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木は死なない命でしょうか。

 日本語を勉強中の中国人です。人の一生は四季に似ているような気がします。意外がなければ、春夏秋を経て冬で死を迎えます。  しかし、周りの木を見たら、不思議な感じがします。年中ずっと緑のままの木もあれば、冬を越えて春になると、また芽吹く木もあります。ふと思ったのですが、天災人禍(天然の災害と人為的な災禍)に遭わなかったら、自然界の中では、木は死なない命でしょうか。羨ましいです。  また、質問文に不自然な表現がありましたら、ご指摘いただければありがたく思います。よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.13

我是NO7。 謝謝nin2修改我的中文句子、我非常高興。 >でも、木の死ぬ原因がまだよくわかりません。参考URLは外部要素しか教えてくれませんでした。 内部要素的一個原因応該是細胞的寿命。什ma決定細胞的寿命? 端粒(テロメア、telomere)決定細胞的寿命。 http://www.bjkp.gov.cn/gkjqy/smkx/k30416-02.htm http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AF%E7%B2%92 一般来説、生物通過細胞分裂才能保持生命。不過細胞不能分裂無限次数。端粒限制最多分裂次数。結果細胞有寿命。sui1然対端粒的研究、現在関注動物(特別是人類)、対植物的知識還不太清楚、我覚得植物細胞也有寿命。 nin2也許覚得即使植物寿命是有限、也植物総体的寿命可能是無限。因為、如果新細胞和古老細胞継続替換、理論上植物総体的寿命可能是無限。這様想法是合理的。但是、太楽観。実際上継続新旧細胞的替換、維持植物総体構造越来越難。為什ma? 因為新細胞産生時候、古老細胞還在那里、新細胞不得不産生在古老細胞的外辺。這様、植物総体越来越大、越来越重。結果、到植物的所有部分継続施給養分、越来越難。 >「たとえ枯れている木でも、完璧な方法で新しい命を生み出している」とはどういう意味でしょうか。よく理解できません。 我覚得、「正在枯死」的意思不是「已経枯死」的意思。是不是? 下面是我的想法。 一般、植物枯死前、開花、受粉、産生種子。這個過程可以説是”完美的方法孕育其他新的生命”的。 >「根子」は何でしょうか。根ですか。 是、日文的「根」的意思。用中文、日文的「根」、zenme説? >木は自分の体の一部分から新しい命を生み出すとはどういうことでしょうか 植物有”根茎”。従”根茎”可能産生新的芽。新的芽不久産生新的枝。這様植物、即使没有産生種子、也能産生新的植物。 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E8%8C%8E 植物也可能通過”挿枝(挿し木)”的方法、産生新的枝。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%BF%E3%81%97%E6%9C%A8 ”挿枝”是用植物的一部分産生新植物個体的方法。比如、先切断植物的枝、然后将這個被切断的枝、挿在土壌中、不久従這個枝会産生新的植物個体。 >新しい命を生み出すことができれば、その木はまだ生きている証拠でしょう。死んでいないのではないでしょうか。 植物的話、”父母和子女関係”的定義比較難。比如、如果従”根茎”産生新枝的話、這個新枝是”子女”、還是 ”父母的一部分”? 或者、産生這個新枝后、父母植物枯死的話、這個新枝依然”父母的一部分”、還是「子女」? 又問、如果通過”挿枝”方法、産生新植物個体的話、這個新植物個体是”子女”、還是 ”父母的一部分”? >木が自然に死んだ瞬間をご覧になったことがありますか。急に倒れるのでしょうか。 有hen3多次、看過。即使樹木枯死、ta1還維持其構造。所以不倒ta1。在日本、有hen3多木造房子。這些木材sui然都是枯死的樹木、還是堅牢的。 最后、在nin2的日文中、我発見有一点児不自然的表現、想在這里表示。 >木も自然に死ぬ【ものは】、今まで考えたことがありません。 【ものは】---> 【ものとは】有者【ものであるとは】 >「根子」【は】何でしょうか。 【は】--->【とは】 如果我的中文不自然的話、請修改、我非常高興。

awayuki_ch
質問者

お礼

ご回答文の添削です。少しでもご参考になれば幸いです。 >不過細胞不能分裂【無限次数】。 無限次数→無限多次 >端粒限制最多分裂次数。 この文の意味がよくわかりません。テロメアは分裂回数を制限するという意味でしょうか。その意味だったら、「端粒限制分裂次数」だと思います。 >【結果】細胞有寿命。 結果→所以 >nin2也許覚得即使植物寿命是【有限】、【也】植物総体的寿命可能是【無限】。 →nin2也許覚得即使植物寿命是有限的、植物総体的寿命也可能是無限的。 実は、この文の意味はよくわかりません。日本語で意味を書いていただければありがたく思います。 >因為、如果新細胞和【古老細胞】【継続替換】、理論上植物総体的寿命可能是【無限】。 古老細胞→旧細胞 継続替換→相継替換 無限→無限的 >【這様想法】是合理的。 這様想法→這様想(あるいは:這種想法) >実際上【継続新旧細胞的替換】、【維持植物総体構造越来越難】。 →実際上新旧細胞的相継替換、使得維持植物総体構造越来越難。 >因為新細胞【産生時候】、【古老細胞】還在那里、新細胞不得不産生在【古老細胞】的外辺。 産生時候→産生的時候 古老細胞→旧細胞 >【結果、到植物的所有部分継続施給養分、越来越難。】 →結果使得要把養分持続伝送到植物的所有部分顕得越来越難。 >這些木材sui然都是枯死的樹木、【還是堅牢的】。 →這些木材sui然都是枯死的樹木、【dan4都還是牢固的】。 >最后、在nin2的日文中、我【発見】有一点児不自然的【表現】、【想在這里表示】。 発見→発現 表現→表達 想在這里表示→想給ni3修改一下 >如果我的中文不自然的話、請修改、【我非常高興】。 我非常高興→我会非常高興(あるいは:我将非常高興)

awayuki_ch
質問者

補足

再びありがとうございます。いろいろな知識を学ぶことができ大変嬉しく思います。お礼文の添削にも心より感謝いたします。これから気をつけます。 テロメアは細胞の寿命を決めるのですね。勉強になりました。 植物が大きくなる、重くなるにつれて、植物各部分への養分伝送は難しくなるというご説明はとても理解しやすいと思いました。しかし、木は無限に大きくなる、重くなることはまずないように思います。私たち人間と同じように、木も大人になってある形に留まるのではないでしょうか。 >一般、植物枯死前、開花、受粉、産生種子。這個過程可以説是”完美的方法孕育其他新的生命”的。 植物ではなく、木に集中していただければ幸いです。すべての木は枯れた前、開花、受粉、種を成すなどの過程を経るのでしょうか。生物学の知識を持っていませんが、普段見た木の中では、花を咲かない、実が成らない木もあります。それらの木でも、「たとえ枯れている木でも、完璧な方法で新しい命を生み出している」とは言えるのでしょうか。 >植物有”根茎”。従”根茎”可能産生新的芽。新的芽不久産生新的枝。這様植物、即使没有産生種子、也能産生新的植物。 植物ではなく、木に集中していただければ幸いです。一本の木の中の芽と枝は新しい植物とは言えるのでしょうか。それは木自身の成長ではないでしょうか。 >用中文、日文的「根」、zenme説? 日本語と一緒です。「根」(gen1)と言います。 >植物的話、”父母和子女関係”的定義比較難。比如、如果従”根茎”産生新枝的話、這個新枝是”子女”、還是 ”父母的一部分”? 或者、産生這個新枝后、父母植物枯死的話、這個新枝依然”父母的一部分”、還是「子女」? 又問、如果通過”挿枝”方法、産生新植物個体的話、這個新植物個体是”子女”、還是 ”父母的一部分”? 植物にとっては、親子関係の定義が難しいとおっしゃっています。木という植物に集中していただければありがたく思います。 私は新しい枝は木自身だと思います。新しい枝がなるのは、木は大きくなる、木の一種の成長と言えると思います。枝と葉は木の子どもではないと思います。 新しい枝がなってから木が死んだら、その新しい枝は木自身のものだと思います。その木の子どもだとは思いません。 あっ、頭が痛くなりました。挿し木の方法で繁殖した新しい植物はやはり子どもだと思います。ちゃんとした新しい根もありますし。ただ、私はここで自然に成長する一本の木のことを討論したいです。挿し木の場合は、木自身ではなく、人間がやってあげるのでしょうね。 >有hen3多次、看過。即使樹木枯死、ta1還維持其構造。所以不倒ta1。 木が死んでも倒れないと何度もお目にかかったことがあるとおっしゃいましたね。それでは、お伺いしたいのですが、なぜその木は死んだと判断なさったのでしょうか。「この木は死んだ!」の判断の基準を教えていただけませんか。倒れないなら、立てる力をちゃんと持っており、命が残っているのではないでしょうか。中国語に「枯木逢春」(枯れ木に花が咲く。寿命を延ばす機会にめぐりあう)という言葉があります。もしかして、明日、もしかして、明日の明日、もしかして、明日の明日の明日、もしかして、私たち人間が死んだ次の日……いずれ「枯木逢春」になると私は思います。

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  • subaru361
  • ベストアンサー率19% (55/283)
回答No.15

NO.6です。言葉の壁があるとなお説明がしにくいのですが、これは日本人にも説明が難しく、納得できないかもしれませんが、それは私の能力不足で、ご勘弁ください。 木には樹皮に近い部分に形成層という部分があってそこの部分のみが生きているのです。その内側は死んだ細胞で、いわゆる「木」といっている部分はほとんど死んだ部分です。例えば千年生きた木があるとしても、例えばそのうち999年分は寿命を全うして死んだ部分といっていいでしょう。その上の薄皮だけが生きている部分です。 あくまでもたとえで厳密ではないですが、動物の細胞で一番植物に近いものを考えると、ガン細胞が近いです。全体の調和がなく、増殖のみに特化し、本体が死んでもお構いなし、実験室では永遠に(あるいは半永久的に)生き続けることができます(ガン細胞はうらやましくはないでしょうけど)。 生物を細胞で見る人の立場からは、植物はたとえて言うなら、ガン細胞が、自分の死んだ細胞の上にのってどんどん大きくなっていっているようなものです。実際に一個一個の細胞が100年も1000年も生きるわけではありません。その意味で「永遠の命ではない。」といいました。 (1)細胞レベルで見れば、動物細胞よりも植物細胞が段違いに長寿命とは思ってません。 (2)個体レベルでは、一般には長寿命ではありますが、永遠の命ではありません。日本の花である桜「ソメイヨシノ」は寿命は数十年ですので、大方の人間は桜より長生きすることが可能です。 また、植物では動物と「個体」のなりたちそのものが違うことに留意する必要があります。 動物の場合は皮膚があり、筋肉があり、神経系があり、血管系があり、消化器があり、それら体全体を調和したものが一個体です。植物は細胞そのものの構成も単純ですし、全体が調和している必要も無い。動物は体全体の細胞同士が高度に調和し、植物にはない発展をした代償として、一部が駄目になってしまうと、それが全体に影響します。それが「死」ということです。 動物であれば、死にも「脳死」や「心臓死」や「細胞死」があり、細胞に生きる力が残っていても、脳が機能停止し、心臓が止まれば、「死」んでしまいます。植物には脳や心臓がありません。木一本で見た場合の生死というのは動物とは明らかに違うものであることを知っておくべきかと思います。

参考URL:
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~fukuhara/keitai/4-2.html
awayuki_ch
質問者

お礼

 再びありがとうございます。少しわかるようになりました。どんな「細胞」であっても、なぜか「細胞」という単語自体が苦手です。「血管」も同じように気持ち悪い単語です。昔、生物の授業で顕微鏡を通して細胞などを見るのも大変です……。参考URLをゆっくり見る勇気がありません(><)。出来るだけ文字だけに集中してざっと読みましたが、頭が悪いのでよくわからないと思います。申し訳ありません。本当にありがとうございました。大変参考になりました。

awayuki_ch
質問者

補足

1. >木には樹皮に近い部分に形成層という部分があってそこの部分のみが生きているのです。 形成層という部分のみが生きていると拝見して驚きました。勉強になりました。それは幹のあたりをおっしゃっているのでしょうか。それでは、幹以上の部分の葉や枝はどうなるのでしょうか。死んだ部分でしょうか。それとも生きている部分でしょうか。私は生きている部分だと思います。葉や枝は形成層から発するのでしょうか。 2. 木の死んだ部分は木に危害を与えますか。結局、木を死なせる原因になるのでしょうか。死んだガン細胞は人間に危害を与えますか。結局、人間を死なせる原因になるのでしょうか。 3. >全体の調和がなく、増殖のみに特化し、本体が死んでもお構いなし、実験室では永遠に(あるいは半永久的に)生き続けることができます(ガン細胞はうらやましくはないでしょうけど)。 「増殖のみに特化する」とはどういう意味でしょうか。「本体が死んでもお構いなし」とは人間が死んでいても人間の体の中ではガン細胞は生き続けることができるということでしょうか。カビというものを思い浮かべました。 上の例は木の生死のどこと似ているのかもう一度教えていただけないでしょうか。私は次のご説明がよく理解できません。木を人にたとえられたのでしょうか。それとも木をガン細胞にたとえられたのでしょうか。 >生物を細胞で見る人の立場からは、植物はたとえて言うなら、ガン細胞が、自分の死んだ細胞の上にのってどんどん大きくなっていっているようなものです。実際に一個一個の細胞が100年も1000年も生きるわけではありません。その意味で「永遠の命ではない。」といいました。 4. >実際に一個一個の細胞が100年も1000年も生きるわけではありません。その意味で「永遠の命ではない。」といいました。 それは理解できます。人間の場合でも、死ぬまで一個一個の細胞はずっと生きているわけではないと思います。細胞の新陳代謝は必要ですからね。 木の細胞が死んだら、元のところについていて抜けないような感じがします。こんな感覚であっているでしょうか。 人間の体の中の死んだ細胞はどこに行くのでしょうか。ずっと体に残されるのでしょうか。体を出る可能性はあるでしょうか。 5. >木は生きながら死んでいる生き物ともいえます。 どうも細胞と木を切り離して見るのは難しいような気がします。細胞は木に寄生するものではなく、木に属するものではないかと思います。「細胞は死ぬ」のはただ細胞の新陳代謝のではないでしょうか。木という生き物が絶えずに新細胞を提供する力があれば、旧細胞が死んでいても、木は死んでいない、生きていると思います。新細胞の補充は旧細胞の代わりに、木を引き続き支えるでしょう。 「木は生きながら死んでいる生き物ともいえる」という言い方が理解できないのは、たぶん人間の体の中のある細胞が死んだら、「人間は生きながら死んでいる生き物」というのと同じように妙な感じがするからです。 6. >日本の花である桜「ソメイヨシノ」は寿命は数十年ですので、大方の人間は桜より長生きすることが可能です。 桜ではなく、桜木でしょう。桜という花ならあっという間に散ってしまいますね。「この桜木は死んだ!」と判断なさった理由を教えてください。 7. >胞レベルで見れば、動物細胞よりも植物細胞が段違いに長寿命とは思ってません。 「人間と木との中では、どちらが長生きでしょうか」と聞かれたら、「人間が生まれてから死ぬまで」と「木が生まれてから死ぬまで」とこの二つの時間を比べるでしょう。そうしたら、「木が生まれてから死ぬまで」の「死ぬまで」はどの基準をとられるのでしょうか。「自然に倒れた時点まで」と考えておかしいと思われますか。 私はいま木が自然に倒れた時点で「木は死んだ」と思います。木が自然に倒れるのをさせるのは新細胞の補充がなくなって木の体が弱くなったのではないでしょうか。新細胞が生きていても、木は自然に倒れるのでしょうか。

  • Kon1701
  • ベストアンサー率24% (1445/5856)
回答No.14

No.4です。 木の中心部の話ですが、長い間立っている木は中心部が空洞になってしまいます。パイプのような感じです。輪切りにすると、ドーナッツみたいな形になってしまいます。これは、樹齢の高い木の輪切りの標本を見るとよくわかります。自然に関する展示のある博物館などで見ることが出来ます。 さて、内部が空洞になると、そこにカビなどが繁殖してしまうこともありますし、小動物が穴を開け、表面とつながってしまい、雨が入って内部から腐ってしまうこともあります。結果として木が非常に弱くなり、倒れやすくなってしまいます。この場合、風などをきっかけに倒れることになると思いますが、仮に風で倒れないようにしたとしても、いずれは木そのものの重さで倒れてしまうことと思います。 木が自然に死んだ瞬間。これは見たことはありません。ただ、木が倒れて世代交代すること。これは博物館などでも展示があります。 木が倒れたとき、発芽しにくい状況では、倒れた木が種を守るようにしてそこから発芽するそうです。その場合、倒れた木の形、つまり直線状に若い木が何本も立つそうです。枯れて倒れてもなお、発芽を助ける。いのちの引継ぎを感じました。

awayuki_ch
質問者

お礼

 再びありがとうございます。パイプ、ドーナッツなどのわかりやすい比喩を使って説明していただき大変助かりました。とても理解しやすいと思いました。木も寿命を持つものだとわかりました。自然博物館へ樹齢の高い木の輪切りの標本を見にいきます。木が倒れた時、倒れた木が種を守るようにするお話に感動されました。なんと悲壮感が漂うシーンでしょう。倒れた時のその音は心の奥に響きつづけます。ただし、立っている限り、どんなに弱く醜く見えても、木はまだ死んでいないということでしょうか。倒れた時点で木は死んだと判断してよろしいでしょうか。本当にありがとうございました。大変参考になりました。

  • 8942
  • ベストアンサー率13% (188/1414)
回答No.12

樹木は立体構造ですね。 ですが、樹木は自身の表面からでしか、呼吸や光合成が出来ません。 当然大きくなってゆくと自身の体の立体的な大きさに対し、表面積の割合が 小さくなって行き、成長するに十分な水分や栄養、光等を得られなく なって行くと考えられます。 やがて成長出来なくなり、組織が弱っていって、やがて朽ちて死んでゆくのではないでしょうか?

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご丁寧に教えていただき誠にありがとうございます。「大きくなってゆくと自身の体の立体的な大きさに対し、表面積の割合が小さくなって行き」の中の「表面積の割合が小さくなって行き」がよくわかりません。それはどういうことでしょうか。木が大きくなってゆくのに伴って、表面積も大きくなるのではないでしょうか。もう少し教えていただければ嬉しく思います。本当にありがとうございました。大変参考になりました。

回答No.11

すこし、変わった考えを、ご紹介します。 命と言いましても、二つ以上のものがあります。 木で言えば、幹と葉。人間で言えば細胞とひとりの人間の命 ご観察のように、木の一部としての、葉は、秋に使命を終えて散ります。 人間の白血球も細菌と戦い死にます。 この様に、全体としての個体の木は、部分の死と同居しながら生きます。全体も時が来れば死ぬことは事実ですが、 例えば「バラ」このバラの花ではなく、種としての「バラ」これは生き続けます。種を撒いて、別のバラの花として、生き続けます。 種としての「バラ」の死は、種の絶滅です。 人間も同じですよ。種としては生き続けます。 単細胞生物も植物も動物もみな「DNA」と言う一本の生命で繋がっています。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。種としては生き続けるかどうかという前向きの考え方のご紹介に感謝いたします。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.10

他の方もおっしゃっているように、木に永遠の命があるわけではありません。 これは木に限らず、存在するあらゆるものに当てはまることでしょう。 「>人の一生は四季に似ているような気がします」とおっしゃるのは、そのとおりで、 実は、「人や木の一日も四季に似ている」と言って過言ではないと思います。 その繰り返しで次第に終焉に向かっている、という点では木も人も同じであろうと思われます。 木の場合はそのスパンが長いので、羨ましいといえば確かに羨ましいですね。 木も人も、どのような形であれ、絶えた後は全てが最小単位の元素に分解されます。 そして、その元素は水になり、雲になり、雨や雪になり再び地上に舞い降りてきます。 あるいは、宇宙の塵の一つとして世界を構成する物質の一部となります。 人が死ぬということは、肉体と精神の拮抗が完全に崩れるということです。 逆に言うと、生きているということは肉体と精神がお互いに拮抗している状態です。 しかし、拮抗するためにはエネルギーを必要としますから、(人間を含めた)存在が安らかに安定するためには拮抗を止める必要があります。 死は確かに破壊ですが、同時に安定でもあるのです。 拮抗を外れた後の肉体は、元素として安定した状態でこの世界に留まり、自然界を構成する要素となります。 拮抗を外れた後の精神は、その人を思う人の心の中で不滅の命を得ることになるでしょう。 死は他者にとっては悲しみですが、(突然の死や、不慮の死を除くと)本人にとっては実は安らぎと同義であるのかもしれません。  

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になります。ご回答ありがとうございます。木に永遠の命があるわけではないはまだよくわかりません。私は天災人禍がないなら、木は生きていけるものだと思います。それに対して、人間は天災人禍がなくても死んでしまうものだと思います。人間に発見されなかった森の中の木は、天災に遭わなかったら、死なないのではないかと思っています。拮抗を外れた後の肉体と拮抗を外れた後の精神のお話を興味深く拝見しました。  永遠の命があるわけではないは木に限らず、存在するあらゆるものに当てはまるのですね。どうもその次にもし「だから?」と聞かれたら、人生を積極的に考えられなくなりました。本当にありがとうございました。大変参考になりました。

awayuki_ch
質問者

補足

>実は、「人や木の一日も四季に似ている」と言って過言ではないと思います。 ちょっと理解できません。どういうことでしょうか。 >木も人も、どのような形であれ、絶えた後は全てが最小単位の元素に分解されます。 人はどのようなに最小単位の元素に分解されますか。火葬されたら、すぐ埃になりますが、火葬されなかった人は腐りますね。腐るの終点とは、最小単位の元素に分解されるということでしょうか。また、ミイラあるいは標本にされたら最小単位の元素に分解されなかったのではないでしょうか。とても幼稚な質問で申し訳ありません。元素とかの概念はぜんぜんわからないものでございます;;。 >人が死ぬということは、肉体と精神の拮抗が完全に崩れるということです。 >逆に言うと、生きているということは肉体と精神がお互いに拮抗している状態です。 哲学者らしい言葉ですね^^。凡人の私にとって難しい言葉です。なぜこのように言えるのでしょうか。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.9

日本の神社には 榊 というものがあります。 左が 木、右が神。 それでサカキと呼びます。 この木は常緑木なので、四季によって変化しません。 常に緑色をしています。 仏壇には器に入れて飾られていますが、神社のしめ縄につるされてもいます。 ただし、神社のしめ縄につるされているときは、↓を向いています。 生命の木というものをご存知でしょうか。 カッバーラの生命の木も同様です。 下に伸びています。 逆さまの木なわけです。 外国人が「何故日本はもっと花を植えないのか? どうして庭に木を植えて花を育てないのか」と質問して、日本人を困らせるのだとか。 これに応えられる日本人はそういないと思います。 永遠を願っていたことを忘れてしまっているから。 何故 神社に榊が垂れ下がっているのか。 これで一つ謎が解けたと思います。 神社だけが記憶をし続けていたってことのようです。 日本神話にイザナギとイザナミがあります。 中国にも伏羲と女媧の神話がありますよね。 それぞれが回っているのは生命の木。 これは別な民族ではモーセの杖として具象化されています。 >しかし、周りの木を見たら、不思議な感じがします。年中ずっと緑のままの木もあれば、冬を越えて春になると、また芽吹く木もあります。 これを古代 神 と例えました。 永遠性を常緑樹としながら、生命の循環を月のようなものだと思った。 月は見ると丸くなったり、全く見えなくなったりします。 全く見えなくてもまた復活してくる。 日本の一部の地域では、神輿を地面に投げて破壊するという祭りがあります。 また御柱祭りで柱を投げ落としたりします。 神殺しです。 神を殺して又復活させるためにやるわけです。 この柱が生命の木の具象化だと思います。 >ふと思ったのですが、天災人禍(天然の災害と人為的な災禍)に遭わなかったら、自然界の中では、木は死なない命でしょうか。 いえ、柱は人間の手によって投げ下ろされます。 力が無くなった神を一度死なせて、新生させる。 すると力を持ったので、再び大地が豊穣になる。 こう考えたようです。 だから神は何度も永遠を願う人間によって殺される必要があるわけです。 キリスト教も同じ思想からあの物語ができたのだと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%81%AE%E7%A5%9E 【神話から儀式が生まれるのではなく、儀式を説明するものとして神話が生まれた。即ち、全ての神話は信仰を反映したものに過ぎない。全ての信仰にはそれぞれ、共感呪術(en:sympathetic magic)によって自然現象を操作するという原初の目的がある。(彼等のいう)蛮族は、人間は大なり小なり自然界に超自然的な方法で影響を与えることができると信じていた。そのための方法の一つが、自らが望む自然現象を模倣することである。】 世界共通の概念ですね。 永遠を望み、そのために破壊する。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。榊、神殺しなどのお話を興味深く拝見させていただきました。「榊」という字は日本の方の苗字の中でも見たことがあります。すごい苗字ですね^^。おっしゃる通り、生命の循環、復活をこの目で見て不思議に感じております。人間、天災が木を壊さないと、木は死なないものだと思っています。木を眺めると、安らぎが心に訪れ、すごく懐かしい感じがします。いつも乗っている電車がある工事現場を通ります。流れる景色の中で、廃墟だらけの工事現場のたった二三本の木が生きている姿は、強いインパクトを与えてくれます。人間はなぜこのたった二三本の木を残したのでしょうか。また、これからどうなるのでしょうね。工事が進むにつれて、このたった二三本の木は殺されるかもしれませんね。本当にありがとうございました。大変参考になりました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

「諸行無常」なんですね。例外なくすべてのものには誕生と死があるのですね。あらゆる生物、あらゆる鉱物、地球にも太陽にも寿命があります。 木は人間より寿命が長いということだけですね。岩石はもっと長いですね。岩石も数十万年かけて風化し最後は泥になってしまいますね。大きな惑星だって150億年もすれば死ぬことになってます。四季はその「諸行無常」を学ぶためにあるものですね。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。「諸行無常」ですか。奥深いですね。勉強になりました。私は天災人禍がないなら、木は生きていけるものだと思います。それに対して、人間は天災人禍がなくても死んでしまうものだと思います。岩石が生物ではないので、木と人間の問題とは違うように思います。本当にありがとうございました。大変参考になりました。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.7

下面網頁説: 任何樹木都要経過生長、発育、衰老、死亡等過程、也就是樹木的衰老、死亡是客観規律。 http://yl.yangtzeu.edu.cn/sm/1ja.asp?ArticleID=242 不過、下面網頁説: 即使那些正在転型(枯死)的樹、也是在用完美的方法来孕育其他新的生命。 http://www.simonchau.hk/Chinese_GB/cultural/oneness.htm 我想樹木生態和動物生態不一様。動物只有生仔児才能有新的生命。不過、植物的話、従自己身体的一部分(像根子)也能発生新的生命、可以説這個新的生命也是自己生命的延長。所以樹木的話、生命是可能永遠的。 我是在学中文的日本人。如果我的中文不適当的話、請矯正、我非常高興。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご親切に教えていただき誠にありがとうございます。とても上手な中国語です! 中国語を勉強していただき大変嬉しいです。ぜひ自信を持ってがんばってください^^。応援しています。  木も自然に死ぬものは、今まで考えたことがありません。初めて「すべての樹木は生長、発育、衰老、死亡を経なければならない」を知りました。でも、木の死ぬ原因がまだよくわかりません。参考URLは外部要素しか教えてくれませんでした。私は天災人禍がないなら、木は生きていけるものだと思います。それに対して、人間は天災人禍がなくても死んでしまうものだと思います。 >即使那些正在転型(枯死)的樹、也是在用完美的方法来孕育其他新的生命。    「たとえ枯れている木でも、完璧な方法で新しい命を生み出している」とはどういう意味でしょうか。よく理解できません。 >不過、植物的話、従自己身体的一部分(像根子)也能発生新的生命、可以説這個新的生命也是自己生命的延長。所以樹木的話、生命是可能永遠的。  「根子」は何でしょうか。根ですか。木は自分の体の一部分から新しい命を生み出すとはどういうことでしょうか。新しい命を生み出すことができれば、その木はまだ生きている証拠でしょう。死んでいないのではないでしょうか。その時、木の根はまだ土の中にあるでしょうか。  恥ずかしいですが、木は死ぬものだとおっしゃっていても、立ったまま死んでしまうしかイメージできません。木が自然に死んだ時、普通倒れるのでしょうか。木が自然に死んだ瞬間をご覧になったことがありますか。急に倒れるのでしょうか。根が土の中に入っていれば、その木はまだ死んでいない、生きているという証拠でしょうか。本当にありがとうございました。      *  次は中国語の添削です。文の構造は問題ありませんが、違和感を覚える表現を添削させていただきました。少しでもご参考になれば幸いです。 >我【想】樹木生態和動物生態不一様。 想→覚得 >不過、植物的話、従自己身体的一部分(像【根子】)也能【発生】新的生命、可以説這個新的生命也是自己生命的延長。 根子??? 発生→産生(あるいは美しい表現:「孕育」) >如果我的中文不【適当】的話、請【矯正】、我非常高興。 適当→自然(あるいは「地道」) 矯正→修改

  • subaru361
  • ベストアンサー率19% (55/283)
回答No.6

哲学のカテゴリですが、生物の話でいいですよね。 そもそも植物は生命の成り立ちようが動物とは違いますので、直接は比較しにくいです。 木というのは全体としてはいつまでも変わらないように見えますが、中心部はほとんど死んでいます。そういう意味では木は生きながら死んでいる生き物ともいえます。 植物で生きている部分は決して多くはありませんし、絶えず入れ替わっています。去年の木と今年の木は同じところにありますし、形も同じように見えますので、継続した命のように見えますが、細胞自体は入れ替わっていますので、同じなのは外見だけで去年までの木とは違う、という言い方もできると思います。そうなると命とは何かという多少哲学的な命題も含まれますが、議論しません。また、細胞レベルで見れば、寿命はありますので死なない命とは言いがたいと思います。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご丁寧に教えていただき誠にありがとうございます。  大変恥ずかしいですが、私は生物の知識と哲学の知識を持っていないものです。生物カテと哲学カテのどちらに投稿しようか迷っていました。飛躍的な回答が拝見できると思って、哲学カテにさせていただきました。生物学のご説明は大歓迎です。    「中心部はほとんど死んでいる」とはどういう意味でしょうか。それは木の寿命と関係があるのでしょうか。  恥ずかしいですが、木は死なない命と言いがたいとおっしゃっていても、立ったまま死んでしまうしかイメージできません。木が自然に死んだ時、普通倒れるのでしょうか。木が自然に死んだ瞬間を見られることがありますか。どんな場面でしょうか。根が土の中に入っていれば、その木はまだ死んでいない、生きているという証拠でしょうか。  天災人禍がないなら、木は生きていけるものだと思っています。それに対して、人間は天災人禍がなくても死んでしまうものだと思ってます。おかしい考え方でしょうか。本当にありがとうございました。

  • yuyuyunn
  • ベストアンサー率41% (20359/48650)
回答No.5
awayuki_ch
質問者

お礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。木は木造建築となることですか。残念ですが、木が木造建築になったら、私は木が死んだと思います。姿を変えても生き続けるなら、人間でもできますね。息を吸ったり吐いたりできないのは、客観的に考えれば、死ぬということだと思います。天災人禍がなければ、木は人間と違って死なないものだと思っています。本当にありがとうございました。