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名和長年が死んだのはどこ?
辞書等には、「三条猪隈」となっていますが、名和長年遺址は、現在一条通近辺にあります。これはなぜでしょうか??
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船上山史ではこの大宮一条の碑を、明治19年1月建つる所、即ち公戦死の地と推定して建てられしものなるべし、と記してあり 太平記には長年戦死の地を大宮、名和系譜には内野とあり (内野は今の千本通りの東西の陣の南の総称で、大宮通りもこの中にある事になります。) 梅松論には、 新田義貞は大宮、名和長年は猪熊の二手に分かれて八条坊門まで攻め下って来たが、苦戦し元の道を二手に分かれて引きあげて行ったが、長年は三条猪熊において、討ち取られた。と記されています。 猪熊と大宮はほぼ隣りであり、内野より、三条の地猪熊大宮の街等が一体の戦場となった故に地名がばらばらでこういった伝わり方をしたのだろうと 名和氏紀事にはあるそうです。 (富永源十郎著 名和長年 を参考に回答いたしました。私事で大変失礼致しますが、私は熊本八代の流れの名和の末裔にあたります。)
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- komes
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回答No.1
何故かは知りませんが2説あるようで、三条猪熊というのと、大宮中立売北となっています。 後者は京都教育委員会の設置した石碑の場所です。 乱戦のなか包囲されて脱出を試み移動中の戦死だったのかもしれません。
質問者
お礼
ありがとうございました。
お礼
末裔の方にご回答頂き嬉しく思います。 私は名和氏に由来する鳥取・名和町の近辺の出身でして、京都に来てずっと疑問に思っていました。ありがとうございました。