親が自分の子を 下ろそうかどうかと考えたり 育てる場合にも どのように育てようかと よくもわるくも 考えたりしますが そのときの気持ちを 《たましい》と呼ぶと考えるとよいようです。本能だけではないと意味です。
その気持ちは 本能で生きる動物一般にもあるかに思われ 特に人間には その気持ちをめぐって さらに拡がりを持った《こころ》があると受け取られています。
《いのち》は 一般に 生まれてくる存在について その力・はたらきを捉えて ふつうに言う言葉だと思います。
いのちあるものも 死にます。おそらくそこで 心で《たましい》を受け留めている人間は その生死の繰り返しといった物語を用意したものと思われます。
《輪廻転生》は 虚構です。さもないとすれば 類としての人間が 歴史を重ねても 堕胎をおこないつづけたり 殺しあいをつづけたりしているさまを捉えて言ったものです。ばかは直らないという意味です。
ただ これは 理性で考えて答えたものです。人間には 経験合理性に合った論理と事実とを超えた領域については わかりません。その世界があるのかないのか それも 分かりません。さらに 分かるか分からないかが 人間には 幸か不幸か 分かりません。
ので 《考える》を超えた《信じる》という精神の行為も 人間には 生じるようです。この信じるにかかわって 《たましい》あるいは《霊》という言葉を用いる場合も出て来ています。《いのち》についても 生物学の範囲を超えて いのちの創造主なる物語も人間は持ちました。・・・
いづれにしても この信じる(あるいは 信じない)については 自分たちで 互いの信教は自由だと 認め合っています。・・・
情況説明のようになりましたが。
お礼
回答アリガトウございます。 確かに生と死の違いを説明するのに魂と言う存在を持ち出せば、一応の回答にはなりますね。 PCの前で思わず「なるほど」と言ってしまいましたw