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カルマについて…
カルマについてお詳しいかたに お聞きしたいんですが。 間接的に本人や当事者には全く 気付かずに、起きた被害とうのは カルマに作用する可能性は あるのですか?
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こんにちは かなり遅れてからの書き込み、失礼いたします。 質問の内容をわかりやすくいうと、カルマの働きとは、その時に生起した心の働きで、相手にも、自分にも現象化するというものと記憶しています。 例えば、喧嘩をしていて、邪悪心をお互いにもち、行動したなら、それが、行ったり、着たりして、激しいものになりますよね。でも、例えば、相手が、冷静な判断をもち、相手に哀れみの心を持ち・・まずないと思うが・・喧嘩をしたなら、その人は冷静に判断と行動をすることで、その喧嘩を回避できるものと。 これを殺生のカルマにおきかえると、ひとは知らず知らすのうちに虫、小さな生き物を殺しています。そして、その結果の現れとして、例えば、認知するまでは痛みを感じなかった、つまり、体のどこかにキズが、あり、それを発見するまでは、キズの痛みを感じなかった・・ということはありませんでしたか?? こういう形で、カルマは現れるものと感じます。 これの応用として、例えば、"蚊"を殺すにしても、嫌悪を持たず、「ごめんなさい、どうか、来世、いえ、未来において、私との縁により・・」と願い、"バン!!"と殺してます。ただし、そのあとのカルマのかえりは覚悟のうえ。多少のキズ、けがには要注意という意味で。 上記の内容、ある程度、経験はしているが、一般的な本の考えを自己流にまとめ、紹介しました。そのため、参考意見とさせていただきます(__) 以上
- mmky
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「間接的に本人や当事者には全く気付かずに、起きた被害というのはカルマに作用する可能性はあるのですか?」 ですね。 はっきりいって「ありません。」 カルマ「業(ごう)」というのは本人が身につけた良いことや悪いことのことです。身についてないものは業にはならないですね。よく勉強して身についた勉強癖は善業ですね。一般的に良いことを身につければみんな善業ですね。逆に悪いことで身についたことは悪業ですね。例えば、嘘ばかりついていて身につけたうそつき癖は悪業、万引きばかりして身につけた盗み癖は悪業などですね。それから、地震、不慮の交通事故、飛行機、電車など何でもいいんですがそのようなものはあくまで不慮ですから業にはなりえないんです。ただそのときの恐怖心が残っている場合などありますが時間がたてば消える程度のものですから業とはいえませんね。飲酒運転なんかは飲酒癖が悪業ですね。それで事故を起こせば悪因悪果ということですね。つまり、カルマ「業」というのは積極的に身につけた癖のことです。それが傾向性として現れるということですね。他人(家族も含む)からもらうものではありません。また、過去世も含めてながいあいだ積極的に身につけているものなので意識して直さないとなかなか直らない癖が業・カルマですね。
此の世は仮説の進化論ではなくて因果の法則で循環している。彼の世も因果律である。よって普遍の原理と言う。カルマは業(ごう)とも言い、因業とも宿命とも言う。 人は色々な人生を送るが、カルマの解消のために生まれ出て来たにも拘わらず、解消ではなくて寧ろ再び繰り返す。例えば交通事故を起こして迷惑を掛け、或いは病気になって保険の世話になる。 或いは犯罪を重ねて更にカルマを強めてしまう例が多い。此れが業(ごう)である。先祖の業は、例えば先祖に無関心な子孫に繰り返す。例えば盗癖や色情、喧嘩、殺人などを自ら繰り返す。 其れによって自ら先祖が体験した意味を味わう(追体験する)ためである。ただ其のカルマを解くには先祖を世間的な評価で子孫が裁いてはならない。 身内や子孫は、何故其れが起きたのかを理解して上げる事が自然消滅と次なる発展になる。 其の彼を世間的な評価を下して軽蔑したり憎むのではなくて、その事で家が絶える事を避けてくれた事(散財と言う精算による罪障消滅)に感謝すれば解けるのです。 日本人は定住民族であり、昔から先祖の土地で何代もの子孫が後をついで「一所懸命」に暮らして来た。カルマはつまり地縁と密着したものであり、此処には良い意味でのカルマがある。 或いは「前世に何かを行った時に、溜まった感情の鬱積をカルマと言う。つまり拘りです。其れを引きづったまま、また同じ場所や人に自分を引き寄せ、其処で其れを晴らすために無意識のうちに歪んだ形で再発したり繰り返すのもカルマの実態です。 またカルマとは悪業に限らずこの世での生存要因であり、生きていること自体がカルマに基づいており、従ってカルマを果たした時が死ぬ(他界する)時である。 最終的には全てのカルマから解脱し、命の本源に還り着きます。しかし其れまでには成すべき事があり、簡単に想念だけで其のプロセスをカットして本源に辿り着けるものではない。 「其のプロセスが人生です」(「」内は「前世」浅野信著・たま出版より引用)。階段でも一段目から一挙に五段目へとジャンプするのが難しいように、其の一段毎のプロセスを実体験する事が人生である。