まず、もうひとつ封建制というのを知らないとちょっと説明できないかな・・
封建制、というのは周王朝がはじめたもので、郡県制よりも古いものです。王(周王室)がいて、その周りの、周王室の支配が及ぶ地(と服従している地)に「候」とよばれる「小さな王」がおかれます(ただ、小さいといっても実は周の直轄地よりもはるかに大きい。また、世襲です)。なお、ここではわかりやすく王という表現をしていますが、本来的には王は周王室のみで、彼らはあくまで候と呼ばれます。
彼らは国の当地をほぼ任された状態で、基本的には定期的な貢納(貢ぎ物)さえすれば後は自由です。
つまり、支配地域は「小さい国が敷き詰められた状態」です。
この方法、広大な中国を支配するには無理があり、歴史的には大きく2回導入されたのですが2回とも同様の結果を招いています。
どうなるかといえば、中央政府(周)が強いうちはよく機能します。諸侯も貢納しないで滅ぼされるのはいやですから、しっかり貢納します。しかし、徐々に周王室が弱体化していくと(貢納しなかった勢力の討伐に失敗しだした)、もう「貢納しなくていいや」という形になっていきます。もともと「政府」と呼べるだけの機構が整っているわけですから、独立しているかしていないかはひとえに「貢納」しているかしていないかだけです。
この封建制の結果が春秋時代、戦国時代というめちゃくちゃな状態でして、結局、小さな国が乱立するという状態になってしまいました(ちなみに、戦国時代になると諸侯の有力者は「王」と名乗りだしました)。
そして、前に言った封建制をもう1回やってしまった国は晋で、三国時代を平定して統一した国です。
しかし、初代司馬炎も含めて暗君が続いたため周よりもあっというまに弱体化し、八王の乱とよばれる同族8王が反乱を起こすにいたり、あっという間に崩壊します。そのため、今では簡単な中国王朝の覚え方だと飛ばされてしまうという有様です。その結果が、再度の大混乱である五胡十六国時代になります。
次に、郡県制というのは、この封建制の問題点を変えたものです。封建制の問題は「自治が強い」という性質(つまり独立色が強い)ともうひとつ「世襲制」であるというところがあります(もうひとつは1つの統治範囲が大きすぎる。これも小さくして改良しました)。これを改良して、「一代限り」「統治方法は中央の法に則る」という形です。つまり派遣される役人は法に則って統治(というかそれをこなす)だけです。
単なる役人ですね。
ただ、この方法だと、役人はその土地に派遣されるだけですから民への愛情はないですし、秦の場合は法に違えれば死刑ですから、ものすごい厳しくします。
その結果が王朝の短命です。
統治される側も統治する側(秦の地方役人は厳しくするので民からは怨嗟の目で見られていました)も「もうヤダ」という状態になり、大反乱にいたりました。
さて、その反乱を鎮圧した漢帝国ですが、この「封建制」「郡県制」の2つをミックスします。それが、「郡国制」です。
中央の近くは郡県制を敷き、遠くの地方は封建制としました。つまり、近くは一代限りで小さい地域を中央の意思に基づいて支配して、遠くの地方は「世襲で大きな地域をお任せ支配するから貢納してね」、という具合です。
なお、このときの候は皇族と功労者ですが、功労者の候は初代高祖の時代に1つを除いてすべてつぶしてしまったため(残り1つも数代で家系が断絶してしまいました)、基本的にはすべて皇族です。
しかし、封建制の部分から反乱(呉楚七国の乱)が起きて、これをつぶすことになりました。本当は候同士が監視しあい、どこかが反乱を起こした場合はほかの候たちが盾になることを期待したらしいのですが、結局1国しか盾になってくれませんでした。また、この乱の直接的原因は、諸侯の力を減らそうとした結果です。封建制というのはパワーバランスが難しく、中国の風土(長安と洛陽のあたりはあまり土地として豊かでなく、そこから逆に遠いところが豊か)もあいまって中央政権の力が弱くなったため、候を弱体化させようとしたのに、呉楚を中心とした諸侯が反発したものです。
結局、その後は候もほとんど役人と変わらない程度の支配地域として、郡県制が実質的に復活しました。ただ、このときは法万能主義をとらなかったことが、漢の延命につながったのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 細かな説明で丁寧で分かりやすかった(?)です。