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還俗って気軽にできるんですか
こんにちは。 質問:還俗は気軽にできるものなのですか。簡単に還俗している時代、逆に還俗などほとんど考えられない時代はいつですか。 質問をした理由:昨日、大河ドラマの「風林火山」を見ました。今川義元が出家していたなんて知らなかったのですごく驚きました。今川義元の兄役の人が坊主頭のままぶんぶん刀を振り回していたのも面白かったです。 一方で、漫画の大奥(よしながふみさん作)を見ていたら還俗することはとても珍しいことであるかのように描写されていました。 そこで還俗する時のハードルの高さの変遷に興味を持ち、上記のような質問をさせていただきました。
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こんにちは。 還俗し易い時代・し難い時代ということですが、とても大まかに言ってしまうとやはりどんな身分であろうと変動が激しかった戦国乱世と, 身分がかなりかっちり分けられていた江戸時代では相当感覚に差があったと思います。 戦国時代は単純に家の当主や跡継ぎが命を落す確率も高い訳ですが、「血のスペア」である次男以降何人も兄弟を養っていくとなれば当然経済力が必要ですし、安全の面からも別に暮らすほうが都合が良いということでお寺さんなんかに預ける(=出家させる)訳です。跡継ぎの場合なんかは何人も家にいたらそれだけで争いも起きてしまいかねませんし、お寺さんなら色々学ぶこともあります。お寺さんのほうでもそうやって繋がりを持つことはいざという時の安全やら色々便宜をはかってもらったりとメリットがある訳ですよね。 ですが、天下統一がなされて秩序優先の時代になると戦国のように「血のスペア」が必要な状況はずっと限られてきますし、身分が色々かわったり妙に有力なお寺さんなんかと仲良くなられるのも支配者側としては余計な争いを生みかねない秩序に反する行為ということになってしまいます(支配者側であればまた事情も違ってきますが)。それに江戸時代は檀家制度でお寺さんに戸籍管理のようなことをさせていた訳ですから尚更です。 そんな訳で江戸時代には一部を除いてぐっと「還俗」というもののハードルは高かったのではないでしょうか。 非常に大雑把ですが何かの参考にして頂けたら幸いです。
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- buchi-dog
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まず、「出家」と「入道」は別なことを指します。 武田信玄は「出家して僧侶になった」のではなく「入道した」ので、「武田信玄などは出家した後も武田家の舵取りをしていたし女も欲望の赴くままに抱きまくっていました」という「批判」は当たりません。入道した大名が、政務も取らず戦場にも出ず子供も作らない(戦国大名にとっては男の子も女の子も多いほど良い)のでは戦国大名家は潰れてしまいます。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2574066.html の4番で私が回答していますので読んでください。 今川義元やその弟、あるいは太原雪斎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E9%9B%AA%E6%96%8E は、「出家」して仏門に入り、(タテマエ上は)戒律に服する本物の僧侶です。 一度出家して僧侶になった人が還俗することは普通ではありません。実際、太原雪斎は還俗せずに最後まで僧侶として「今川義元の参謀長」として働いています。後世になりますが、関ヶ原の合戦に6万石の大名として千人ばかりの兵を率いて出陣した安国寺恵瓊 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA%E6%81%B5%E7%93%8A は、「還俗して武士になり大名になった」のではなく、「僧侶がその身分のまま領地を与えられて大名になり、総大将は僧侶、それ以外はみな武士という軍団を率いて出陣したもの」です。恵瓊は合戦に敗れて捕らえられて処刑されるまで「僧侶」でした。 出家するのはそれなりの理由と動機があってのことですから。今川義元や足利義教、足利義昭が還俗して武士に戻り、守護職や将軍職についたのは「レアケース」です。これらは「あなたが還俗して政務について頂かないと皆が困る。どうか還俗してください」と例えば家臣代表が嘆願し、「やむを得ず還俗する」という形を取ったものでしょう。実際の還俗者の心境は「大名(将軍)になれる!バンザイ!」だったと思いますが。 有力寺院やその塔中(大きな寺院に属する寺院)の住職に就くのが、僧侶としての能力よりもその僧の出身に依存するところが大きかったのは、No4さんが解説されている通りです。 延暦寺、興福寺、金剛峰寺のような大寺院は、広大な領土を持ち多数の人民を支配下(領民、奴婢)に置く大名と同然の社会的存在です。僧侶は、一向宗(本願寺系)以外は公式には結婚して子供を作れませんから「世襲」はできませんが、大寺院の幹部僧侶は、皇族・公家・有力武家から僧侶になった人が概ね独占していたようです。
お礼
武田信玄について、年表で「出家した」とあるのにはそんな特別な意味があったんですね。 今川義元の 「やむを得ず還俗する」というポーズは還俗がそれなりに「ありえないこと」とされていたことの裏返しの様でもあり面白いですね。
- suicyo
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平安時代後期~江戸時代の天皇家や公家は、後継者でない子供を幼少 の頃から寺に入れるのが一般的でした。室町時代になると、貴族化し た足利将軍家も、同様になります。今川家がどうだったのかは調べて いないのですが、武家の中では将軍家に次ぐ家柄ですので、今川家で も義元に限らず、後継者でない子供を幼少の頃から寺に入れるのが慣 例だったのかもしれません。 で、寺に入れられた上流階級の子供たちですが、当時は寺に入っても 俗世の身分がものを言うのが一般的でした。つまり、お寺の中でも上 流階級の出身者はそれ相応の処遇を受けた訳です。京都には○○門跡 という肩書きのついたお寺がたくさんありますが、当時は「門跡さま」 になれるのはその寺の一番修行を積んで徳の高いお坊様ではなく、こ れら上流階級の出身者で、寺ごとに家もだいたい決まっていたんです ね。(△△院門跡は□□家の出身者が代々門跡を継承する、とか) ですから、当時の上流階級の出家とは、信仰に目覚めてとか、仏に救 いを求めて、とかいう本来?の出家とは、ちょっと異質のもので、乱 暴に言うと、家を継げない子供たちの為の「就職先」と言うか、形を 変えた「分家」というか、そのようなものでした。 (だからと言って、全く信仰心がなかった、という訳ではありません。 また、どのお寺でも上流階級を受け入れていたという訳ではありま せん) そして、状況が変わって家を継がせる必要になると「還俗」させて呼 び戻すということも、しばしば行われました。ですから、本人の意思 とかで気軽に還俗できるという訳ではないが、上流階級出身者の場合 は、実家の要請があればいつでも、という慣例はあったと思います。 蛇足ですが、明治維新後の神仏分離にあたり、出家していた皇族は全 員還俗させられ、新しい宮家となりました。その後も皇族の出家の道 は閉ざされたので、新しい宮家の創立だけでは追いつかず、臣籍降下 した××伯爵家とかの設立ラッシュとなりました。明治時代に宮家が いきなり増えた背景は、こんな理由もあったのです。
補足
現代の方が純粋に宗教的な出家をしているようにも感じられますね。 宮家のお話、普段は考えもしないことなのでとても興味深いです。 ありがとうございました。
- tanuki4u
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宗教としてでなく、社会制度として考えるとわかりやすい。 奈良時代においては、得度するとは、国家公務員として仏教担当をするということであった。そのために、私度僧は厳に禁じられていた。 国家公務員で無くなった段階で、私度僧OK、つまり自己都合で僧になるのがOKならば、自己都合で還俗もOKとなりました。 今川家の場合、本家である足利家をまねて、次男・三男を嫡男のスペアとして僧にしていました。得度・還俗が目的ではなく、嫡男のスペア作りが目的ですので、嫡男がいなくなれば、自由に還俗させました。 大奥の場合、将軍が死んだ場合、前将軍の嫁達を前将軍の菩提を弔わせるために得度させました。前将軍の菩提を弔わせることが必要でなくなることは無かったので、還俗ができなかったと言うことになります。
お礼
国家公務員!なるほど、わかりやすかったです。 前将軍は生き返らない、だから還俗しないということなのですね。 大奥に入るって大変なんだ・・・
- hazu01_01
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足利将軍家をはじめ室町時代の守護大名たちは家を継ぐ人物などを除くと出家する例が多くありました。 このようなときに前将軍や前当主が不意に亡くなると出家していた弟たちの出番となります。安く将軍候補あるいは大名候補を教育し育てるための仕組みです。分家させたり、養子にやったりするのは当時の大名たちにとっても大変だったのでしょう。 江戸時代になると将軍も大名も子供たちを出家させることが少なくなり、不足な事態が生じたときの後継者は捨扶持をあてがわれ一生を暮らすことが多くなりました。また、御三家のように各大名も特別な家を作るようになりました。 たぶん、鎌倉室町時代は土地の所有が分家させる条件だったのに、江戸時代になると米、お金等の所有に変わってきたため、出家させてまで財産を守る必要がなくなったためなのかなと思います。
お礼
産業の発展が分家の条件にも影響するんですね~ 想像だにしていませんでした。 なんというか今でいうポートフォリオっぽいですね。 ありがとうございました。
- souun1432
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時代によって「出家」「還俗」の感覚も違うのでしょうが 例えば武田信玄などは出家した後も武田家の舵取りをしていたし 女も欲望の赴くままに抱きまくっていました。 また足利義昭は幼年より仏門に入っていましたが 幕府重臣(三好家vs細川家)の後継者争いに 狩り出されて仕方なく還俗しました。 出家や還俗は政治的アピールであったり、傀儡政権を構築しようとする 実力者たちの手によって強制的にさせられる場合もあったです。 また法体になれば命を狙われることも少なくなるため 保身のために行われたことも多くあるようです。 今川義元の場合は、上記の足利義昭に近いモノがあると思います。 また太原崇孚雪斎(大河で伊武雅刀が演じていた役)のような 坊主だか策略家だか分からないような人もいましたし、 下克上の代表である斎藤道三も、子供の頃は寺に入っていました。 金地院崇伝や南光坊天海のような、まるで悪だくみをするために 生まれてきたような僧侶もいます。 僧侶=聖職とはなかなかいかなかったのが実情のようですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 出家というと世俗の争いに飽きて、文字通り世を捨てるものだと思っていました。(源氏物語で得たイメージなのかな・・・?) 政治と切り離せない時代もあったんですね。とても面白いです。
お礼
日本史の知識は中学生レベルの私にも、簡単にイメージできるご説明をありがとうございました。 皆さんスペアという言葉をお使いになるのですね。要らない時は邪魔にならない場所で暮らしてもらって無駄な争いを防ぎ、必要になったら戻ってもらう。合理的に感じられます。