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近代国民国家の諸制度、サルトル、フーコー
近代国民国家の諸制度に対する、サルトル、フーコーらの批評について教えてください。 その他多様な視点からの意見が聞きたいです。 質問者は未熟者ですが、誠意を持って返答したいと思います…。
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フーコーについて。 彼は特に国家あるいは国民国家について正面から論じたことはないのではないでしょうか。彼の言説は、よく知られているように「権力」について論じたものが多くあり、この意味で間接的に国家について触れることになっています。 ご質問の意図とはずれるのかも知れませんが、フーコーの権力観についてとりあえず書いてみます。 彼の権力に関する論点の主たるものとして、以下の2点を指摘できると思います。 ひとつは、権力と主体との関係について。 権力の定義について、「AがBに対して、そうでなければBがしなかっただろうことを実行させる」影響力とされていたのが従前の権力観です。つまり旧来、権力というのはある主体が別の主体に及ぼす影響として論じられてきました。 主体は個人に限りませんが、例えばマルクス主義的な権力観なら「階級」という集団的主体の間の問題が語られてきたわけです。 後に権力の及ぶ範囲が拡大して論じられるようになり、政治的な争点そのものの場を管理する権力の存在まで論じられるようになりましたが、いずれにしても「Bの主体性を阻害すること」を権力の効果とみなす、という点は変わりませんでした。 フーコーはこういった考え方を「抑圧の仮説」として批判しました。彼はむしろ、今までの論拠となってきた「主体」という存在そのものがそもそも権力によって生み出されたものであると論じて、それまでの権力論のいわば基礎を掘り崩したわけです。同時に、主体の意思に還元できない「戦略」という概念の存在を指摘して、全く新しい権力観を提示しました。 もうひとつのポイントは、権力の所在についてです。 ホッブズ以降の従来の政治論では、権力は統治機構つまり国家に集中していると見てきました。いろいろな論争はこれを前提として、その内部の構造やそこからの解放を模索してきたわけです。 しかしフーコーが論じたのは、権力は決して国家に集中しているものではなくてむしろ、家族間や男女間を初めとして社会の隅々にまで網の目のように遍在していること、そしてそれら社会内の権力を全体として一挙に把握できるような特権的な視点の可能性を否定したのです。 またフーコーは、かつての権力概念を「排除」あるいは「境界づけ」の作用(ちょうど質問者さんが別の質問で狂人の排除と隔離についてコメントしておられる事例が典型)として位置づけていましたが、後には有名なパノプティコン(一望監視型の監獄)の例などを通じ、「規律」する力として論じています。つまり個人の身体や魂を一定の形態に規律していくことが権力の作用であるとみています。 旧来の権力が「これをするな」という禁止型の力であったのに対し、新しい権力は「これになれ」と強要するポジティブな権力であるというわけで、この規律型の権力は監獄に限らず、学校や工場、病院などあらゆる場所において社会を覆っている、というのがフーコーの見方です。 このようなフーコーの権力観からすれば当然、ある真理を理想として国家に対して「革命」を起こすといった、従来型の意義申立ては想定外です。 彼自身、「王様の首を斬るだけでは十分でない」という意味のことを述べています。むしろ彼のイメージするアクションは、国家を対象とするのではなくむしろローカルな生活の局所局所において、真理を想定しないでたゆまずに行われる「抵抗」のようなものなのでしょう。 ※「国民国家」という視点にはそぐわない回答内容かも知れませんので、必要だと思われるところだけ取捨なさって下さい。あるいは質問者さんの意図は、国家よりむしろ監獄などフーコーが取り上げた「制度」の方にあるのでしょうか。
補足
返答が遅れてすいません。 あとでちゃんとしたお礼を書きたいと思います。 neil_2112さんの意見、参考にさせていただきたいと思います!neilさんの意見今、ちょうど授業で習っていることと重なっています。とても、興味深いですね。 何か他にも、アイディアなどありましたらお願いします。 ちゃんとしたお礼は後ほど、書きたいと思います。 ごめんなさい。