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原体験的恐怖
「恐怖の原体験」「原体験的恐怖」とは、どういうことを指すのか知りたいです。
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人間の死体、特にバラバラにされた死体とかを見て感じる恐怖のことです。 人間じゃなくても人形や人の形をしたものが首だけが落ちていたら気持ち悪いですよね。そういう死を連想させる恐怖のこと原体験的恐怖といいます。 ちなみに人間だけじゃなく猿にも恐怖の原体験はあるようで、同族の切り離された身体を見たりすると脅えるそうですよ。
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- starflora
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どういう意味と文脈で使っておられるのかによって違う意味になると思います。「原体験」を深層心理的な「トラウマ」のような意味に捉えれば、成長の過程で出会った、色々な体験のなかで、何かの理由で衝撃的で、無意識における「恐怖体験」として定着し、以降、何かのできごとにおいて、この無意識の「恐怖」が再現される、あるいはその感情価が再現されて、意識ではコントロールできない「恐怖の感情」に心が呑み込まれるような場合があります。このような出来事で、恐怖の元になった無意識にまで影響を及ぼした体験が、「恐怖の原体験」だという解釈があるでしょう。 しかし、何故、或る体験が無意識に衝撃を与え、トラウマとなって、後の人生の経験の際に参照され、恐怖が再現されて来るのか、この理由を考えていると、人間の「自我の成立」における、意識の普遍的な事態あるいは構造としての「恐怖」があり、子どもの頃の原体験とは、この無意識の心に普遍な構造の恐怖に触れた結果、できたトラウマで、起源は、無意識にある構造と、「自我」とは何かという話になるでしょう。 フロイトは、ユングと違い「集合的無意識」とか「原始類型=原型 Archetype」などを主張しませんでしたが、彼は「禁忌(タブー)」というものを提唱しました。タブーは、人類学で存在することが確認されていた現象で、フロイトはその社会個人心理現象を、彼の無意識心理学理論(精神分析理論)で説明し、基礎付けたとも云えます。 フロイトの場合、「自我」の成立は、欲望の塊である「エス(イド)」と、社会的ルールの内面化である「超自我」のあいだの葛藤で、超自我に従いつつ、エスの欲望を実現するインターフェイスとして「自我」が構成されたのだとします。「禁忌」とは、超自我に刻まれている社会的規範のなかで、もっとも強く、もっとも原初的で、エスの欲動と矛盾するような何かでしょう。例えば、「殺人の禁忌」とか「近親相姦の禁忌」などは、後者は、合理的理由がないようにも考えられます。血族結婚を繰り返すと、遺伝的に問題が起こるということが理由かも知れませんが、本当の理由は、レヴィ=ストロースなどが主張したように別の所にあるようです。 フロイトの理論だと、エスの無限欲望に従って、自我が、超自我の規範に反することを行おうとした時、つまり、禁忌を侵犯しようとした時、超自我が、自我に与える罰が「恐怖」だということになります。「禁止」を破ろうとすることに対し、無意識的に加えられる否定感情であるので、これが「恐怖の原体験」なのだとも云えます。しかし、フロイトの理論では、何故、人は「死に恐怖するのか」の理由が根拠付けられません。生物は生きる本能があり、エスも無限の快楽の生存を望んでいるが、超自我が、無限の生存を否定するので、それがトラウマとなって、「死への恐怖」が生まれ、この恐怖が解発される契機となった経験が、「死の恐怖の原体験」なのかも知れません。 他方、参考URLでは、「同類への殺戮を禁じるタブー」が、集合的無意識の原型のように、人間の無意識に刻印されており、「同類への殺戮」を暗示するシーンである、人間の身体のバラバラな状態が「恐怖」を呼び出すとあります。この場合、「恐怖の原体験」とは、人類の祖先が経験した同類殺戮の恐怖を、「遺伝的記憶」で保持しているということになり、これはユングが初期の頃に唱えていた、種族的・民族的遺伝記憶としての「原始類型」だということになり、「恐怖の原体験」は「集合的無意識」に記録された、祖先の原恐怖の記憶だとなります。 しかし、本当にそうかと言う疑問が起こります。大脳生理学的には、確か、神経伝達物質と、脳の特定部位の関係で、脳の特定部位が、神経伝達物質により或る刺激を受けると「恐怖の感情」が発生するとされます。脳には、「恐怖の感情の中枢」があるということになります。何故そのような中枢があるかというと、恐らく、生存に不利な行動は抑制するよう、「抑制感情」の中枢ができ、これが「否定的抑制感情」の源で、否定的抑制感情が、つまり人間の感情経験では「恐怖」に該当するのでしょう。 何故、「恐怖」の感情中枢があるのかは、多分、人間や高等霊長類の知能の発達と関係あるのでしょう。哺乳動物一般でも、「行動抑制判断の感情」というのはあるようです。強い敵に出会うと、相手を判断して、身を隠すとか、逃げ出すとかは、「行動抑制感情」によって、そういう判断がなされているのでしょう。事態が非常に危険であると「パニック行動」になり、このパニック状態の感情が、人間の「恐怖」に相応するものなのでしょう。 知能が発達したが故に、恐怖の感情中枢を持ったということは、人間の「恐怖」の対象は、基本的に「未知な状況」であり、知能で見通しの付かない状況が、恐怖の感情を引き起こすのだとも云えます。「死の恐怖」は、人間は知能によって、自己の死の状況をシミュレートできるので、シミュレートのなかで、「パニック反応」が解発される直前のレベルまで行くことがあるのであり、「死」が端的な未知であることと、生物が生命の危険に襲われると解発されるパニック反応の感情が混ぜられて、生理的レベルでの「恐怖感情」が起こるのだと云えます。 ユングの心理学では、自我は、「意識」であり、何より、意識できるものには「恐怖」はないが、意識できない状況や対象、つまり、自我にとって了解できない、解釈できない状況や事態、対象は、「恐怖」を引き起こすものとなります。集合的無意識自体が、自我にとっては恐怖の源泉であり、外界にある恐怖の対象物や状況は、集合的無意識が持つ原型的状況の投影であるということになります。夜の森とか、未知の人や未知のものは、集合的無意識を象徴する何かで、それ自体が「意識を越えたもの」なので、恐怖であるとなります。 未知のものは、何かが分からないので、行動抑制的感情が起こるのが妥当です。好奇心も起こりますが、知能のある生物としての人間は、好奇心によって、未知のものに触れて、致命的な結果を招く可能性があるとも云えます。それを防止するため、或る体験において、恐怖の中枢やパニックの中枢が励起されるような無意識の反応が起こり、この体験が、「恐怖起動」の「原体験」として、無意識と意識に記録されるのでしょう。それは多分、発達心理学において、発達の途上避けられない、「自我の孤独=自我の死」の体験でしょう。母親、あるいは、自我が無意識的にも、そのものと「一体」であると感じ、安らいでいた状況が、断絶され、自我が孤独で、周りのすべてが未知なものと感じられるような体験が、不安や恐怖の「原体験」ということになるでしょう。 大体の人は、蛇や、人間の死体を怖がります。人間の死体の場合、それが何か認識できなくて怖くない場合があるのですが、何故か蛇は、怖いようです。これは、集合的無意識の記憶で、恐怖を解発するシンボルであるからでしょう。「恐怖の原体験」というのは、「恐怖の中枢」が励起されたような体験で、それは、自我にとっての「根元的未知」に対するもので、発達心理学的には、幼児の母親などとの「分離の孤独体験」がそうであり、「分離の孤独体験」が何故恐怖かと言えば、「未知」のなかで、自我が孤立している状況がまさに最大の危機であり、最大の危険状況で、それに対し、パニック反応や、恐怖の中枢の励起があるためでしょう。 幼児は、経験がなくとも、ある種のことは知っており、どうして知っているかと言えば、集合的無意識の記憶として知っていることになり、「恐怖の対象・状況」も知っており、これも集合的無意識の記憶であるとすれば、「恐怖の原体験」は、ユング的には、集合的無意識の「原型」としてあり、これが具体的な発達途上の具体的経験で呼び出された時、その経験が、「個人の経験としての」「恐怖の原体験」となるということでしょう。 具体例で言えば、幼児とか子どもの時、一人で、未知の森に迷うとか、知らない場所で迷子になるとか、安心感の源泉であった母親が急にいなくなり、生活状況が見知らぬものに変化するなどの体験が、原体験でしょう。「原体験的恐怖」というのは、パニック触発も加え、無意識のなかにあるものですが、それが具体的経験で、連絡されて、以降参照されるようになるということです。 「死の恐怖」は、「生存欲動」があり、「死」が否定的感情をもたらすのと、それが意識自我にとって「完全な未知」だからでしょう。子どもの頃から「死後の世界の神話」に親しんでいると、「死の向こう」がまったき未知ではなく、「既知の世界」であるとなり、昔の人は、パニック的状況は別に、相応の年齢になれば、「あの世に行く」というのは、或る程度自然だと納得できたのでしょう。現代人は、そういう神話が希薄であるので、「死の向こう」は「完全な未知」つまり「無」だということになるので、これが恐怖だというのは、普通のことなのでしょう。 >2つめの謎解き >http://www.psy.educa.nagoya-u.ac.jp/intropsych/psychology/nazotoki2.asp