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イギリス王室は何処から来たの?

 イギリスの王室は過去に絶えてしまい、オーストリアから迎えた人たちだという話を聞いたような気がするのですが、本当なのでしょうか?  本当だとしたらどんないきさつで今の王室の人たちが選ばれたのでしょうか?また、イギリス国民は見んな知っているのでしょうか?

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  • starflora
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回答No.2

    イギリスの王室は、過去何度も絶えています。この場合「家系が絶えた」というのは、王家の継承者が、正統な継承権を持つものとしていなくなったという意味です。     歴史的に有名なエリザベス一世はテューダー王朝最後の女王で、テューダー家は確か、ヘンリー七世の時、前の王朝の断絶を受けて王位につき、テューダー王朝を創始したはずです。     しかし、エリザベス一世処女女王は、後継嗣子がいなく、その兄弟姉妹も近親も正統な王位継承権を持つ者はいなくなったので、1603年、エリザベスの崩御と共に、スコットランド王国国王ジェームス六世を、イングランド王国国王として迎え、ここで、スコットランドのステュアート家の後継者である王を迎えたので、イングランドの王室は、テューダー王家からステュアート王家に変化するのです。ジェームス六世は、イングランド王位継承権を持つ、スコットランド女王メアリーの息子で、メアリーはイングランド王位を主張して、エリザベス一世に処刑されているので、メアリーの息子ジェイムス六世にイングランド王位継承権があり、彼がエリザベスの後を襲って、イングランド王になり、「イングランド王国国王ジェイムス一世兼スコットランド王国国王ジェイムス六世」となたのです。     スコットランド王国とイングランド王国は、同じ人物を王とする別の王国で、1707年、アン女王の時、両王国は統一して、グレート・ブリテン王国になります。     ステュアート王家は、名誉革命で、1688年ジェイムス二世が王位を追われ、フランスに亡命した後、ナッソー伯爵兼オレンイェ公爵オランダ総督ウィーレム三世が、その妻で、スチュアート王家出身のメアリーと共にイングランド兼スコットランド王位についたのですが、メアリーの方が王位継承第一位であったので、王家はステュアート家のままで、この二人の後を継いだアン女王が1714年に崩御すると、後継者がいないので、血縁を過去に遡って、ドイツのハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィッヒを、グレート・ブリテン国王に迎え、ゲオルク・ルートヴィッヒが、グレート・ブリテン王ジョージ一世となります。     ジョージ一世は、同時にハノーファー侯ゲオルク・ルートヴィッヒでもあり、王家が、ここで「ステュアート家」から、「ハノーファー家」に変わります。     グレート・ブリテン王国国王は、以降、ハノーファー選帝侯を兼ねていますが、1801年、グレート・ブリテン王国は、アイルランドを併合して、グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国となり、当時のジョージ三世(ハノーファー侯ゲオルク三世)は、グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国(以下「連合王国」)国王となります。また、ハノーファー選帝侯家は、公家になり、やがて王家になります。     1837年に、連合王国王位を継いだ、ヴィクトリア女王は、1901年まで在位しますが、彼女の崩御の後、王位を継承したのは、ヴィクトリアと、そのクイーン・コンソートのザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートのあいだに生まれたエドワードで、1901年エドワード七世即位と共に、家名を、ハノーファー王家から、「サックス=コーバーグ=ゴータ家」に変えます。     連合王国の王家は、1901年からは、サックス=コーバーグ=ゴータ王家です。しかし、1910年にエドワード七世から王位を継承したジョージ五世は、1914年、第一次世界大戦において、ドイツと戦争状態になった為、王家名を変え、サックス=コーバーグ=ゴータ王家から、ウィンザー王家に名称を変更します。     それ以降、現在まで、ウィンザー王家の名で、連合王国王家は、現国王エリザベス二世で、英国を統治しています。     イギリスの王家と言っても、11世紀のノルマン・コンクエストで、プランタジネット王家が英国王となったと言っても、この時のイギリスは、イングランドであって、まだ、ウェールズは独立国で、ウェールズ大公が君主であり、イングランド王国国王ウィリアム一世は、ノルマンジー公爵を兼ねていました。プランタジネット家のジョン失地王は、その名の通り、北フランスのノルマンジーの領土を失い、それ以降は、英国王とは、イングランド王のことでした。     プランタジネット家以降は、何らかの意味で、王家と血縁を持っていた人物が、先の王家が断絶すると、新しいイギリス王家を創設した訳で、色々な王家が、イギリス王位につき、やがて、イングランド王国は、ウェールズを併合して、イングランド+ウェールズのイングランド王国となります。     更に、スコットランド王国とも王国合併して(併合ではありません)、グレート・ブリテン王国になったことは以上に述べた通りです。そのグレート・ブリテン王国が、アイルランドを併合して、グレート・ブリテン及びアイルランド連合王国になったのも以上説明した通りです。この後、南アイルランドの26州が、1922年にアイルランド自由国(1949年にアイルランド共和国に改名)として独立して、北に残った6州が、連合王国に留まったので、イギリスの国名は、グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国となっています。     >本当だとしたらどんないきさつで今の王室の人たちが選ばれたのでしょうか?また、イギリス国民は見んな知っているのでしょうか?     上に説明したように、王家の正統後継者が絶えると、その王家の血縁の別の家が王位につき、新しい王家となって継承されて来たということです。イギリス国民は、少なくとも普通教育を受けた人は、自国の歴史ですから、みな、概ねのことは知っているはずです。細かいことは、日本人でも、日本の歴史をよく知らない人がいると同様に知らないかも知れませんが。別に秘密でも何でもないので、調べれば、すぐ分かります。       >ハノーファー家   >http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/hanover.html   

参考URL:
http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/hanover.html
nobu_s
質問者

お礼

大変詳しく説明していただきありがとうございました。参考URL等も非常に役立ちました。

その他の回答 (2)

  • tiuhti
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回答No.3

ハノーヴァーからGeorgeⅠが迎えられたのは、名誉革命(The Glorious Revolution)でカトリックのJamesⅡを追放したプロテスタント勢力(=議会)が、「王位はプロテスタントに限る」事にした為です。GeorgeⅠは、プロテスタントの中では血筋の点で最も近かったのですが、血筋上で、より強い王位継承権を主張できるカトリックが50人ほどいたとの事です。実際、JamesⅡの子孫が王位奪還を図り、孫のCharles Stuartは主にスコットランド北部からの兵を率いて、スコットランドからイングランド中部までに攻めこんでいます。 ノルマン人の征服以降の「○○家」と区別される血筋の王が位についた例を全部あげると、 1. ノルマンディー家からプランタジネット家へ(1154年) HenryⅠから、Stephen(HenryⅠの甥)とMatilda(HenryⅠの娘)の王位継承の戦いをはさんで、HenryⅡへ(Matildaの子)。 2. プランタジネット家からランカスター家へ(1399年) RichardⅡからHenryⅣ(RichardⅡの従兄弟)が王位を簒奪(RichardⅡは、王位を奪われた後、餓死させられたとされる。) 3. ランカスター家とヨーク家の王位争奪戦(ばら戦争/1455~85年) 長くなるので説明はパス 4. ヨーク家からチューダー家へ(1485年) HenryⅦがヨーク家のRichardⅢをボスワースの戦いで破り王位につく。(RichardⅢは、戦場で斃れた最後のイングランド王) 5. チューダー家からスチュアート家へ(1603年) 既に他の方から説明があった通り 6. スチュアート家からハノーヴァー家へ(1714年) 他の方からの説明及び冒頭に説明した通り 7. ハノーヴァー家からサクス・コーバーグ・ゴータ家(現在はウィンザー家)へ(1901年) 既に他の方から説明のあった通り。 新王よりも、正統性の点ではより強く主張できる、王家の血筋をひく者が他にいた例もあります。(例えば、RichardⅡは、別に後継者を指名している。) 何をもって「正当な王位継承者」とか「王統が絶えた」というかは定義の問題だろうと思いますが、「ムリヤリ絶やした」と言える例も結構あるので、「王家の正統後継者が絶えると、その王家の血縁の別の家が王位につき、新しい王家となって継承されて来た」と言うと、かなり印象として違うような気がします。但し、ハノーヴァー家に限って言うなら、「当時の政治状況からしてカトリックは正統とは言えない」と考える立場からは、正当な後継者が絶えた、と言ってもいいのかも知れません。 いずれにせよ、イギリス人は、まじめに学校の授業を聞いていれば、上記の様に、「王位が絶えた」というよりも、むしろ「王位争奪の為の戦い」というべきものが何回も繰り広げられた話を習ったのを覚えているはずです。ランカスター家とチューダー家のそれぞれの王位獲得の経緯は、シェークスピアの劇にもなっていて結構有名ですから、いわゆる「教養人」が知らない事はまず考えられません。 他のヨーロッパ諸国については、スコットランドでのスチュアート家が王位についたのや、フランスのカペー朝の成立ぐらいしか知らず、あまり詳しくありませんが。戦前の日本が「万世一系」といって威張っていたのを考えると、日本の方が珍しい例なのかも知れませんね…。例えばチューダー家の創始者のHenryⅦは父系の血筋で言えばウェールズ人って事になりますが、それでもランカスター派のイングランド王の最有力候補になりました。日本だったら、こういうのはどのように解釈されていたでしょうか。 尚、本質的な問題では全くありませんが、ノルマン征服の頃には、Prince of Walesはまだいませんでした。それが出てきたのは13世紀です。また、いた時期でも、Prince of Walesはあくまでウェールズ系領主の君主であって、ウェールズ内のノルマン系領主との関係は、両方ともイングランド王に忠誠を誓う同輩、とも言えます。

nobu_s
質問者

お礼

大変詳しくありがとうございました。世界的には万世一系の方が珍しいのですね。目から鱗が落ちました。

  • Umada
  • ベストアンサー率83% (1169/1405)
回答No.1

1714年にAnne王女が亡くなりStuart朝が絶えると、遠縁のドイツ・Hanover選帝侯が王に迎えられてGeorge I世となりました。これが現在の英国王室の祖です。Hanover朝と呼ばれましたが、第一次世界大戦の時に敵国の地名を冠するのを避けてWindsor朝と改称しました。 従って王として迎えたのはオーストリアからでなくドイツからで、選ばれたいきさつは「遠縁」ということになります。イギリス人がみな知っているかどうかは分かりませんが、王朝名の改称は近代になってからですからある程度は知られているのでないでしょうか。

nobu_s
質問者

お礼

明快な解答ありがとうございました。参考になりました。

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