基本的な知識からかきますがすでにご存知でしたらご容赦ください。
上陸地点は本島中部の現嘉手納基地近くですよね。日本軍は無血上陸をあえてゆるし持久戦に持ち込むつもりでした。
そのへんは部隊の移動の記録でわかります。
戦闘が激しかった浦添市は連続して首里城の32軍基地の地下壕、嘉数台地、牧港と一貫して捉えられるべき連続した地形です。
戦後発展した浦添市という名称にまどわされてはみえてこないものがあります。
軍が退却作戦(転進)を取ってからは連絡網もばらばらで住民も十月十日の那覇大空襲までは危機を認識していなかったふしがあります。
那覇がおちれば本島で細くなっている首里、西原から安全だと考えられた北部地方(ヤンバル)にゆくことはほぼ不可能でした。
で軍とともに南部に逃げてゆきます。南風原の病院壕、小緑の海軍壕での司令部の自決(六月十五日)まだ日本が降伏するまえの段階です。
住民も大和の特攻隊がくれば逆転すると信じて逃げていったのでしょう。
住民の証言に百機の特攻隊が九十機近くも艦砲に散りながらわずかに突っ込んで行くさまが証言されています。
南部の最果ては糸満市です。米軍の司令官の戦死、従軍カメラマンの戦死など怒り狂う材料はいくらでもありました。
アルジェリアの解放戦線のフランツ・ファノンをご存知でしょうか?
殺す側、殺される側かくほうにも大量の発狂者がでました。そのような状況が沖縄戦の膠着した戦線の各地で記録されています。
最果ての南に開けた海岸線、隠れる場所もない岩場のなかで海にうかぶ無数の米軍の艦船をみて犠牲者はなにをかんがえたのでしょうか?
話が脱線しますがブラジル移民のいわゆる勝ち組の大多数を沖縄県出身者がしめていたことを書いておきます。
たんに追いかけていったら端っこにいっちゃっただけの話です。
米軍はこれだけの爆弾を投下しながら住民がこれだけ生き残っていたことにおどろいていたふしも見られます。
味方、敵方両方から死ぬものとしてあつかわれていたわけです。
沖縄特有の鍾乳洞がそういう結果になったものです。
詳しい言及は避けますが多分軍史、証言などで簡単にわかるとおもいますのでこのぐらいにしときます。
アメリカの戦史のほうが資料的価値が高いこともついでに書いときます。
お礼
ありがとうございました。