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黒田如水について

関が原の合戦のときに黒田如水は、九州で挙兵していたのですか?

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  • mat983
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回答No.1

九州で挙兵しています。下記を参考にして下さい http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98#.E9.96.A2.E3.83.B6.E5.8E.9F.E3.81.AE.E6.88.A6.E3.81.84 この頃、如水は九州にいた。石田三成の挙兵を知った如水は、家康方(東軍)として行動を開始した。兵力の大半は長政が率いていたため、如水は金蔵を開いて領内の百姓などに支度金を与え、1万人ほどの速成軍を作り上げた。如水はこの兵力を率いて、9月9日(10月15日)豊後に侵攻した。 同日、再興を目指して西軍に与した大友義統が、毛利輝元の支援を受けて豊後に攻め込み、東軍の細川忠興の飛び地である杵築城を包囲攻撃した。城将・松井康之と有吉立行は如水に援軍を要請、如水はこれに応じ、9月13日(10月19日)、石垣原で大友義統軍と衝突した。黒田二十四騎に数えられる母里友信らの活躍もあって、黒田軍は大友軍に勝利した。 その後、如水は、西軍に属した熊谷直盛の安岐城、垣見一直の富来城、太田一吉の臼杵城、毛利高政の角牟礼城と日隈城、佐伯城、毛利勝信の小倉城、毛利信友の香春岳城などを次々と落としていった。しかし、関ヶ原の戦いがわずか1日で決着がついたことを知ると、占領した城を家康に献上して居城に戻り、軍を解散した。 如水のねらいは、九州を統一し、その兵力を率いて東上し、家康に決戦を挑んで天下を取ることにあったとも言われる。息子の黒田長政の活躍により、関ヶ原の合戦が短期に終結したのは、皮肉な巡り合わせと言えるかも知れない。