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長州藩のリーダー
松下村塾の塾生ではなかった桂小五郎が、どうして高杉や久坂たちの「兄貴分」として長州藩のリーダー的存在になっていったのか不思議なのですが。しかも慎重な性格の桂は、血気にはやる高杉たちにしてみたら、何かとブレーキをかけて「うざい」存在だったのでは?
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(1)家の格が藩内では比較的高かった。 (2)江戸勤めでは、技は「千葉」力は「斉藤」位は「桃井」と呼ばれた3大道場の一つ、神道無念流斉藤弥久郎の「練兵館」塾頭を務め、江戸の長州藩邸のまとめ役を勤めると同時に、藩対抗の剣術試合では常に長州藩の顔として呼ばれていた。つまり、藩内外で名声が高かった。 特に、(2)が大きいと思います。 藩主と説き伏せる、他藩と交渉をする、そういう外交は、対外的な知名度の低い高杉や他の藩士では難しかったと思います。
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- tanuki4u
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桂小五郎が、吉田松陰から直接兵学を教わったのが1849年 小五郎17歳 松陰20歳 http://www21.big.or.jp/~kirin/ で、松下村塾は1855年に蟄居してからです。 高杉や久坂にとって、師である松陰の弟分のようなものが小五郎です。 また桂家は150石で上士であり、200石の高杉家を別にすると、藩内における家格が違います。 また村田清風=>周布正之助らの長州の改革派にちゃんと藩内にあってつながるのが桂小五郎であり、学者風で藩内の政事に与っていなかった吉田松陰よりは、藩内の実力は上であった。
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ありがとうございます。たしかに松陰先生は学識や教師としての能力はあるけど,世渡りが下手で,政治的な駆け引きなどはできなさそうです…
- yakyutuku
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桂小五郎が長州藩で指導的立場に立てたのは、薩長同盟後です。薩長同盟を結び、第二次長州出征から長州を守ったのは薩長同盟ですので、彼は藩を救った英雄です。その結果リーダーとなれたのです。
補足
ありがとうございます。確かに長州藩にとっても薩長同盟の功績は大きいです。ただ同盟の時点ですでに彼は長州藩を代表して臨んでいるわけで…。すでにリーダーといっても支障ないのはないでしょうか?
- wahahawahaha7
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こんばんは。 推測で答えさせていただきますが、桂小五郎は剣が超一流で、 高杉晋作たちは一目置いていたのではないでしょうか? 少しでも参考になれば幸いです。
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さっそくの回答ありがとうございます!剣なら高杉晋作もできたのでは?彼は柳生新陰流の免許皆伝だったって聞きましたけど…思い違いだったですかね?
補足
ありがとうございます。そういえば何かの本で,高杉は人の好き嫌いが激しく,長州藩以外の人間を敵視するようなところがあったと読みました。事実かどうかわかりませんが,もしそうなら対外交渉には不向きですね…。