中島敦の名人伝について
中島敦の名人伝についてよく分からないことがあります。
まず、名人伝の舞台は趙の邯鄲の都ですが、この舞台が選ばれたのは何か理由があったのでしょうか。「邯鄲の夢」という故事成語(故事成句)がありますが、それと結びついていることはありますか。栄華を極めた邯鄲がはかなく崩れ去ったように、「真の名人は世の中に存在し得ない」とほのめかしているのでしょうか。
紀昌は、死ぬ一二年前に友人宅で、弓がなんであるか三回も尋ねますが、これに何か深い意味があるのでしょうか。いくら天下の名人とはいえ、死ぬ一二年前ともなれば、単にぼけてしまっただけなのではないでしょうか。
『木偶のごとき顔は更に表情を失い、語ることも稀となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。』
とあります。相当老い果てていたのではないでしょうか。それとも、普通に、弓の名も忘れるほど名人の域に達していたと解釈するべきなのでしょうか。
紀昌が天下の名人となったことを裏付けるものは、飛衛の言葉しかありませんが、紀昌は本当に不射の射を習得し、天下の名人となっていたのでしょうか。また、不射の射とはどんな意味が隠されているのでしょうか。
この「名人伝」という作品は、中島敦にとってどのようなもので、どんな意味を込めたものだったのでしょうか。
勉強不足で申し訳ありません。横暴な質問もあるかもしれませんが、どうぞ宜しくお願いします。
お礼
納得しました。参考URLの方も書いていたけれど、これは裏切りではないのかなあ。ありがとうございました。