• 締切済み

聖人

●どこまでも清らかで 並の人間の届かない高みに棲む「聖人」とは?  みなさんは どんなイメージの方を連想なさいますか?  聖人の語彙にとらわれない 自由なお考えを教えてください。  わたしは  フランダースの犬の「ネロ」を 聖人とイメージしています。

みんなの回答

noname#142902
noname#142902
回答No.18

善行の為に命を落とした歴史上の全ての人々だと私は考えます。 祖国を守って亡くなったり、善を貫いて悪の罠にかかって殺されたり、美しすぎて身を滅ぼしたり……。 また、善に生きたがゆえに圧倒的に苦しみ、それでもなお善を捨てられない人々とも言えそうです。 たとえばソクラテス、村山聖さん、太宰治さん、本多信一氏あたりは聖人だと思います。 「いい人は早く死ぬ」と言います。よって「早死に」の人も聖人に近いのではないでしょうか。 逆に「憎まれっ子世にはばかる」と言って「有名な人」は聖人が少ないと感じることもあります。 ちなみに、私は「現世という苦しい世界を一生懸命に生きる人間は全て聖人」だと思います。 誰かが並より極端に立派ではなく、誰もが「同じ位」立派だと私は考えます。 ですので、本当はこの質問は(人間に差をつけて良いのだろうか……)と思ってしまいます。 例えば今は悪人でも、悪に染まったからこそ聖に誰よりも敏感になりえます。 刺青クリスチャンのように。 よって、悪人だから聖人より劣るとは限りません。 逆に聖人でも挫折を知らないと意外と弱者の苦しみを理解できないかもしれません。 そう考えた時、やはり人間には聖も悪も差も無いのでは、と思ってしまいます。 また、善とは「やせ我慢」、悪とは「自分の気持ちに正直」と言えるかも知れません。 聖とは何か。悪とは何か。そのあたりの研究をしてみると意外と面白いものが見えてきます。 悪を否定したら悪。悪になるのは不幸で苦しいから。悪にならないと生きていけなかったから。 善でい続けられるのは幸せで恵まれているから。悪にならざるを得ないほどの苦労をしなかったから。 悪も善になることを望む。本当は誰でも善になりたい。 本当に不幸なのは悪であり、善は幸福なのである。善とは悪を善へと導くもの。善とは悪を癒すもの。 と、いうのが事実だと私は考えております。 質問の前提に異を唱えた上に説教臭くて本当にすみませんが、 こういう考え方もある、位に思ってもらえると嬉しいです。 不快な回答だったかもしれませんが、ここまで読んでくださって有難うございました。

  • elc
  • ベストアンサー率0% (0/12)
回答No.17

近い時代の聖人はガンジー、マザーテレサ。 彼らは社会そのものを支配して変えることはできなかったけれど目の前で苦しむ人々を見捨てなかった。 だから多くの人に慕われた。

回答No.16

私が考える聖人とは、「本当に人間らしく生きた人」です。 聖人と称えられる人も、その人生のどこかで苦悩した日々があったと思います。煩悩に悩まされ、自己嫌悪に陥った事もあったでしょう。にもかかわらず、自分を超えた存在に従い生きた人… キリスト教には、「人間は神の似姿である」という考え方がありますが、ここで言われている神とは、正しさ、善さ、慈愛などを象徴するものではないかと思います。 その神に似たものとして、人間は作られている。 ここでポイントなのは「似たもの」であって同じではないという事です。 この欠落は人間を謙虚にしてくれるからです。 「本当の人間らしい生き方」…これについては私もまだ模索中ですが、己を知り、ありのままの自分を受けとめ、謙虚に生きることではないかと、今は思っています。

  • emeth
  • ベストアンサー率50% (4/8)
回答No.15

聖人というのはタロットの魔術師のようなものだと思います。 人々に尊敬され、一目置かれる存在。 でも、それは所詮人間の社会の中での事。 どちらかというと自然と共存する、というより自然を克服する人・・・という感じ。 人間社会の王になれても神にはなれない人だと思います。 すみません。分かりにくいですね・・・。

  • accco
  • ベストアンサー率20% (5/25)
回答No.14

たいした思想はありませんが、私は『聖人』と言う言葉は特別なものだと思っています。 あまり身近な人に聖人と言うイメージは感じません。 かといって、身近な所に聖人が居ないというわけではありません。 むしろ聖人は身近な所に居るべきものだと思います。 (身近な人や知らない人でも助けてもらったり、その人の生き方に 感動したり、 相手を尊敬する事はありますが、だからと言って相手を聖人と呼ぶのはちょっと…) 私の聖人のイメージは、自己の欲にとらわれず他人(個の単位ではなく人間全体) の為にどうなったら皆が幸せになるかを考え、人を苦しみから解放し(実際的な 問題から解放するわけではありません、それを全ての人の施すのは無理ですよね) 何と言うか、実際の問題ではなくそこから生まれる心の苦しみから解放する 手伝い・手助けをしたり苦しみから解放されるその方法や思想を伝える人であり、 人が幸せになるのを自らの幸せとし、その生活を常とする人だと思います。 広い範囲の人のことを考え、でも助けるのは身近な人から、そしてその人の 心の生活が豊かになる事を喜び、その人が他の人を幸せにしてくれる事をなお喜ぶ。 尊いし、中々出来るものではないと思います。だからこそ聖人なのだと思います。 本当の聖人は権力などに興味はないのでしょうが、人間は欲の多いものなので、 権力を持つと自分の為に使ってしまいたくなる誘惑があるんですよね。 権力を、与えてくれた人のために使うのが本来の姿では…と思いますが。 権力を持った時に、その人の本当の姿がわかるのかもしれませんね。 自分のための欲なんてほんとに限りがないので、他人を幸せにする事で 幸せになれる人でいられれば、と、切に願います。ほんとに…(==) 長くなってしまいました、何か感じてくだされば幸いです。

  • kesisu
  • ベストアンサー率33% (24/72)
回答No.13

こんにちは。おじゃまします。 私の「聖人」のイメージは、ドフトエフスキーの「白痴」に出てくるムイシュキン公爵ですね。 純真で無垢な心を持っている人…でもこれって聖人の語彙に思いっきりとらわれてます(笑)。 自分の若さと美貌を保つために、600人以上もの処女を殺し、その血の中に浸ったという エリザベート・バートリが、私の中の「聖人」です。 この世のどんな法律・道徳にも縛られることなく、自分の欲望に忠実な人こそ「聖人」だと… ちなみに私は「ネロ」と聞くと、フランスの悪名高い皇帝「ネロ」を思い出します。 少しおかしな思想(?)にかぶれちゃってるのかも(汗)。失礼しました~。

chihoko
質問者

お礼

●アリだとは おもいますが 変化球でしょう。  ムイシュキン公爵もエリザベートも詳しく知りませんので  コメントできませんが 変化球をなげれることは いいことだと思います。  そしていつか 大リーグボールを投げて人々をあっと言わせてください。  ご回答ありがとうございました。

noname#2441
noname#2441
回答No.12

はじめましてchihokoさん >「聖人」とは? 1)身近なところで、穢れの無い人で周りが見えないほど恋をしている人。 2)マラソンとかで無心で走っているとき(ランニングハイ)のときのランナー。(極限状態のときの心理状態の人) 私の現在の答えです。よろしくお願いします。下町の凡人より。

chihoko
質問者

お礼

●>よろしくお願いします。下町の凡人より。 このなにげない一言が  dangomushiさんに棲む聖人性を わたしに想起させます。  聖人に人生相談したい・・・。  A:「中山さん 走ってください!35キロ過ぎたら質問しますので。」  中山:「いいですよー。」  35キロ過ぎ  A:「人生を正しく生きるためには どうしたらよろしいでしょか?」  中山:「あぁー?」  A:「正しいとは どういうことでしょうか?」  中山:「知るかーそんなのー・・・。」  わたし中山選手 大好きなんです。  ご回答ありがとうございました。

  • _hiroya_
  • ベストアンサー率5% (2/34)
回答No.11

風景、、かな。  

chihoko
質問者

お礼

●人じゃないってば それ・・・。  もう あなたが聖人ですね。マジで。  ご回答ありがとうございました。

回答No.10

chihokoさん、こんにちは。 「聖人」難しいことは、正直わかりません。 感覚的に、あっ!ってかんじるのは、「ともだち」かなぁ~ そそ、久しく会っていなかった高校時代の友人から電話が入り、「今日近くまでいくから」と、彼女を駅まで車で迎えに出ました。(数年振りの再会です。) 数年ぶりに会ってもスッ-っと会話が成り立ちます。おんな二人よるとおしゃべりの止まるところをしらない。延々、しゃべる、しゃべる。素敵なひととき。 $(^-^)$/楽しい~♪って、こころが弾みます。 「ともだち」っていいなぁ~♪ ハッピ-☆「と・も・だ・ち」は偉大です。聖人って、苦しみを歓びにかえるお手伝いをしてる人なのかも?と思ったりします。だとすれば、「ともだち」は、まさにそれに値すると。 的外れな回答になりましたらご容赦ください。

chihoko
質問者

お礼

●とても おもしろいことに気が付きました。  おともだちとおしゃべりしているときは たがいに聖人になるんですよ たぶん。  だから おしゃべりしててこころが浄化するし あしたからのガンバリも  生まれるのではないでしょうか。  そのような意味では わたしは主人と話している時は お互いに聖人なのかも  しれません。つくづく有り難いことだと気が付きました。  ご回答ありがとうございました。

  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.9

chihoko ワールドにお邪魔します 聖人という言葉が斬新に思えてしまう、自分が情けない。 そういえば…と考えながら記憶をまさぐって思い出したのが、インド生まれのドイツ系インド人のミッキー・グリフィーです。 彼は30男の独身で、カルカッタの中流家庭に下男として働いていました。街を歩いている時に、たまたま目を合わせたことだけがきっかけで知り合い、何処から来た、何をしているというような話になり、お茶をご馳走になって、彼が仕事をしている家の屋上にあつらえた小屋におじゃままでもしました。 インド社会のアクの強さに辟易としていて、ヒステリックになっていた時期だったので、いろいろ聴きたいことがあり、こちらは嫌味なことまで思わず口走ってもいたのですが、誤魔化すでもなく誠実に、気を鎮めるような口調で耽々と思うところを話してくれました。来世を願う倒錯した考えの多い社会で、彼自身は清貧を是とし、妬みを快しとせず、汎国家的な人のあるべき姿を具現しているように思ったものでした。 文字どおり闇の多い、喧騒と汚濁に満ちた暑苦しい大都会の夜景を、彼と共に屋上から眺めながら、個の強さ大切さを教えられた思い出があります。 >なんてきれいな風景なんだろう。ネロはこの美しい風景をけっして忘れないと思う。だってこの道はパトラッシュと歩いたのだから… フランダースの犬は、少年時代に初めて涙して読んだ本でした。 状況はかなり違いますが、この言葉に喚起され甦えらせていただいた、まさに一期一会の出来事でした。 ミッキー・グリフィー、彼こそ僕にとっての実在の聖人です。 おせっかい と PS   chihokoさんが冬に立ち上げたスレッドに回答が寄せられていますよ  自画像?と音楽のURLは、なかなか素敵でした

chihoko
質問者

お礼

●なるほど mcqgogoさんはインドに滞在された経験がおありなので  いろいろインドがらみのご回答が多いんですね。(納得)  いつでしたかデパートの大インド展とかいう企画で サリーを試着したことが  あります。すごーく肌を露出してしまうので かなりHな衣装だなあという  印象があります。日本のきものと同じくらい着方が 独特だったように  記憶してます。とりあえず世界の注目は中国にいって そのあとがインドでしょうね。  ミッキー・グリフィーさんのひととなりは mcqgogoさんの表現力では  しっかりとその聖人ぶりがつたわってきません。それでも「妬みを快しとせず」  という形容は ただならぬ人物を連想させてくれます。  わたしの弟は プロのスタジオミュージシャンでしたが 大きな失恋の結果  音楽の仕事をやめました。ところが音楽は 自分を楽しませるためのもの  として日夜練習につぐ練習を重ねています。練習量ではマイケルブレッカーに  迫るものがあるそうです。弟のピアノは たぶん世界最高水準です。  映画の「1900」を連想させるほどの感性を感じさせます。  いつも 世界の皆さんを楽しませる意味で 出て行けばいいと進めるのですが  弟は妬みを快しとせず このまま埋もれるつもりだと申します。  だれもが見たことのない 輝きが世界のいたるところに埋もれているのかも  しれませんね。それは わたしにとって胸を抱きしめたくなるような素敵なことです。  著作権 既得権 特許 あらゆる知的財産の所有権 権利の主張はいいでしょう  しかし ほどほどを心得ないといけません。「妬みを快しとせず」←本当に  素敵な生き方ですね・・・。  ご回答ありがとうございました。冬のスレッドみてみますねっ。

関連するQ&A