こんにちは。
旗本は江戸初期にこそ知行地に起居するものが多かったものの、江戸集住が徹底されて以降は原則として江戸屋敷で過ごし知行地に赴くことはありませんでしたが、江戸近郊に知行地がある場合は稀に訪れることもあったようです(勿論交替寄合を除いてですが)。
交替寄合のうち「表御礼衆」と呼ばれる二十家は大名と同様に参勤交替を行いましたが、それより格下の「四衆」(那須衆四家・美濃衆三家・信濃衆三家・三河衆二家)は基本的に知行地にあって毎年もしくは隔年で短期間江戸に滞在しました。更に岩松・米良の両家は「四衆に準ずる」扱いで毎年正月にのみ参府したそうです。
余談ですが、前回の件実際には締め切りを過ぎてしまっているのに図々しくしゃしゃり出る非礼をお詫びしたりした文章があの前にあったのですが、「余分」と判断されて切られてしまったようです。まあ無理をお願いしているのですから贅沢は言えませんが。
それで「藩札騒動」のことですが、あの時は時間が無くて駄目でしたが遂に見つけました。熊本藩で元文元年に銀札騒動による打ちこわしが起こっています。この影響で一時は大坂に送る米が皆無になるという状況にまで陥ったとか。
仰っていたように藩札も領内外の商人を札元に抜擢してその信用に依存するようなケースは特に江戸後期には多く見られました。また藩札の発行と専売品とをリンクさせた場合などは比較的安定した通用がかなっていたようです。ふう~、やっとお話する機会を得られて一安心(笑)
何だかごちゃごちゃしてしまってすみません。
お礼
旗本も江戸初期は知行地に起居するものが多かったのですね。知行所が数箇所に分かれている旗本も多かったでしょうし、旗本としても特に知行地に何がある訳でもなく、あまり興味がなかったというのが本音でしょうか・・・ >「余分」と判断されて切られてしまったようです。 そうなのですね。 mapato様にも、教えてgoo運営者様にも大変感謝しております。 熊本藩では打ちこわしまで起こっているのですね。 「貧しい大名」という質問の際に、二名の回答者様に熊本藩の窮乏ぶりを挙げて頂きましたが藩札に絡んでかなり大規模な打ちこわしが起こっていたのですね。 専売品などとリンクさせて場合には比較的安定した通用がかなっていたのですね。ただでさえ窮乏ぶりが有名だった熊本藩の藩札となると、あまり信用力が高くなかったのでしょうか。 >ふう~、やっとお話する機会を得られて一安心(笑) 以前の質問にもここまで丁寧に回答して頂いて感激です。 学校が始まったこともあり、また今年は受験生ということもあり、歴史カテで質問させて頂く機会もだいぶ減ると思いますが、よろしければまたご回答頂けることがございましたら嬉しいです。 ありがとうございました!