- ベストアンサー
太極と渦、勾玉ないしは巴
京、宇治川の天ケ瀬ダムに面白い渦ができている報道に接し、日ごろ関連性がないのかあるのか、年来意識している、表題の≪太極≫と≪渦≫、≪勾玉≫ないしは≪巴≫にどうしても観念が走っていきます。これらのそれぞれ、或は各別、総体として何かお感じのことや、持っておられる思いなどが御座いましたら、どうかご披瀝などをお願い申しあげます。或は関連するURLやサイトなどを、ご紹介戴ければ幸甚です。私自身は、古代の方々の、宇宙的創造の力や想念に関する共通のイメージではないかなと、思ってはいますが、何かと否定されてきています。でも諦め切れないで居る次第です。よろしくお願いします。これらの起源や性格とか、ご存じのことなんでもお教えくださると、とてもありがたく存じます。どうかよろしくお願いします。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (2)
- onbase koubou(@onbase)
- ベストアンサー率38% (1995/5206)
回答No.2
noname#118466
回答No.1
お礼
onbaseには重ね重ねのご教示を感謝申しあげます。 なお、たいへん失礼ですが、この欄をお借りして、夕べ思い出したことをNo1martinbuho様に書き添えさせていただくことをどうかお許し下さい。当為という、価値理念の実現要請命題に、創造界そして人間があり、存在がそういう当為の要請命題そのものだとすれば、立脚の基盤と、実現を要請されている価値・理念は回帰的とも見える、円環になるかもしれません。だから時間観念はどうか、そういう回帰のプロセスは円環状としてイメージすることも、人によってはありうるとと存じました。 また、何事に模せよ、認識や精進のプロセスもやはり螺旋やコイルの形状としてイメージせざるを得ないと、認識させられます。いろんな著述にしろ、時間をおいて、もう一度読むと、修正だけではなく、新たな意味や、少しは高次の意味もわかるときがあるのを経験するからです。構造図式のイメージはやはり螺旋状というのも事の本質の一面かなと存じました。
補足
ご指摘、ご教示の通りです。その通りです。私のスタンス、考え方の基本に欠陥があったことを認識させてもらいます。何でもつなげてみようとするのは、時に正鵠へとの機会や糸口になるかもしれないが、結論の抱懐になっていくのは誡めなければならないと存じました。第一太極と勾玉は、形からして異なるものだったのですね。ありがとう御座いました。そういうことだけではない、単なる想像と連想だけでないものでないものでなければなりませんね。今度の態度として自戒します。