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ほにゃらか形而左右学 「ちから」
「ちから」に関して、哲学的考察が可能か、という質問です。 一般に、「ちから」といえば、物理学です。 重力・磁力といった、「ちから」の分析、慣性の法則の発見、などなど。 それと、生理的な「ちから」も、熱量として、生物学や栄養学、などなど。 ところで、人間は社会的動物と言う事で、必ず集団を作ります。 他の動物も、集団を形成しますが、人間の作る社会の制度は、特別です。 そこで、この社会を必然的に構成する「ちから」これが謎です。 この、社会を構成する「ちから」は、物理学上の力の様に、考察の対象になるでしょうか。 「精神のエネルギー」つまり「思考する力」 あるいは「ちからの総合」も視野に入れて、 今回の考察の、足掛かりについて、なんでも教えてください。 以下で検索した結果、 "社会力学" "力の分析" に一致するページは見つかりませんでした。
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この問題は「抽象化の意義」の問題だと思います。 今までの人類の経験によると「この世の中に同じことが繰り返し起こったことはない」と言えると思います。ところが、人間を含めた生物は、その生物から見て本質的でないと思えることを脳みその中で消去したあとに、なにか共通なものが残っていると感じているようです。その消去の結果として共通性を見つける過程を「抽象化」と呼んでいます。 例えば、3冊の本と3つバナナの間に、本とかバナナとかいう属性を全て消去した後にも共通性が残っていると主張して、その共通性を表す符号を「3」ということにしているのです。この共通性を認めるのは当たり前なことではありません。もしこれをチンパンジーに見せたら、バナナは食べられが本は食べられないので、共通性など存在しないというかも知れません。チンパンジーの抽象化の能力は人間より劣るからです。 貴方のまわりに、いつも同じ失敗ばかりしている方が大抵は一人位居るものですね。その方は、個々の失敗の事例を抽象化して、その間の共通性を見付ける能力に欠けているのです。 さてわれわれがまわりの観察や経験を通して、いろいろな事象を分析なり反省なりし、それを抽象化する過程で、どうもいろいろな事象の中に「ちから」という符号で一括りに出来るものがありそうだと考えているようです。しかし、上のチンパンジーの例でも判りますように、それを共通なものとしてとらえたときに、はたして本質を突いているかいないかは、それを思索する人の抽象化能力に掛かっています。 この抽象化は物理学が対象とする事象については、どうやら本質を突いていたことが判っています。しかし、それを化学の「親和力」という概念にまで拡張して良いものかどうかとなると、もうすでに論争が出来て来ます。すなわち、それは抽象化のし過ぎで本質の一部が欠落している可能性があるからです。 さらに「精神の力」や「集団の力」という場合の「力」という符号が、物理でいう「力」と一括りにして良いものかどうか。それに答えるにはは、例えば物理学では「力」とは量的に表される物ですが、他の「力」の符号で表されている物も量的に表現することが必要です。 人間の行為を量的に表そうとすると、少なくとも非線形数学という言語が最低条件として必要となることは判っているのですが、現在の非線形数学の言語はあまりに未熟すぎて、まだ人間の行為が「数」を使って表現し切れるものか、そうでないのかが殆ど判っていない状況です。 まとめますと「ちから」という概念による抽象化を、あらゆる事象に共通な概念として受け入れて良いものかどうか、今の段階で結論を出すのは次期尚早ではないかと思います。 われわれは例えば、それを肯定できるものだとの仮説を立てるなどして、それでどこまで押し切れるものかの分析をまだまだ続けて行く必要があると思います。
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>誤解なさいませんように、 forceの方は主体(個人や集団に関わらず)に内的な能力として備わるちから(例えばアリストテレスでは速度の原因など)、powerの方はその主体と主体との関係において成り立つちから(例えば国家権力などの社会的な力)と考えておりました。 たいへん失礼いたしました。
お礼
ご説明頂き有難うございます。 なるほど、そのような分け方があるんですね。 内部に作用する力と、外部に作用する力ですか。 日本語の場合は、分別していないようですが、 両者が別種の原因か、同じ物の違う状態か、そこが問題ですね。 ご親切に有難うございます。甘えついでに、 質問の意図を具体的にする為に、補足乱をお借りします。
補足
paradigmk様、補足乱お借りします。 特に、再回答をお願いするわけでなく、 質問をより具体的にするため、例え話(実際の出来事ですが)で、 「ちから」の相違について、ご指摘いただけると幸いです。 むかしむかし、 アメリカには「白人専用バス」がありました。 ある日、黒人の女性が、なんたらかんたらで、とにかく、 乗ってしまって、周囲の圧力にも負けず、降りなかったとか。 その事から、裁判が始まったような、paradigmk様失礼しました。 かくかく、しかじかで、 その国では、人種差別や公民権の運動が盛り上がり 完璧とはいえないとしても、 差別の減少・公民権の確保に大きく前進したとか。 このお話の中で、哲学的分析に耐えうるような「ちから」を 引き出すことができるでしょうか。
No1さまお礼文にある「個人に対して規制するちからにも成ります。」のちからはpowerの方ではないでしょうか? ご質問のちからはforceの方であると思ったのですが。
お礼
書き込み有難うございました。 言葉は、他の言葉との体系での違いで、意味の価値が決まります。 日本語の「ちから」と英語の「power」は母国語内では体系をなしていません。 ただでさえ、誤解の多い、文字だけによる対話。 誤解なさいませんように、具体的な力の分析も宜しくお願いします。
補足
power、force Ya~さんの、翻訳では、どちらも「力」 さこで、辞書を使って調べました。 どちらも、自然の力が含まれて、違いか判りません。 力には、重力・磁力、引力・反発力、等々、 色々な状態が有りますが、 本質の違いか、状態の違いかが問題では。 つまり、社会的な力の源泉としての種別と その力の、状態・関係は、個別に分析する必要があるのでは。 今回の二つの分節は、どちらなのか、英語に不案内で、 残念ながら、もう一つ理解できませんでした。
アダムよ きみはどこにいるのかという声を聞いてから わたしたちは 腰にいちぢくの葉っぱを巻くことになりました。そのあとというものは 二人の間の人格どうしの結び着きであるか それとも すでにその結び着きは 解(ほど)いてしまったかたちでの接触であるかという違いが 問題として 発生しました。 わたしは はじめの結びつきの可能性を すでに 人類は取り戻したと思っていますが 問題情況は きわめて色濃く深いものになっているようにも見えます。 ということは 問題は簡単であって それは 一時的なつながりであるとか 人格と性行為とを分断するであるとか こういった部分的な結び着きの仕方を止揚することが課題であると 皆に分かっているわけです。いまの部分的な(利害関係を重視するような)・あるいは互いに自分がかわいいという自己寄りの関係のあり方を 止めて揚げる または 揚げて棄てるのが 課題であると分かっています。 人のちから そして 人間関係のそれ したがって 社会的なちからの綜合またその動態 この主題については 一つに 上のように 対(つい)の関係として捉える方法があると考えられます。その間に子が生まれるのも 社会的なちからであるでしょう。 あるいは たとえば 一般に二人のあいだに 二角協働の関係が捉えられます。両性の対関係によってつくられる生活共同の内に 生産共同という仕事の側面ができているはづです。この協働関係からは 上の対関係から子が生まれるように 第三角価値つまり付加価値が生じます。広く(広義のかたちで)社会的利潤という大きな価値の問題として これも 社会力学の一つの視角を担うでしょう。 生産(産生)という視点で 子という人じたいとしても モノとその剰余としても 第三角の問題です。〔よのなか(男女の関係)は それと関連するのかどうか 一般に三角関係の様相を呈します〕。後者・モノの問題は価値でいいですが 前者・ヒトのそれは 価値という捉え方でよいでしょうか。社会のたからを どのように そもそも大前提として 捉えるか ここから われらが社会力学は 出発するのではないでしょうか。 また関係は 二者をつなぐ・もしくは切り結ぶものですから 愛という概念を用語として捉えることもできるはづです。生活は確かに力であり 生産も力ですが 産生の関係たる愛も 同じ力の別の側面です。 そうして 価値の生産は これを知解する科学行為に より一層かかわっていますが 対関係および二角関係を含む広義の愛という《関係》は 知解結果をどう判断しどう行動に移すかという意志の行為に より一層深くかかわっています。自己経営あるいは共同自治という意志行為 この側面も大事だと考えます。 (つまりは 科学と自治とは 経済と政治というわけですが。ただし 経済にしても政治にしても 全体として上から見て対処する場合と 個人とその関係からそしてその地点を保ちつつ 知解と意志の問題として捉えて出発する場合とは たぶん違ってくると思われます。 (単純には個人どうしの二角関係・対関係に立った科学協働や自治共同が 全体としての政治経済を 下からみちびく形と方向へ移行してゆくのではないでしょうか。もっと単純には――このgooのカテゴリにふさわしく―― 哲学が 社会をみちびくようになるかも・・・)。 そんなこんなの考えを ご質問から触発されました。
お礼
ご回答有難うございます。 二項対立の形式から、スタートですか。 確かに、個人の力から、社会の力への移行は、単数から複数へ増加する過程があるかもしれませんが、二項対立の形式ですと、相互作用という閉じた過程になり、たとえば、家族の単位としての拡大があっても、他の単位との共同の「ちから」、また逆に、反発する「ちから」こういった移行に難点が有りそうな気がします。 ただ、個人の「ちから」はあくまでも、主観的・相対的なもので、客観的科学の対象としての「ちから」としては、個人から出発しない。 このことは一つの、提案として、確かに考えなければなりません。 あと一点、個人に関して、「社会的ちから」は、社会を変えていく威力があるとともに、個人に対して規制するちからにも成ります。 この辺りの二重性を考えながらも、 出発点を、確認せよ。といったアドバイスでしょうか。 愛の力については、どうでしょう、社会的な性格があるのでしょうか。 現実には、それらしきものも観察されますが、 さて、「ちから」は科学的対象として考察できるのか、半信半疑です。
お礼
完璧な回答ですね。 背中から、シャツの中に氷を投げ込む、悪戯もお見事。 「抽象化の問題」は、私も気に成っていて、質問文も、やや及び腰なのですが、あらためて「問題」を整理していただけ、大変参考になります。 (1)物理的力・(2)生理的力・(3)精神のエネルギー・(4)個人の力・(5)集団の力 自己流で五つの力に分けてみましたが、コント・デュルケーム以来、※A「全体はその諸々の部分の総和とは異なる別のものである」と、社会的制度を具体的な研究対象としての実体として、考えているようです。つまり、上で区別した、五つの力(順番が正しいと仮定して)は、両端から実体としての研究対象となっています。「ちから」に関して、二つの方向から分析していくと、トンネルを掘るみたいに、うまく開通するかもと、期待をしているのですが。 制度と「ちから」の同一性は、これも一つの問題ですが、無関係ではないでしょう。 とはいえ、「物理的力」も「ジュール」以来、もう一つわかりません。数値化するのは便利なのでしょうが、「ちから」そのものから、「ちから」の軌跡、跡、結果を見ているような。 「社会的力」も数値化すれば、同様な、二重の抽象に成りかねないのでは、と、思ったりもします。 そもそも、「ちから」の存在論が、(2),(3),(4),(5)では、曖昧なのかもしれません。 ただ、※Aは、力の両端、「物理学」のブラウン運動、或いは有機化学の分野でも成り立つのでは、 と仮定して、ジタバタと、考えております。 数値化で押し切るのか、逆に押し切られるのか、どちらになるのか分かりませんが、参考になりました、有難うございました。