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自我
コンタクトレンズやめがねを身につけている人にとってそれらは自我に含まれると言えるでしょうか?
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心理学はさっぱりで、ウィリアム・ジェームスは聞いたことも有りませんが、社会学系でも同様な「わたし」に対する理解の仕方があります。 動物達がテリトリーを守ろうとするように、私たちは、この身体だけではなく、外部に対して「わたし」を拡張していくわけです。空間だけでなく、道具も他人も支配しようとする傾向があるわけです。 自分が勤めている会社を、「私の会社」と言ってみたり、自宅の前の公道に他所の車が止まっていれば不快になってしまうものです。 尤も、だからと言って、必ず占有が必要とも限らず、十分に共有も可能な場合もありますし、私の身体だからといって「自殺」が一般に否定されているように、完全に処分可能な所有物でも無い面があります。一概には言えないかもしれませんが、基本的には、「わたし」はできるかぎり拡張しますから「となりのわたし」はその圧力で、身動きが取れない、という「わたし」も出てきてしまいます。 コンタクトレンズもそうですが、身近な、歯ブラシ・タオル・下着からブランドのハンドバックまで、「わたし」を大きく見せる道具ですね。 「自分の身体は、人間の現実存在(生存)にとってはじめから自分のものとして前提されている。身体は「自己」に帰属するかぎりで、「我」は身体に対してわがものとして関係し、そのように関係することで身体を「わが身体」として所有する。「我」は身体を所有しつつ現実存在する。身体において「我」は存在し、身体の所有と「我」の存在は不可分で一体である。同様に、生産条件は「延長されたわが身体」であるからだ、生産条件への関係は自分の身体への関係と同じである。所有とは二つの身体への関係である。自分の有機的身体と自分の外にありながら自分の身体の延長である非有機的身体への二重の関係、それが生きることであり、生産することであり、所有しつつ存在することである。 このような原初的関係は(二重身体への所有関係)は、あらゆる社会形態とは独立に、人間が人間であるかぎり、どこにでも横たわる普遍的事実である。」(『交易する人間』今村仁司)
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- mmky
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コンタクトレンズやめがねを身につけている人にとってそれらは自我に含まれると言えるでしょうか? 自我は正確に分類すると「真我」と「仮我」に分けられます。 「真我」はなにおもにも囚われない自分です。現代風に言えば個性を持ったエネルギー体という意味で形に囚われない存在の自分ですね。 「仮我」は現在の肉体に囚われた自分です。自分は例えば日本人で髪は黒く身長は170センチ、コンタクトを愛用しているとかですね。 これを簡単に比喩するとガンダムに乗ったアムロは、ガンダムを操縦するアムロが「仮我」でガンダムから降りたアムロが「真我」ということですね。どちらもアムロですから簡単にに分離はできませんね。めがねやコンタクトはガンダムの標準装備みたいなものでしょう。 それと同じですから、 コンタクトレンズやめがねを身につけている人にとってそれらは自我に含まれるといえるんですね。細かく言えば「仮我」ですけど。 死ねば肉体はなくなるのでめがねは必要ないですね。しかし生きている間はめがねも肉体補正の一部ですから自分自身の表現、特徴になりますね。生きるということは自分の肉体特徴を含めた状態ですからメガネも含まれるが正しいと思いますよ。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
補足
>個性を持ったエネルギー体という意味で形に囚われない存在の自分ですね。 形に囚われない存在というのはでまったく没個性的で、まるでのっぺらぼうのような存在のようにも思えますが。 >これを簡単に比喩するとガンダムに乗ったアムロは、ガンダムを操縦するアムロが「仮我」でガンダムから降りたアムロが「真我」ということですね。どちらもアムロですから簡単にに分離はできませんね。めがねやコンタクトはガンダムの標準装備みたいなものでしょう。 よく分からないのですが、例えばバスの運転手さんは非番のときはただのおっさんということでしょうか? なにものにも囚われないということは無規定ということですからアムロという名前さえ消滅してしまうようにも思えますが。 どうなんでしょうね。
- littlekiss
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のっけから、アホてなぁー。 聞き捨てならんやおませんやないか?何故?そらそうやろう、アホいうたらわたしの十八番! そしたらアホな話をひとつ コンタクト、めがねというても視力が弱って装着してはる人と、そうではなしに伊達で装着してはる人おりますわなぁー。おっと、パカッとふたつに分けてしもたけれど、視力が弱って装着してはる人の内にも伊達を気取る人はおりはることやろうからここは注視しとかなね。と、このことはひとまずおいておいて。 いやー、お金かかるよ。しかし、ひと昔前に比べたらコンタクトレンズにしてもめがねにしても価格帯にかなり幅が生まれてきてる。その甲斐あってその時々の懐具合と相談で選ぶことができる。コレしか無いではなしにね。お金に余裕があればいざしらず、お金に余裕がないときにコレしかないとばかりに性能の程はそうでもなくとも高い高いお金を支払い購入せなあかんと(選択の余地がない)。視力の弱い者にとっては、必需品だけに四の五の言ってもいられない。日々使用するモノだけにひと昔前の人はきつかったやろなぁー、経済的にも。そうしたら現在の人はきつないんか?価格帯に幅が生まれてきてるから、欲をいわんと見えたらええとするなら低価格で購入は可能。そやけど、そこは人。欲深さがまた人の性でもあるから、機能性、みためと…etc要求は高まる。ただ見えるということだけでは気がすまんようになる。もっともっとと。欲がわく。人の欲は底なし。気がつけばコンタクトレンズ、めがねに費やすお金結構な額。携帯電話もコレに同じく。 ど.れ.に.し.よ.う.か.な… ↑ 心の葛藤 ↑ 自我 ↑ 含まれる きっついわぁー 昔も現在も(コトの次第は別としても) タガが必要になる 自分自身との戦い Hey Hey Hey Girl 仕事だから とりあえずがんばりましょう Hey Hey Hey Boy 空は青い 僕らはみんな生きている (SMAP がんばりましょう より~) http://www003.upp.so-net.ne.jp/shigeri/info/storage.html http://www.komoto.org/elec/flashmem.html
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
補足
アホな話とは思えませんね。 ただ心の葛藤が解消したらめがねはどうなるんでしょう?
- bananasand
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高尚なギター演奏者であっても、ギターは自我に含まれるとは言えないでしょう。しかし、ギターのフレットの感覚や演奏のいわゆる技は、当然に自我に含まれるでしょう。 めがね、補聴器の類は、物理現象を明瞭に受信する補助をしているだけでとても自我とはいえません。でも、めがねを通して外界を見た感覚や感動は自我のものでしょう。 もし、めがね自体が自我ならば、TVもラジオもインターネットも伝書鳩さえ自我といわざるを得ません。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
補足
めがねやコンタクトはほとんど身体の表層面にあって感官の役目を担っているようにも思えるんですが。
- sakusya
- ベストアンサー率18% (6/33)
動機とか補足とかは取っ払って、最初から簡単に質問の内容だけ考えて答えればよかったんですよね、ごめんなさい。 眼鏡やコンタクトをつけている人を客観的に見て、それも自我の一部といえるのか否かということではなく、あくまで主観的に見てどうか、ということですね、多分。 自我に含まれると思います。服を着ている人にとって、それが自我の一部と言えるなら、眼鏡やコンタクトもそれと同じだからです。視力が悪くなくても、度なしの眼鏡をして、ファッションとして身につけている人がいるぐらいですから。 コンタクトもそうです。カラーコンタクトというものがあるぐらいですから。 でも、「視力が悪いから、仕方なく眼鏡とかコンタクトをしている」と言う人は、それを自我だと思っていないでしょうね。私もそうです。 自我は客観的なものと、主観的なものに分けられますよね。今回はあくまで主観的に見た上でですから、自分がそれを自我だと認識しているのなら、それは自我に含めてもよい、ということです。 え~と、つまり「眼鏡やコンタクト=ファッション」と認識している人は、それを自我に含まれていると言え、「眼鏡やコンタクト=視力が悪いから仕方なく」と認識している人は、自我に含まれているとは言えない、といった感じです。 あくまでファッションが自我に含まれている言えた場合での話ですが。 つまり、人それぞれ、というこです。結局、優柔不断な答えになってしまいました。 私のアホな頭では、これが限界です。ちなみに、私が経験者というのは、私自身が眼鏡をかけているからです。 的外れなうえ、結論がでない割には長々と能書きをたれて申しわけございませんでした。これで最後にします。 本当に力不足でごめんなさい。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
- sakusya
- ベストアンサー率18% (6/33)
ウィリアム・ジェームズでしたっけ? 確かにその人の定義で言えば答えはYESです。ですが、私から言わせれば、哲学に絶対的な定義は存在しません。 だから、最終的に自分なりの答えを見つけ、それで納得できるのであればOKということです。 あなたがウィリアム・ジェームズの定義でこの質問をされているのなら、もはや答えは出ているといってよいでしょう。 つまり、「眼鏡やコンタクトをつけるのは、ウィリアム・ジェームズの定義で言えば、自我に含まれていると言える」というわけです。 何度も言いますが、哲学に絶対的な正解や定義はありません。「あなたのそれも定義ではないですか」と言われるでしょう。 そうです。ですから先ほども言ったとおり、最終的に自分が納得できるのであれば、それは自分なりの正解と言うわけです。 もし、それ以上のものを求めるのなら、哲学ではあまりにも不毛、かと思います。 私はウィリアム・ジェームズの定義に賛同しますが、どんな哲学の定義であれ普遍的で絶対的ではない、ということを言いたかったわけです。 あなたが「その質問の答えはこれです」のような数学的な答えを求めていたのなら、あきらめて自分なりの答えを見つけてください。
補足
疲れますね。 質問の動機がウィリアム・ジェームズの言葉であると言ってるだけなんですがね。 彼の言葉に疑問があったからこそ質問してるわけですよ。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
>そういった個人心理的自我とウィリアム・ジェームズの言う自我は意味が違うように思うんですね。 ウィリアム・ジェームズの定義を後出しで持ち出されると、実に話しづらい。 自我についてはいろいろな哲学者がばらばらのことを言っていますから。 挙げられたウィリアム・ジェームズの言説に従えば、答はYesになりますね。 ですが、ウィリアム・ジェームズの定義が本当に正しいかということは疑う余地があります。 「誰かがこう言った」ということと、「実際にそうである」ということは分けて考えないと対話上混乱を生じます。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
補足
>ウィリアム・ジェームズの定義を後出しで持ち出されると、実に話しづらい NO3の方が質問の動機を尋ねられたからですよ。 ウィリアム・ジェームズが正しいとは言っていません。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
「コンタクトレンズやめがねを身につけている人」が自我に含まれると言うのならそれは自由です。言うのは自由ですが、言っているからといって本当に自我に含まれるかどうかというのは怪しいところです。 もちろん、自我とは何であるかにもよります。 こういう時は、類題を出して考えるのも一策です。 不慮の事故で手を失った人が、「手を持っていないこと」を自我に含めるかどうか、ということについてはどう考えますか。 自己同一性の根源を他者との差異に求めるならば、自我に含めて妥当のようです。 しかしコンタクトレンズやめがねは身体ではない、という意見が当然あります。 そこで説として考えられるのは、伊達眼鏡などでない限り、コンタクトレンズやめがねは視力を補正する役割を持っており、それゆえにそれらの付属品は、視力が弱いことという特徴を示しています。 視力の弱さを象徴するものとまでは言えましょうが、象徴される視力の弱さは自我に含んでもよいものの、それを象徴するコンタクトレンズやめがねについては自我そのものから離れて自我を特徴づけるはたらきをもつ媒体である、以上のことは言えないのではないかと思います。
お礼
>自我そのものから離れて自我を特徴づけるはたらきをもつ媒体である、以上のことは言えないのではないかと思います。 nabayoshの仰る「自我を特徴づけるはたらきをもつ媒体である」をも含めたすべての総和がウィリアム・ジェームズの言う自我のようですね。
補足
NO3でも補足させていただいたのですが、ウィリアム・ジェームズがこんな風に述べています。 「自我は人が自己のものと呼びうるすべてのもの、彼の身体や心的能力のみならず、彼の衣服や家、妻や子供、彼の先祖や友人、彼の評判や仕事、彼の土地や馬、ヨットや貯金通帳をも含めたすべてのものの総和である」 >不慮の事故で手を失った人が、「手を持っていないこと」を自我に含めるかどうか、ということについてはどう考えますか。 これは個人においてそれぞれに相違する経験心理的な自我と呼ぶべきものだと思いますが、そういった個人心理的自我とウィリアム・ジェームズの言う自我は意味が違うように思うんですね。
- sakusya
- ベストアンサー率18% (6/33)
>>コンタクトレンズや眼鏡をつけている人にとってそれらは自我に含まれると言えるでしょうか? むしろそのことに疑問をもつ理由を聞きたいです。 なぜ人間は服を着ていますか? 歴史をさかのぼって語るつもりはありませんが、端的に言えば「そういうもの」だからです。 視力が悪いから眼鏡やコンタクトをつけるのです。服を着なければならないから服を着るのとどう違うのですか。 私も眼鏡をかけていますが、それが「自我」に含まれているなどと疑問にさえ思いませんでした。そういう次元で話すものではないからです。 つまり、人が絡む全てのことがらを自我か否かで分けるというのは不毛であり極端すぎる、と言いたいわけです。些細なことがらならなおさらのことです。
補足
>むしろそのことに疑問をもつ理由を聞きたいです。 哲学者のウィリアム・ジェームズはこう述べています。 「自我は人が自己のものと呼びうるすべてのもの、彼の身体や心的能力のみならず、彼の衣服や家、妻や子供、彼の先祖や友人、彼の評判や仕事、彼の土地や馬、ヨットや貯金通帳をも含めたすべてのものの総和である」 ここは哲学関連の質問を受け付けているのではないですか?
見ている自我と見られている自我があるとすれば、ご質問の自我は見られている自我ですからそう言ってよいと思います。しかし普通自我という固い言葉は見ているほうの自分のことを意味していると思います。この意味からは見られるものは自我に属していないということになります。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
補足
>ご質問の自我は見られている自我ですからそう言ってよいと思います もちろんこの場合は、見ている自我ではなく個別的な自我についてのお話ですが、どうしてそう言ってよいのかもう少しご説明いただけませんか?
- tomy41
- ベストアンサー率22% (322/1401)
自我の取り方によると思います。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
補足
>自我の取り方によると思います。 この場合どういう取り方なのでしょうか? 宜しくお願いいたします。
お礼
ご回答いただきありがとうございました。
補足
「身体性は存在と所有の間の緩衝地帯である。あらゆる所有はなんらかの形で、わたしの身体との関係で定義される。わたしはわたしの身体を絶対的に所有する。しかし同時にわたしの身体は、どのような意味でも所有であることをやめる。 わたしが絶対的な意味で自由にすることができないもの、それが私の身体である。」<マルセル>