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大名改易後の重臣
江戸初期には鳥居家(山形22万石)、蒲生家(会津60万石)、加藤家(会津40万石)、加藤家(熊本52万石)、生駒家(讃岐)、田中家(筑後)、堀尾家(出雲)など多くの大藩が改易や改易同然の大減封の憂き目にあっています。 これらの家では家臣の召し放ちを余儀なくされたはずですが、家禄数千石以上の重臣層のその後はどうなったのでしょうか? その後、□□という重臣が他家に○○石で召抱えられて××という役職に就いたといった実例がありましたら教えて下さい。(広島福島家については見つけられました。紀州家などに多くの引き合いがあったようですね。)
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#3、#4です。 資料ですか。まず、#3は 「続会津資料叢書」「会津人物文献目録」「会津藩諸士系譜」「会津若松市史」 です。 #4は 「山形最上家と古河土井家について」 です。 「会津若松市史」には加藤嘉明の家臣がどこに再就職したのかを寛永の頃に調べた一覧表が載っています。 そういえば、「芸藩輯要」によれば、 蒲生忠郷の家臣 蒲生主計頭郷次 1万石 蒲生郷貞 →浅野光晟 御合力50人扶持 息子の甚助郷紀の代に400石で正式に召しだされます。 滝川一益の家臣 堀田武助可重 1万石 堀田惣兵衛重真 →浅野長政 300石→350石 弟の次左衛門は加藤嘉明に仕える。 明智光秀の家臣 堀田助右衛門高勝 2,500石→浅野長政 2,500石→8,000石 後、浅野孫左衛門と名乗る。子孫は1万石を賜って、広島浅野家の重臣となる。 佐竹良次 不明 蒲生氏郷に仕えていたとき千石 子の佐竹久馬介 →浅野幸長 不明→500石 豊臣秀吉の家臣 上田主水正重安 1万石→浅野幸長 12,000石→17,000石 上田宗固です。宗固の長男主殿助重秀は旗本になりますが、次男備前守重政が浅野家に残ります。 などもいます。
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- hazu01_01
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最上義俊の家臣 鮭延越前守秀綱 17,000石→土井利勝 5,000石 新関因幡守久正 6,500石→土井利勝 1,000石→2,300石 子供の代で新関彦六 300石になります。
お礼
先日の質問で、鮭延越前も2年ほど浪人したとお教え頂きましたね。 最上57万石の1万7000石と、土井十数万石での5千石。主家の石高の比率を考えると高い評価を受けていたのですね。 土井家での1000石はかなりの重臣ですから、新関因幡守も厚遇されていたのですね。さらに2300石に加増までされているのですね。 ありがとうございました!
- hazu01_01
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加藤嘉明の家臣 安達兵左衛門知世 千石→保科家 千石 祖父真柄長兵衛は蒲生氏郷の家臣、父安達内匠介は蒲生忠郷の家臣2,500石 萱野権兵衛長則 千石→保科家 御合力米60人扶持 鳥居家、保科家ともに1,500石とも 菅九十郎直忠 不明→保科家 500石 鳥居忠政の家臣 今村伝十郎盛勝 二千石→保科家 二千石→2,300石 結城秀康の重臣であり、越前騒動で有名な今村掃部の子 はじめ、もっと少身で召抱えることであったが、不満からそのまま浪人し、再度、鳥居家の禄のまま召抱えられることになった。 神保隠岐長利 二千石→保科家 二千石→2,300石 父神保氏春、母佐々成政の娘で初め上杉家に仕えていたが、上杉家が米沢に移るときに浪人し、鳥居家に召抱えられました。 三宅孫兵衛重直 1,500石→保科家 1,500石 沼沢出雲忠通 千石→保科家 千石→1,200石 杉浦藤八郎成信 700石→保科家 700石 最上家遺臣 梁瀬三左衛門正真 不明→保科家 600石→800石
お礼
家禄を減らさずに他家への仕官を適えている人物も多いのですね。少し意外でした。 越前騒動で有名な今村掃部の子は鳥居家に抱えられていたんですね。 福島正則の重臣も、万石や数千石で結構引く手あまただったそうですし、江戸初期の頃は高禄を払ってでも名だたる武将の需要は結構あったのですね。 #3さんはどういった文献でお調べになっていらっしゃるのでしょうか。もしよろしければご教示頂ければ幸いです。 ありがとうございました!
- sammi-2837
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追加回答しようと思ったら表示できたとのことですので、ちょっと余談を。 肥後細川藩【戦国武将の裔】 http://www.shinshindoh.com/00-x-busyou.htm もご覧になると面白いです。 下記の下津は大納言久我通堅の子とあるので、それが優遇に繋がったのかも知れません。大木家は加藤家で三千石が細川家では四千石で備頭、家老等を務めたとあります。 それにしても細川家は名門好きですね。旧幕臣はじめ、荒木村重、足利義輝、斯波義銀、武田義信、大友宗麟、後藤又兵衛、氏家卜全、長束正家等々の子孫が揃うとは…。田中と堀尾の縁者もいますね。 他家の情報が楽しみです。
お礼
足利義輝の子を忠利が客分として招いたのですね。 戦国の習いとはいえ、かつての主筋、それも将軍職にあった人物の息子が旧臣の家に仕えるとは皮肉なものです。 山内一豊も主筋の岩倉織田家に、土佐の国主となった後に二百石を与えているようですね。 家康の名門好きは有名ですが、細川家も早々たる家筋を集めていますね。山中鹿之介の子孫もいたのですね。 江戸時代も少し落ち着いてから小倉から熊本へ大幅な加増を受けているので余裕もあったのでしょうか。 ありがとうございました!
- sammi-2837
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熊本加藤家から細川家に召し抱えられた者の一覧です。 http://www.shinshindoh.com/katou.html 同じサイトの http://www.shinshindoh.com/00-samurai.htm で各家を検索すれば細川家での石高・役職などがわかります。 例えば、久武家は長宗我部家で家老職・二千石→加藤家で千石→細川家で三百石、加藤十六将の一人森本義大夫は加藤家で5,126石余が細川家では百五十石と、微禄です。下津家のように二千石から千石と高禄で召し抱えられたものもいたようですが、多くはないようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私のPCからだと「表示できません」となってURLが見られないようです。 HPのタイトルが分かりましたら教えて頂けますでしょうか。 加藤家で千石の武士が三百石というのは妥当だと思います。名のある武将を召抱える際、三百石が一つの目安のようですね。 五千石の重臣がわずか百五十石ですか…。細川家ではさんざんな評価だったのですね。名のある武将を百五十石というのは、お情けで雇った的な待遇ですよね・・・
補足
今見ましたらちゃんと表示できました。 じっくり拝見いたします。 ありがとうございました!
お礼
史料を挙げて頂きましてありがとうございます。 万石クラスの重臣でも、代が代わって召抱えられる場合には数百石での召抱えということが多かったのですね。 上田宗固は関ヶ原の後は芸州浅野氏に万石で召抱えられていたのですね。 丁寧に例示して頂き大変参考になりました。 ありがとうございました!