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フランス仏語の数詞70~99にガリア語の痕跡が残存している理由
下記の数詞一覧サイトは、上から順にフランス仏語、スイス仏語、そしてラテン語のものです。 http://www.sf.airnet.ne.jp/~ts/language/number/frenchj.html http://www.sf.airnet.ne.jp/~ts/language/number/swiss_frenchj.html http://www.sf.airnet.ne.jp/ts/language/number/latinj.html スイス仏語(ベルギー仏語でも同様ですので、以下「スイス仏語等」とします。)とラテン語が10進法であるのに対し、フランス仏語では70~99が20進法になっています。 これがガリシズムによるものであることは、本カテゴリーの過去のQ&AのQNo.1516390 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1516390.html での、#7氏の説明で判明しました。またこの方も同様のことを述べています。http://blogs.dion.ne.jp/19blog61/archives/1210685.html 但しケルト語とされている点は、おそらく誤りではないにせよ正確ではないと思われます。 本質問において知りたいことは、ガリシズムがフランス仏語の数詞70~99に残存している理由です。 まず、「ガリア」と「ガリア語」に関して調べてみました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%AA%9E しかし、特にここではガリア語がフランス仏語の70~99に残存している理由は発見できませんでした。むしろここでのガリア語の説明では、完全にラテン語に駆逐された、と読めます。 そこで私なりに仮説を立ててみました。真っ先に思い浮かんだのが柳田國男の「文化周圏論」(私が習った時の名称は「文化周縁説」と記憶していますが、名称はこの際どうでもよいことです。下記参照)に立脚するものです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9C%8B%E7%94%B7 すなわち、ローマ帝国は文化の中心であり、ガリア、つまり現代のフランスは地理的にも言語分布上も周圏に該当するのでフランス仏語にガリシズムが残存しているのではないか、ということ。 しかし、これではスイス仏語等がラテン語と同じ10進法であることの説明がつきません。むしろローマ帝国からみればスイスやベルギーの方が地理的にはフランスよりさらに周圏に該当する様に見えるからです。 また、文化周圏論自体が当てはまらないことも考えられます。上記サイトに「柳田自身は晩年になって『蝸牛考』について「あれはどうも駄目なようです」と述懐し、文化周圏論に懐疑的になっていたといわれる。」という記述があります。同論は、偶然、日本でこうした現象が見られただけで、普遍性がないのではないか、とも考えられます。 そこで次に考えたのは、征服者であるローマ帝国に対するre´sistanceの一種なのではないかということ。これは日本がかつて大東亜共栄圏の名の下にアジアの植民地に対し言語、宗教、風俗、習慣から姓名に至るまでありとあらゆるものを日本化しようとした結果、敗戦後、その反発が非常に大きかったという事実から類推したものです。 Wikipediaの「ガリア」の項目には「ガリアはまたローマ文明をよく受け入れ、「ローマ化」が最も成功した地域の一つに数えられる。」という記述が見られますが、果たしてそれは本当かどうか…。フランス人には、「我々はローマ帝国民の末裔でなく、ガリア人の末裔なのだ」という意識があるのではないか…。 例えば仏語のAlphabetのYはイグレック、つまりギリシア(語)のIと言いますね。これは言語にさえ古いものを非常に大切にしておくというフランス人の民族性、それは換言すればconservateurなのかもしれませんが、フランス仏語という言語ひいては文化に色濃く反映されているような気がするのですが…。 以上はあくまでも私の単なる仮説に過ぎません。これに対し、肯定、否定いずれでも構いませんので、論証を伴ったご説明を賜りたく、宜しくお願い致します。 いずれにせよ、こうしたフランス仏語の歴史的・文化的背景やその理由を知ることによって、フランス(人)という民族、文化、歴史が見えてくるような気がします。
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ご存知のようにフランスの国境(ほぼ正六角形)は、日本の自然にある 海と違い、山や海や川がありません。その国境を何で規定するか??? このことを念頭に置いて頂いて、次の二点の補筆内容をお読み下さい。 フランス語、オック語、ブルトン語やアルザス語などの言語分布の地域をフランス国家として中央集権化する為には その半分以上を占めていたフランス語をその道具として利用するしかありません。言語の統一による国家の統一です。 第一に、それは1539年のフランソワ一世が、パリの北東訳80キロの居城(Villers-Cotterets)で発布した 「ヴィレール=コトレの勅令」の第百十条と第百十一条(フランス語を公式語として、ラテン語の禁止)です。 当時のフランス語と現代フランス語以下通り art. 111.De prononcer et expedier tous actes en langaige francoys Et pour ce que telles choses sont souventesfoys advenues sur l'intelligence des motz latins contenuz es dictz arretz. Nous voulons que doresenavant tous arretz ensemble toutes aultres procedeures, soient de nous cours souveraines ou aultres subalternes et inferieures, soient de registres, enquestes, contractz, commisions, sentences, testamens et aultres quelzconques actes et exploictz de justice ou qui en dependent, soient prononcez, enregistrez et delivrez aux parties en langage maternel francoys et non aultrement. (現代フランス語訳) : De dire et faire tous les actes en langue francaise Et parce que de telles choses sont arrivees tres souvent, a propos de la [mauvaise] comprehension des mots latins utilises dans les arrets, nous voulons que dorenavant tous les arrets et autres procedures, que ce soit de nos cours souveraines ou autres, subalternes et inferieures, ou que ce soit sur les registres, enquetes, contrats, commissions, sentences, testaments et tous les autres actes et exploits de justice ou de droit, que tous ces actes soient dits, ecrits et donnes aux parties en langue maternelle francaise, et pas autrement.) その二つ目は、1682年にボシュエ(Jacques Benigne Bossuet )による 「ガリカニスムの四か条 La declaration des Quatre articles 」で最高潮に達するローマ教皇の支配(ある意味では正統ラテン語)に対するフランス教会の独立を目指す宗教的・政治的動きです。この時期はClaude Favre de Vaugelas(1694年)とほぼ同じで この動きは、Vaugelasの辞書編纂での言葉の選択に少なからず影響があったものと思われます。ブルボン王朝の絶対王政完成の太陽王ルイ14世の治世下です。 この二点から、一部(聖職者を中心)でしか利用されていないラテン語から当時の王宮を中心に話されていたフランス語(百万人未満と推定)へと言語のありようを切り替えって行ったと言えると思います。(まだまだ全国には約20百万人の民衆は方言を話していました。)その象徴的な現象が、今回のご質問にある70、80、90の言い方だと推測致します。 このように国家による人民の話す言葉への関与は現在まで継続的にあり、目新しいところでは、1992年修正の フランス憲法修正第二条に、本共和国の言語は、フランス語とすると明記されるようになっています。 Article 2 (Loi constitutionnelle n° 92-554 du 25 juin 1992) " La langue de la Republique est le francais. " L'embleme national est le drapeau tricolore, bleu, blanc, rouge. L'hymne national est la " Marseillaise ".
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- anapaultole
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マヤ文明に端を発する20進法をそう簡単には変更できないと考えます。 通常は1~100程度の数を考慮に入れればいいですが 一番基本となる数ですから、ここの数を変更すると とてつもなく大きくなる数の表記も変更しなければならなく なる可能性も出てきます。 例えば10の6乗はMillion、10の12はBillon、10の18はTrillion 10の24は、Quatrillion となり10の600乗は Centillion との規則性と命名をどう変更するかです。 (この右肩の数字をどう読むかは、二回目の回答でご説明です) ここまでゆかなくても、一部では、二十をduanteとして三十をduante-dix,として 四十はそのまま、quarante、五十を、quarante-dix、六十は、soixanteで 七十を、soixante-dix, 八十をhuitanteとする案とか 更には、十七をsepteseとしてしまおうとか、一つを 動かすとあれもこれもとなり収拾か付かないのが現状です。 ここら辺は、 etや-を付けるつけない、vingtやcentを複数にするしないでも 議論があったのですから。中世と違って、今やフランス語はフランス一国だけの 言葉でもなくなっていますから、問題は更に複雑になっていると考えざるを得ません。 興味は尽きませんが、コレで今回は締めと致します。
お礼
anapaultole さん、ご多忙中のところ幾度もご解説頂き、誠にありがとうございます。 数詞に関して様々な案が提出されたり、喧々諤々の議論が重ねられたというのは、私の知らなかったことでした。 anapaultole さん、そしてamaguappaさん、これまで幾多の知識、情報をご提示頂き、どうもありがとうございました。お2方のご回答内容が大変素晴らしかったことは言うまでもありませんが、それだけでなく、それによって私自身が主体的に調べたり、考える契機ともなりました。この場を借りて深謝致します。 本質問も、そろそろ皆様からのご回答が出揃った頃合かと思われます。ここらが締切の潮時かと思われます。 ただ、質問は締切るものの、私個人としては、本質問によっていわば「フランス仏語発達史」の一端に触れたという思いを抱いています。そして、そのうちもっとフランス仏語が上達した暁には、locuteur natif にも尋ねてみようと思っています。その時にはまた新たな発見や疑問が出てくるやも知れません。
3です。まさに、おっしゃるとおりの疑問はありますねえ。 ところで、octanteやnonanteは、1164年の「Chretiens de Troyes」 に表記されたものが中世フランス語として、公式の典拠のようです。 ラテン語を使っていた人々もそうですが、この典拠のような具合に書き表されたものに触れる機会がある人々というのは、学識のある一部の位の高い人です。学のない人々は、ラテン語などしゃべってはおりませんでしたし、中世フランス語として公式に編纂されるような言葉も喋ってはいませんでした。 じつに、ガリアのずーずー弁があちこちで野放し状態なわけです。 数字は、quatre-vingtsがふつうで、octanteが立派な言葉(聖職者・学者風)であったのではないかと、つまり同時に存在していたと思うのですが、証拠は提出できません。 古い文献は立派な言葉だけで書かれてしまうんですよ。 ケルト的なquatre-vingtsがこうして生きた音で残っているのが、同時存在の何よりの証拠かもしれませんね。(octanteやnonanteを使うことのできる地方はフランスにありますが、もちろんそれはフランスが単一民族・単一文化ではないということを説明するだけですね。) もうひとつ、フランスは、中世から近代まで、ギルドが行政をつかさどっています。ご存知と思いますが近代の高等教育機関をととのえたのも、ギルドの力です。水利組合とか、銀行家協会とか石工連盟とか、権利は甚大です。 ですので、度量衡や重量にかかわる数字を、変えるというのは、こうした商人や業者たちにとって、どうかなあ、というのが私のささやかな意見です。 現在も、有力者達というのは、ギルドの親方衆の子孫みたいなものですし。
お礼
amaguappaさん、ご多忙中のところ度々のご解説、ありがとうございます。 知識階級のみにラテン語が浸透していたということに関しては、私には大変よく理解できます。と言いますのも、ここを読んでドイツで宗教改革を成し遂げたことで有名なマルティン・ルターのことが真っ先に思い浮かんだからです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC 宗教改革は、彼が贖宥状 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%96%E5%AE%A5%E7%8A%B6 を発行する教会に対し、『95ヶ条の論題』 http://ja.wikipedia.org/wiki/95%E3%83%B6%E6%9D%A1%E3%81%AE%E8%AB%96%E9%A1%8C を叩きつけることによって始まるわけですが、当初この書物がラテン語で書かれていた際には一般民衆には理解できなかったため、まだほんのきっかけとしか言い様のないものに過ぎませんでした。事実上の宗教改革の始まりと言えるのは、これがドイツ語に訳され、全ドイツ中に伝播していったことによることです。 また、その間彼は聖書の翻訳事業も続け、1534年にドイツ語版旧約聖書を完成させ、出版します。この時初めてドイツの民衆は聖書が読めるようになったわけです。このドイツ語版旧約聖書が近代ドイツ語の成立に重要な役割を果たしたともされています。 他に、これもお隣イタリアの例ですが、ダンテは『神曲』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%9B%B2#.E3.80.8E.E7.A5.9E.E6.9B.B2.E3.80.8F.E3.81.AE.E7.BF.BB.E8.A8.B3 で、初めて文学上トスカナ地方の方言を用い、この文体が現代イタリア語の基礎となったとされています。方言問題や、俗語と文語について説いた彼の『俗語論』の影響も大きく、以後、イタリアにおいてダンテは国民的詩人と称されることになります。 ですからamaguappaさんがおっしゃる様に、フランスで一般民衆がラテン語でなくケルト語系のガリア語(ゴール語)を使用していたというご説明には、私もすぐに理解し納得できました。フランスの例が思い付かず、隣国の例ばかりになってしまったのが残念なのですが…。 ギルドの存在も、おっしゃる様に確かに大きかったでしょうね。ドイツで言えばギルドの親方衆はマイスターということになるのでしょうか。小泉前首相風に言えば「抵抗勢力」のような存在だったのかもしれませんね。
- anapaultole
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No.4です。一点、失念していたことを追加します。 前回ご説明の中世でアルファベットでの数の表記に追加して 今回は、どのようにローマ数字(アラビア数字はマイナー)で 記述されていたかを、解説致します。 フランスでは話題となる60はIIIの右肩にXXを小さく書いた。 (今日の累乗を書くように)この小さく書かれたXXが二十で 3×20=60です。80は60同じ様な縦棒が四本で その右肩にXXを小さく、90は80と同じ様に書いてその右に 普通の大きさでXを書いていました。ここからも二十進法を ご理解頂けると思います。 この様な表記があったからこそ、60~90のアルファベットの 書き方もすんなり人々に受け入れられていたと考えられます。
お礼
度々のご解説、ありがとうございます。
補足
ところでこうした数詞を当時アラビア数字でなくローマ数字で表記していたということは、形(器)だけローマ数字=ラテン語を借りてきて、中身はガリア語だったということなのでしょうか? ちょうどそれは、日本語で文字がまだなかった5世紀から6世紀頃、文字(器)だけ中国語から輸入して日本風にアレンジし(万葉仮名)、ただ、中身までは中国語でなく日本語だった(下記参照)というのと同じ現象と考えてよいのでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%BC%A2%E5%AD%97
- anapaultole
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se_tutoie さん はじめまして 分かる範囲で、書き綴ります。 中世のフランスでは、二十進法で数を数えておりました 30⇒vint et dis, 40⇒deux vins, 60⇒trois vins です。 コレは百を超えてもこの方法で、300⇒Quinze-vingts と書かれたり しました。この二十進法はケルトやノルマン民族で利用され それがガリア民族に持ち込まれたとされています。 まだまだ当時の表記はばらばらで20を Vingt, Viginti, Viceni, Bis deni,Vingt fois, Vicies 書いていました。 コレを統一して正統フランス語へとしていったのが Claude Favre de Vaugelasです。 彼が1694年に出版したフランスアカデミィの 最初の辞書にこの20は VINGT. adj. numeral de t. g. Il est a remarquer que dans la maniere ordinaire de compter, on dit, Quatre-vingt, six vingt, & mesme quelquefois, Sept vingt, huit vingt, onze vingt, & ainsi du reste jusques a dix-neuf vingt; mais qu'on ne dit jamais Deux vingt, trois vingt, cinq vingt, ny dix vingt. 同様に90は Nonante, Nonaginta,Nonantefois, Nonagies. でしたが、この辞書には Nonante. Adj. numeral de tout genre. Nombre compose de neuf dixaines. On se sert de ce terme dans l'Arithmetique; mais dans le discours ordinaire on dit Quatre-vingt-dix. ここでは、既に90=4×20+10となってきています。 この辞書が牽引役となって、これから後の辞書も soixante-dix, quatre-vingts, quatre-vingt-dix との 表記を進めていって、従来の septante, octante, nonante に 次第に取って変わったと考えられています。
お礼
anapaultole さん、こちらこそ初めまして。 ご多忙中のところ、詳細且つ分かり易いご説明を行って頂き、深謝致します。
補足
ところで、最後の2行に、「従来の septante, octante, nonante に次第に取って変わった」と記されてますが、それは何がその辞書によって取って変わられたのでしょうか? 比較するために、anapaultole さんが書かれた数詞をここで仮に「中世フランス語」とでも呼称しておくことにします(あくまでも仮の呼称ですので、後で正しいものにご訂正下さい)。下記は、左から順に中世フランス語、スイス仏語等、そしてラテン語(但し母音の上に付いているバーが表示できませんので、正しい表記は質問文中のラテン語数詞一覧サイトをご参照下さい。)を並記したものです。 70:septante, septante, septua ̄ginta ̄ 80:octante, huitante, octo ̄ginta ̄ 90:nonante, nonante, nona ̄ginta ̄ この様に比較してみますと、特に80でその違いが顕著に表れていると思われますが、中世フランス語の方がスイス仏語等よりむしろラテン語に近似していると思われます。また、これが現在の英語のSeptember(本来7月を表わすものが、2名のローマ皇帝名を無理やりJulyとAugustというように挿入したために本来の意味とかけ離れてしまったわけですが)、October, Novemberの起源となったことも、ここから大変良く分かります。 ということは、 (1) 中世フランス語は現代のフランス仏語よりむしろラテン語的な表記であった。但しその表記は一様ではなかった。 (2) 1694年、つまりフランス革命の約100年前に表記統一作業が行われた。しかし、それはラテン語的表記による統一ではなく、いわばガリア回帰現象=脱ラテン語化であった。 ということになるのでしょうか?また、特に(2)は、一体何の目的でそのようなことを行ったのでしょうか?
どなたかの返答がでないかと期待していましたが、やはり望み薄ですかね。 ええと、まず、残存というより、変更を余儀なくされたほうの理由を考えねばなりますまい。 10進法に整備されたのは、フランス革命の少し前にすぎません。 革命後は10進法の暦に10進法の時計まで考案されました。 このように新しい共和政で、新しい教育制度で、新しい世界観を持って踏み出されたとき、古くさく残ることを余儀なくされたものは、何でしょう? 度量衡と、貨幣重量単位でした。 度量衡と貨幣重量の単位は、14世紀にめざましく整備されました。 これらは、諸侯の土地ごとに千差万別でした。 度量衡の基数は足や指、その2倍、そして、単位の掛数は8,10,12,16,20といろいろでした。 貿易などで換算するための計測器には、つねに誤差が生じていました。 貨幣は、両替商の法的配備によって、流通を可能にしていました。両替商はきわめて古い職業なのです。 度量衡では現在もなお、大工石工等の職人の世界で、12進法の道具が存在します。 貨幣は、古代から何度も数え方を変えることで、平価切下げを暗に行ってきました。 変えるチャンスは共和政政府にありましたが、なぜ、70~99を、10進法で教育することにしなかったか。暦でさえ、グレゴリウス暦を人々は遵守しましたから、改革は容易ではありませんでした。しかも、この政府は短命に終わりました。メートル法だけは彼らのおかげで成し遂げられましたね。 ところで、革命後、通貨はめちゃめちゃになり、長いインフレをもたらしましたので通貨を近代化する試みは遅れました。かわりに農地や教育といったソフト面の近代化が図られました。 時間が無いのでここでやめます。 ここに答えはありませんでしたか? たしかにガリアはフランスの誇りであり魂であるというあなたのお考えに間違いはありません。ローマ化は多くの文明開化をもたらしましたが、ローマはあらゆる土地でローマの制度を強要しませんでした。 そして、フランスの文化はローマ精神よりもギリシャ精神を多く受け継いでいます。 次にお調べになるときは、度量衡、重量、貨幣の歴史、それから、10進法の採用、フランス革命期の教育改革、このあたりを探られると、新たな発見がおありかもしれません。
お礼
ご多忙中のところ、詳細且つ分かり易いご説明を行って頂き、深謝致します。 このテーマにフランス革命が絡んでいたとは、驚きの発見でした。また、ガリアやフランス文化とローマ、ギリシャ精神との関係に関しては、amaguappaさんのご説明で大変よく理解できました。 amaguappaさんが言及されていた、フランス第一共和政政府による10進法の革命暦やメートル法の制定に関しては、下記のWikipediaの「フランス革命」の項目中にも記されていました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD#.E3.83.A1.E3.83.BC.E3.83.88.E3.83.AB.E6.B3.95 また、ついでに革命暦を廃しグレゴリオ暦を復活させたのはナポレオンだったことも分かりました。
補足
おっしゃる通り第一共和政政府は短命であったため、その後フランス国内が混乱したことは歴史的事実です。しかしながら、それは既に約200年前の話です。日本ではちょうど老中松平定信による寛政の改革が行われていた時期に重なります。 第一共和政政府からこのかた、ずっとフランス国内が混乱し続けていたのであれば話は早いのですが、その後、今日に至るまで、フランスには政治的に安定していた時期があったこともまた歴史的事実です。従って、今度はそうした時期においてなぜ20進法を変更しなかったのか、という疑問が湧いてきました。 まず第一に、ナポレオン・ボナパルトによる治世期(第一帝政を含む。下記参照)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88 私など、この時期は外国との戦争に明け暮れていたというイメージが強かったのですが、上記サイトの説明によれば、この時期、有名なナポレオン法典すなわちフランス民法典の制定やフランス銀行の設立などがあり、フランスが近代国家へと飛躍していく時期と重なっているように思われます。近代国家であれば、明治維新の例をみるまでもなく、度量衡や通貨制度の合理化があってしかるべきではないでしょうか。従ってこの時期に度量衡や通貨制度の礎となる「数字」の見直しを行うチャンスがあったのでは、という気がします。 続いてナポレオン3世(ルイ・ナポレオン)による第二帝政期。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B33%E4%B8%96_%28%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%9A%87%E5%B8%9D%29 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B8%9D%E6%94%BF 私個人としてはこの時期が最もチャンスのあった時代ではなかったかと思います。というのも、ご存知の様にこの時、ジョルジュ・オスマンによるパリ改造が行われたからで、この様な大規模な都市計画の実現には土木・建築技術の発達ひいてはその礎となる「数字」の見直しが行われたと考えてもあながち不自然とはいえないからです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%B3 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E6%94%B9%E9%80%A0 その後、第三共和政、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF 第四共和政 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF を経て現在の第五共和政 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%BA%94%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF に至るわけですが、その間、日本で言えば江戸時代に改革を行おうとして一旦挫折した度量衡や通貨制度の再改革、そしてその礎となる「数字」の改正=合理化を今に至るまで手もつけていない、というのは不可思議極まりないことで、また新たな疑問の壁にぶつかってしまいました。
- isoyujin
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融合とはギブ&テイクではないでしょうか?
お礼
申し訳ありません、先程補足欄に記載したコメントを投稿した後、これが舌足らずであったことに後から気が付きましたので、記載する欄が異なるのは重々承知の上で自分の補足コメントに対し補足説明させて頂きます。 ガリア語→ラテン語という影響があったとすれば、ご存知の様にラテン語→フランス仏語という流れは厳然として存在するわけですから、ガリア語→ラテン語→フランス仏語という流れがあってもいいのではないかと思われます(この説明が欠落していました)。 しかしながら、質問文中に示した数詞70~99は、ガリア語がラテン語を経由してフランス仏語に流入したのではなく(もしそうならラテン語にも20進法があっていい筈です)、どう考えてみても直接ガリア語がフランス仏語に流入したと見る方が自然ではないか、ということです。 従って、もしガリア語→ラテン語という流れがあるのであれば、ガリア語→ラテン語→フランス仏語という流れがあってもいいのではないか、と考えたわけです。 そこで、「融合=ギブ&テイク」ということであれば、ガリア語からラテン語に対する影響が実際にあったかどうかをお伺いした次第です。
補足
こんばんは。 仮にそうだとしますと、逆にラテン語にもガリア語の影響が及んでいてもよさそうな気がしますが、いかがでしょうか? ただ、私はラテン語に対する知識が欠如していますので、全然分かりませんが、ガリア語からラテン語に対する影響、例えば語彙の輸入といったような事実は実際あったのでしょうか?
- isoyujin
- ベストアンサー率21% (145/662)
ローマが成功したのは征服した各地において、文化融合策をとったためであるとの説明を聞いたことがあります。
補足
こんばんは。 そのご説明ですと、質問文中に引用したWikipedeiaのガリアやガリア語の説明と矛盾しませんか?つまりガリアがローマ文明をよく受け入れ、最も「ローマ化」が進んだことと、ガリア語は完全にラテン語に駆逐されたということと。 仮にisoyujinさんのおっしゃることが事実であれば、こういう記述に改めなければならなくなるのではないでしょうか。 「ローマは征服地において文化融合策をとったため、ガリアもまたローマ文明を受け入れることなく、独自のガリア文明を進展させた。「ローマ化」も進むことはなかった。ガリア語はラテン語に駆逐されることなく温存された。」 このように書かれていれば、私もすんなり納得できるのですが…。いかがでしょうか?
お礼
anapaultole さん、ご多忙中のところ度々のご解説、ありがとうございます。また、コメントが遅くなりまして申し訳ありません。私は質問者が回答者に対し一方的に質問したり補足要求を行うのではなく、回答者と質問者とのcollaboration, coope´rationによって問題を解決すべきであると考えています。anapaultole さんのご説明は大変興味深いものであると同時に、私の知らない事柄も多く含まれていましたので、私なりに調べ、そして考えました。 「ヴィレール=コトレの勅令」をキーワードとすると、大変興味深いサイトに行き着きました。ここに列挙します。 「16世紀のフランス文学史」 http://meta-metaphysica.net/lit/histoire_l/frh_16.html 「フランス語圏の歴史的拡張 2:中世―フランス王国内でのフランス語の統一、純化、そして海外進出」 http://www1.odn.ne.jp/cah02840/FRANCOPHONIE/HISTOIRE/1-2-2.htm 「同 3:絶対王政期から近代、そして現代へ」 http://www1.odn.ne.jp/cah02840/FRANCOPHONIE/HISTOIRE/1-2-3.htm 「フランス第三共和政の言語同化政策」 http://www.mfj.gr.jp/colloque_9910/resume/Miura.html 「フランス語圏・フランコフォニーとは何か」 http://www1.odn.ne.jp/cah02840/ynu/francophonie.pdf 「二つの『国語』のはざまで」 http://www.geocities.com/takekikam/Kamiyama2004_resonances.pdf 「ロマンス語について」 http://park1.aeonnet.ne.jp/~memoria/lingua/linguae_romanae.html これに対しガリカニスムや「4ヵ条の宣言」に関するものはanapaultole さんのご説明以上に詳細なものはなく、ボシュエ神父(「神学者」との記述もあり)については「王権神授説」を唱え絶対王政の理論的根拠となしたとする説明以上のものは発見できませんでした。 これらをまとめてみると、次のようになります。 1.古代、仏語は存在せず、ローマのガリア征服によりケルト系諸言語にラテン語の口語が加わったガロ・ロマンス語(この「ガロ」とは「ガリアの」というような意味ではないかと思われる)が存在していた。ゲルマン民族大移動とローマの東西分裂の結果、ガロ・ロマンス語はゲルマン諸語の影響を受ける。こうしてできたのが仏語の原形。 (以下、補足欄に続く)
補足
2. フランソワ1世の「ヴィレール=コトレの勅令」により行政・司法関係の用語統一及びラテン語排斥が行われるが、この時の仏語はパリ周辺で用いられていたオイル語フランシアン方言であり、中世仏語とも、また現代フランス仏語とも異なる。オイル語フランシアン方言とガロ・ロマンス語、中世仏語、現代フランス仏語との関係は不明。 3. 革命下の 1790年にジャコバン司祭グレゴワール師が行った調査では仏語を満足に話せるのは仏本国の人口の半分以下。但しこれには異説もあり、1881年に始まった義務教育制度前までは、仏本国の3分の1の人口に留まっていたとも。 4. 仏語人口を飛躍的に増加させたのは、義務教育制度と軍隊(兵役)。第三共和政前期にジュール・フェリーが行った義務性、無償制、非宗教性を原理とする学制改革(1881-82)によって、教育を受ける前はほとんどの人たちが日常的に方言を話していたのが、学校教育による仏語の効率的な教育及び「罰札」に代表される罰則によって仏本国での方言話者は急速に激減。多言語社会だったフランスが言語的に統一されるには革命から1世紀以上を要し、第一次大戦後。 実は当初、フランソワ1世の「ヴィレール=コトレの勅令」によって全仏中にオイル語フランシアン方言が伝播しラテン語が駆逐されたのかと思っていました。これは明治新政府(実際に行ったのは上田万年か保科孝一?)による標準語制定のようなものが私の頭にあったからですが、実際にはそのようなものでなく、この現象はごく一部の上層階級において当てはまると言えそうです。一般庶民層においてはこの時も、またその後のルイ14世治世下でのボシュエ神父による「4ヵ条の宣言」=ガリカニスムによるラテン語排斥によってもなお、多言語あるいは方言が堂々と用いられていたと考えられます。 しかし、それでもなお疑問は残ります。それは本質問の原点でもあることなのですが、第一次大戦後に言語統一が達成され、現代フランス仏語が一般庶民層に普及するわけですが、この時でもなお、数詞30~60までは10進法、70~99までは20進法と、両者が混在したままになっていることです。 オイル語フランシアン方言が現代フランス仏語にどう変遷したのかは分かりませんが、少なくともこのヴィレール=コトレ勅令の際、仏版言語国粋主義とでも言うべき動きがあったことは事実ですし、また、ガリカニスムの際も同様の動きがあったわけですから、それならいっそ現代フランス仏語もその方針を踏襲して全て20進法にしてしまった方がフランスらしいのではないか、ということが考えられます。 あるいは逆に現代スイス仏語等の様に全て10進法にするというのも、多言語社会フランスを言語的に統一する上では利便性があるような気がします。 なまじっか10進法と20進法とが混在している方が、言語を習得する仏国内一般庶民層にとってかえって学習を困難にするということを、義務教育を行う際考えなかったのだろうか、という疑問が私の脳裏からは未だに消去されていないのです。