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聖武天皇の死因
756年に崩御された聖武天皇の死因について御教授下さい。
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あくまで想定です。聖武については、暗殺とか事故死とかの話がありません。彼は、意志薄弱な人物で、藤原氏の傀儡であったという説もありました。 しかし、近年、紫香楽の宮の遺跡の発掘が行われて、仮宮としての粗末な遺跡を考えていたところ、大規模な宮殿(朝堂)跡らしいものが見つかり、また、都市設計の基本の大通りに該当すると思える橋の遺跡なども見つかりました。 ここから、聖武は実は、意志の強い、英邁な君主で、気まぐれにふらふら遷都を繰り返したように見えるのも、曾祖父の偉大な帝王であった天武の壬申の乱における歩みを辿っているようにも見えるところから、「大業」をなすため、天武にならって、その道を再度辿り、天武の成功にあやかろうとした可能性が指摘されています。 「大業」とは、言うまでもなく「大仏建立」で、紫香楽の宮で、聖武は、大仏建立を計画し、放棄して、奈良で計画を実行に移します。 彼の大仏建立は、あるいは藤原氏勢力に対抗するためだったかも知れません。 しかし、死因はやはり病死だと思えます。元々聖武は丈夫でなく、転々と首都を変えた旅も身体にこたえたのでしょうし、もう一つ、根拠が明確にありませんが、聖武は、水銀中毒に軽くかかり、それで死期を早めたのではないかということが考えられます。 大仏は、開眼式は、聖武の死の前に行われますが、実質的に光背まで完成したのは、娘の孝謙(称徳)女帝の次の天皇(光仁)の時です。聖武は、大仏造りのための技術試験の現場や、大仏建立の現場にも、足を運んだ可能性があります。 大仏は最後の仕上げで、金を鍍金するのですが、この方法が、水銀に金を溶かし込んでアマルガムを造り、これを大仏の表面に塗布し、水銀が蒸発すると、後に、金の鍍金が残るというもので、この工事過程で、かなりの作業者・職人が水銀中毒になり、なかには命を落とした者もいたはずです。 称徳も病死ですが、道鏡との関係でか、何かその死について、不自然な伝承があります。称徳は五十代で崩御しており、少し若死にではないかという気もし、称徳もまた、水銀中毒だった可能性があると思えます。
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- Alias
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勅撰史書である『続日本紀』の、聖武天皇の崩御に関する部分では、ただ「崩御した」ということが書かれているだけで、死因については記述がありません。ただ、その1カ月ほど前に、時の天皇である孝謙天皇が、病気が長引いている太上天皇の平癒を願って大赦を行なった、という記事がありますので、その延長の病死が死因であっただろう(事故死や暗殺ではなく)ことは推測できます。他に死因に言及した史料があるかどうかまでは確認していません。 なお、『続日本紀』は講談社学術文庫から全訳が出ていますので、書店で立ち読みすることもできます。
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貴重なご意見ありがとうございました。
- pooska
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里中満智子・著「女帝の手記」というマンガがあるのですが、主役は聖武天皇・内親王「孝謙天皇・称徳天皇」の物語になっております。 歴史に忠実の描かれてますのでぜひご覧になってみてください。 わかりやすく描いてありますよ。 (ご病気のため長いこと床につかれていたようです)
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貴重なご意見ありがとうございました。
- nyozegamon
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病に因り崩御されたと思われます。
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貴重なご意見ありがとうございました。
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