という試練を与え一切助けてはやらないというキビシ目にとるのか、これも逆説で、実はそこは譲れない助言や説教してやりたい(それが先生の生き甲斐だから)のに関わりを求めてないから寂しくなる自分さえ戒めているのでしょうか(捉え方が変かも) どちらもアランの思想とは何の関係もありません。そもそも個人主義というのは、相手をどうにかしてやろうという意図をもつものではありません。 > ユゴーやロマンロランの思想との違いは? どういう意図でこのような補足を出されているのかわかりません。 少なくともある程度の著作を読んで、それからご質問ください。 > 個人の所有権とするより、社会に還元しような大きい目的や責任感があってこそ自由の醍醐味ってあると思いますし。 こういうことは言っていません。ここからさらに説明をしてもいいのですが、前提となる知識を共有していないところでは、正確に伝わるとは思えません。 インターネットで得られる「知識」というのは、どこまでいっても知識にも満たない情報の断片です。ここでさらに断片に断片を重ねたところで、質問者さんの理解の助けにはならないと思います。 ですから、興味を持たれたのであれば、これを足がかりに、ぜひその著作にあたってください。 失礼なことを書きました。気分を害されたらお詫びします。

noname#91067
質問者

お礼

ghostbusterさんありがとうございます。私にも(高校中退;シングルマザー)理解しやすく説明して頂きお世話になりっぱなしです。こちらこそ質問が簡略し過ぎ(手抜き)があったことお詫びします。こちらこそ、お気に為さらない事を…。 軽蔑も差別用語のようで、ここでの使い方は「優位にある人を無責任に見下し煩悩を満たす(?)のではなく、素直とか従順とか同情を送るだけでなく!理解者として努められる自尊心や、自分の資質は失わなせない生きかたを考える姿勢」とのことじゃないかなと思いました。 >車の両輪 は相好関係であるということですよね。どちらかだけ走ったり、アクセルやブレーキをすることも出来ないですし。(理論的には出来ますけど) 補足内にあった >北欧の福祉国家を見ても離婚率も出生率も低い。の離婚率は高いです。おそらく80%ぐらいに達しているでしょう。「結婚という概念」が薄くなってるかもしれませんね。 ヴィクトル・ユーゴー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%82%B4%E3%83%BC ロマン・ロラン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A9%E3%83%B3 の著作のタイトルだけを読んでも一体どれが革命の話か、国民の意識水準が高められるものとなれるのかさっぱりわかりません!(という低学歴低所得者、低俗な私)そういう意味で質問にしました。 私にはこれだけの情報しかなく、もしかしてユゴーもロマンロランは適当でないかも…アランの情報もネットだけで済ませてましたし。 アランの文献も含め図書館にあるか探してみます~。 こんなにマクロ話が好きで、学ぶことは興味があるなら無益ではないと思います。実は意に反して現実逃避になってるかもと思うのですけどね。

noname#91067
質問者

補足

ghostbusterさん、いえ、とても気分がいいです♪出会いに感謝します。お礼前に言葉足らずであった部分の補足をします。 ユゴーやロマンロランを知りたくなった理由に、「国家は憲法に違反して金持ちの優遇をし弱者を苦しめている」現状が日本に浸透しつつあります。 国民を苦しめているのは犯罪者とともに国家である。国家が合法的な犯罪者となる下がるのを恐れています。 フランスで現状を変革しようとしたのがユゴーやロマンロランという思想家であるというのを人伝で以前聞いていたからです。(それまで自分では調べていなかったことは愚鈍という以外ないです;) 単に福祉国家になればいいのかというと、北欧の福祉国家を見ても離婚率も出生率も低い。それは老後の心配も家族の絆も不必要なさせているようでもあり、日本で家庭を持つと自分の小遣いが減る、子供の教育費が嵩み働きたくても時間に余裕がなくなる。という生活苦から晩婚、増える離婚率、少子化となっている日本と同じ現状になっており、福祉政策も教育と医療についても国民が考え政府に打ち出し改善に繋がるといいなと思っています。 以前「朝までテレビ」で「視聴者からのFAX」を読み上げ専門家が答えるというコーナーは無知な私にとても有意義でした。悪いが専門家同士の討論より、より具体的に問題を指摘し納得する改善策があったのを覚えてる。

回答No.2

お礼欄拝見しました。いくつか疑問点を出されていらっしゃいますが、少し順序を変えさせてください。 > アランは「自由主義」(リベラリズム)に近い思想か、或いはそうなのかともおもいました。 そうですね。前回の回答でも引用した桑原武夫はアランのことを「個人主義的自由主義」と呼んでいます。 「アランは『皆といっしょに押すこと、しかし皆といっしょに考えぬこと』(マルクス・アウレリウス)という戒律が好きである。社会生活における協力の必要なことはいうまでもないが、自由は究極において個人のものでなければならない。彼の立場は個人主義的自由主義である。彼は権力には常に否定的だが、同時に秩序を重んじる。この前提条件なしに個人の自由は確保されえないからである」 ただ、この思想は「リベラリズム」と通じる部分もあるのですが、政治思想としてのリベラリズムとは若干異なるものです。この点に関しては後述します。 > 軽蔑しているのに従い信じることで何が信じるに値させているのか明確な証拠を引きずり出そうとしたのでしょうか? 多少整理が必要なようです。 > 軽蔑しているのに従い というのは、秩序の内に生きる、ということです。なぜ秩序の内で生きなければならないか。それは、上の桑原の引用にもあるように、これ抜きでは個人の自由が確保されないからです。 > 信じること 秩序に従うことは、その秩序を信じることでも、秩序を維持している支配者を信じることでもありません。 むしろアランはそういうものを疑い、不信の目を向け、ときに軽蔑することをさえ求めます。 ですから「軽蔑しているのに従」うのは、秩序を維持するためであり、同時に自らを不自由の立場に置くことで、逆に「自由」ということを考え抜こうとする姿勢が現れているのです。 > 「王者」というからには支配できたような自信が感じれます。 確かに、「王者」という言葉の内に「支配」を見いだすことは可能です。 けれど、支配するもの-されるもの、という関係にある限り、決して人は自由になれません。というのも、支配しようと思えば、支配される対象が必要だからです。支配されるものがいて、初めて支配-被支配という関係は成立します。つまり、言葉を換えれば、支配する者は支配される者の承認に依存しなければなりません。 > 「従いつつ軽蔑する、これ王者なり」 けれど、この文脈での「王者」は「支配」という含意を含んでいるのでしょうか。だとすると、「従いつつ」ということと齟齬を来すのではないでしょうか。むしろ、ここの「王者」とは、表面的には従うけれど、精神においては「誰からも支配されない」という自負を読みとるべきであるように思います。 > 新たな秩序を内部から作らさせ秩序を変革させれたのでしょうか? > それにより反戦派や人民にも同意を得られ、自由を示すことができたのでしょうか? アランは体系的な哲学を打ちたてることを拒否しました。固定されれば、真理は死ぬ、と考えていたからです。けれども、他方では教育者として、アランは多くの人に影響を与えていきます。 たとえばフランスでは第二次世界大戦中、レジスタンス運動が起こります。 広汎な運動をここで要約することはできないのですが、アランの教え子であるシモーヌ・ヴェイユは、レジスタンス活動に参加していますし、基本的に個人の意志と行為に依拠するレジスタンスという運動が、第二次世界大戦中に生まれたことは、決して彼の思想と無関係ではなかったろうと思います。 > 「立場入れ替え可能性の確保」 これはロールズの思想です。 ロールズの思想をここで紹介するのは大変なのですが、要点だけ書きます。 アランが人間の最高価値においた「自由」、これをロールズは平等とともに、共同体を形成するさいの原理と考えます。アランの時代はまだ共同体というのは、異なる思想、信仰、民族、生活様式からなるものである、という発想はそれほどせっぱ詰まったものではありませんでした。現代は地球規模で異質なものがぶつかりあう時代となったために、この異質なものの共存が、なにより重要な問題となっているのです。 ロールズが考えたのは、そうした要請に応える共同体です。 こうなってくると、個人の自由は他者の自由と共存しうるものでなければなりません。 さらにここからロールズは、「自由」を「自己実現の力」と読みかえるのです。人がそれぞれに自分の「善し」とすることを考え、それに基づいて生きていく。そうして、それが互いに他者の生き方を妨害しない。 ここでの平等とは、能力や財産、社会的地位や容姿が等しくなるということではありません。あるいは性差そのものがなくなるということでもありません。わたしたちが異なった人間である、ということは、こうしたものの差が必然的に生じてくるからです。 ところがみなが「自己実現」目指して生きていったとしても、能力に基づく格差は必然的に生まれていきます。能力がある者は自由にその能力が発揮できなければならない。けれども、その能力ある人々の産み出した富は、さまざまな税として大幅に公共の目的のために吸収されなければならない。そうやって、社会的弱者の保護に回されなければならない。 というのも、わたしたちが生まれ落ちる場所、両親を選べないように、能力もまた、偶然に与えられたものだから、なのです。わたしたちは自分の能力は自分のもの、という考え方に慣れていますが、よくよく考えてみれば、これを私物化する根拠はない。能力は社会の共有財産であるべき、というのがロールズの思想の根本にあります。 これが「立場入れ替え可能性の確保」ということです。 ですから、アランが言っていることとは、多少ちがっています。 ちょっと時間がなくなったので、雑な部分もありますがご容赦ください。 下の回答も、「協賛主義」となっているところがありますが、もちろんこれは「共産主義」のことです。もう一箇所おかしなところがありますが、どこだったかわかんなくなっちゃいました。すいません。何とか意味が通るように読みかえてください。

noname#91067
質問者

お礼

勉強になります!貴重なお時間を割いて答えて頂きありがとうございます。 変換ミス、私はしょっちゅうで馬鹿で困ってます(泣) 「協賛主義」本当にあったらいいと思いましたけど(笑) 機械は秩序に従うだけだけど、人間は間違いやすいからこそ、自らの想像力も養う必要を覚えますね。秩序の中で拘束されてようやく都合のいい自由の意味や考え方を振り回されることなく必要にします。は変ですか? >『皆といっしょに押すこと、しかし皆といっしょに考えぬこと』 アランの「個人的自由主義」面白いですね。現代に生きていたら変わってるかもしれませんね。 >異質なものの共存が、なにより重要な問題となっているのです。 >個人の自由は他者の自由と共存しうるものでなければなりません >わたしたちは自分の能力は自分のもの、という考え方に慣れていますがよくよく考えてみれば、これを私物化する根拠はない。能力は社会の共有財産であるべき、というのがロールズの思想の根本にあります。 >秩序を重んじる。この前提条件なしに個人の自由は確保されえない 秩序はロールズの場合共有財産の意味ですね? その為の秩序が富み(税収)と才能(情報とか教育ともとれそう)の分配ですね。個人の所有権とするより、社会に還元しような大きい目的や責任感があってこそ自由の醍醐味ってあると思いますし。全く全くロールズは偉い!(私はたいして出来ないのに偉そうに) お言葉に甘えて又質問なのですが、解りにくいかもしれません。 よく出てくる「軽蔑」はどういうものでしょう? 「軽蔑は従うための理由である」 「従いつつ軽蔑する、これ王者なり」 >不信の目を向け、ときに軽蔑することさえ求めます。 秩序の中で従う相手にも自由という試練を与え一切助けてはやらないというキビシ目にとるのか、これも逆説で、実はそこは譲れない助言や説教してやりたい(それが先生の生き甲斐だから)のに関わりを求めてないから寂しくなる自分さえ戒めているのでしょうか(捉え方が変かも) ユゴーやロマンロランの思想との違いは? と、質問者は何か知った風に聞きますが、これから勉強しようと思っているレベルです。もしご存知でしたら著書など教えて下さい。

noname#91067
質問者

補足

すみません、補足欄をお借りします。これは質問内容とは関係ありませんが、書き記したくて。アランの教育姿勢についてこんな言葉を見つけました。 『アランは子どもたちの短所とされるところが逆に長所となる可能性も見ています。 子どもの暴力を勇気に、強情を誠実に、遅鈍を粘り強さに、虚栄的野心を教わりかつ教えたいとする願望に、転じることができる。……各人は、自分の欠点から、この欠点に似た(もっと正確にいえば、自分に似た)美徳を引きだすことができる。」←凄い!! できが悪い生徒に欠けているのは知力ではなく、ひたすら素直に謙虚に勉強する力、勇気である。たちまちのうちに挫折する臆病さには多大の傲慢がふくまれている」「ひとは自分が欲したのと同程度の知性を得る」「すべては意志の問題である。《怠惰》こそ真の障害である。怠け者の子供に向かって彼自身を責めてはならない、勉強を責めるのだ。努力を要する、胸躍る任務を与え、彼が障害を超えるよう自信を持たせねばならない」アランは生徒の答案をていねいに採点し、「あなたはまだスタートしていませんね」とよく書き加えました。アランが生徒に対しておこなった唯一の非難は「あなたには勇気が欠けています」という評価でした』 先生の鏡にして!こんな先生が今も大勢居てくれているのかな~。 アランから学べた生徒はどんなに幸運なことでしょう。そして確かに人気があったようですね。

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