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恥
自分の拙い思索の結果、「恥」意識の発生するメカニズムについて、一つの命題というか仮説のようなものに辿り着きました。 「所属する集団・共同体の『規範』に外れた行動をとってしまった時、(あるいは、それを人に指摘された時)人は『恥』意識を抱く」 ですが、これの真偽の程がどんなものなのか、気にしています。 何分「規範」とは目に見えないものでありますゆえ、一人でできる想像と思索の限界を感じております。 ちょっと、いや、かなりアヤシイ気がするので、どなたか修正点ありましたら是非教えて下さいませ。
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- nyozegamon
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「恥」の語源としては↓のように出ていました。 http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/zinseinooto2,.htm#25 参考文献を紹介します。
- joley
- ベストアンサー率7% (1/14)
凄く興味のある疑問だったので考えてみました。 参考にならないかも知れませんが、 思春期などは恥に敏感ですよね。 限られた範囲の中で長い時間、同じ人間が同じ服装をして その中で変な変わったことをすると凄く恥が強調されます。 それは集団の基準というものが強いしよく見えるからでしょう。 でも社会に出て自分が確立されてくると違ってきますよね。 たとえ集団であっても 今度は自分自身で定めた(基準)がありそれに反していれば 恥ずかしいと感じますし、他の大半の人が大それた事、恥ずかしい事 と思っても本人の中の基準に反しなければその人は”恥”を感じないのでは ないでしょうか? 集団の質にもよると思うのですが、 その基準は人それぞれ異なっています。 周囲の基準と自分の基準の重みのバランスということでしょうか。 周囲の基準の濃度が薄くなると自分の基準に習って恥を感じる。 周囲の基準の濃度が濃くてもそれ以上に自分の基準が強く、それに反して さえいなければ恥を感じない。 デーブスペクターはどんなに人々に非難されようが痛くも痒くもなさそうだ・・・・・・・・。 失礼しました。。 どうなんでしょうか。。。
お礼
回答ありがとうございます☆ 参考になっています☆ お答え頂いて新たに考えた問題は 集団とか共同体、とかは否応もなく「出る杭を打つ」性質を持っているのだろうか? ということです。 変化を嫌う。 いろんな新しいものが生まれて出てくる中で、アウフヘーベンが起こってより良いものが生まれるはずなのであれば、そんな性質は、ちょっといやかも、と思ってしまったりもします。( ̄ー ̄; デーブスペクターからの連想でもありますが、さっきテレビでサッカーを観戦しに日本にやって来ている陽気なアルゼンチン・サポーター達を日本人たちが反応に戸惑いながら傍観している情景を思い出しました。 仰る「周囲の基準と自分の基準の重みのバランス」のいい例かな、と。
- _hiroya_
- ベストアンサー率5% (2/34)
恥をかいたときには、「あほらし」と思うか、どきどき心臓爆発しそうになるか、いろいろあると思うんだよ。 例えば好きな人に迫られたりすると、もう死にそうになるぐらい、どきどきするだろ?恥ずかしい。顔を隠したくなるよな(笑。パンツ脱いだら前を隠したくなるよな(昔はそうだった)。 社会規範を逸脱する事でかく恥は、あほらしってなるな。 それをかたくな守ってた自分に対して。 逸脱する、はみでる事で他の社会規範というか、常識の変革と言うか、ようは価値観が変わるって事かなぁ。
お礼
ご参加いただき、感謝、です。 恋愛ネタや、エロネタが絡むと、問題は更にヤヤコシク、複雑になりそうです。 ・恋愛における「私」と「他者」の関係 ・セックスと社会規範の折り合い この2点を避けることができなくなるからです。 個人の内面では、生きようとする限り(あるいは「より善く」生きようとする限り)常に、規範意識が変化し続けているんだと思うんです。 他人との関係の中で、その新しく更新・形成された規範は「試される」。 好きな人の前でのドキドキ、というのは、それが最も端的に、かつ個人の持つ様々な「関係」の中でも、極めて重要な位置を占める「関係」だからだろう、と。 嗚呼、何か「哲学」っぽくなってしまうなぁ。
ある人に想いを抱いていて、なんとなくいい感じの関係が続いていた。で、彼女を恋人にしたいな、と思い始め、次はこうしよう、ああしようと、考えをいろいろ思い巡らせていた。すると、自分に欠乏していたもの(恋人の愛情)が充足されるかもしれない期待感を伴った願望は、いよいよ膨れ上がった。そんな時、彼女から、突然の絶交宣言。なんと、自分の≪個人の願望・自分の意志したところ≫(恋心)は、外部(彼女)からの否定(絶交)によって妨げられてしまった・・・『ああ、風船のように大きく膨らませてしまっていた僕の願望が、、ああ…なんて恥ずかしい!』…てな感じです。 とりあえず「絶交を言い渡した彼女」という「他人」はいますが、内部でひっそり膨らませていた風船を、己の中で恥じてしまう、ってことですので、自意識過剰の「恥」とでもいいますか…。まあ、自己内の感情の起伏の一部です。多分、言葉にしたら、「恥じらう」の「恥」と思われますから、この場合は、「照れ」の類いですね。 レベルは違いますが、「恥」は社会的、「照れ」は個人的、に感じる、同種の意識のようにとらえています。 すみません。回答でもアドバイスでもなく、先の補足のような、閑話休題ってことで…お許しくださいませ。
お礼
うーん、思い当たるフシがあるような、ないような。^^; 絶交宣言は受けたことナイですが、「照れ」というのもまた示唆的な気が。 誉められる → 照れ 侮辱される → 恥 と簡単にその感情の発生するメカニズムを括ってしまうと、どうしてもその「境界」というか「ボーダー」の存在があるように思えるんです。 これを「規範」と捉えると、この「規範」という概念は「ルール」とも不可分であるように思うんです。 「ルール」はやがては「法」になりますから、「人が何を恥と感じるか」ということは「時代」を読み解く上で実はとても重要な鍵になる、とも思うんです。 という訳で、今ワタシの中でこれは結構大きな位置を占めるテーマだったりします。 * >閑話休題ってことで…お許しくださいませ。 イエイエ。そのぐらいのノリでお答え頂けるのが助かるところです。^^ 権威ある学問的解釈よりも、個人の経験と思索に基づく洞察の方が、私にとって、まま説得力を持ちますので♪
「自分の意志したところを、外部からの否定という形で妨げられた時」、つまり、「自己内の欠乏を個人の願望の充足という形で終わらせることができなかった時」にも人は恥の意識を抱くように思いますが…いかがでしょうか。ただ、この場合は、即座に「怒り」や「悲しみ」にすりかわるとも考えられます。ですから、直接的には恥と認知されにくいようですが、実は、「恥の意識」がまず根底にあるように思うのです… civilさんの仰るような恥を、社会的見地からの恥の意識と仮定するとしたら、ごく個人的見地に発生する恥の意識もあるように思えるのです。 …これこそ、アヤシイですけどね(苦笑)。
お礼
なるほど…。 恥を感じる自分に対して「怒」ったり「悲し」んだり、という感じでしょうか。 社会的見地と個人的見地、というのは何か示唆的です。 ですが「恥」そのものは他人を媒介としなければ発生しないものだと、思うんです。 例えば私はたまにバスケをやりますが、3Pシュートを打ったとして、外したらこれは結構「恥ずかしい」です。 しかし一人で公園のゴールで練習してたりして外しても、「悔しい」はありますが「恥ずかしい」ではないんですね。ちらっと周囲を見回したりして、こちらを見ている人を発見したとき、「恥ずかしい」に変わるように思うんです。 うーん。『裸の王様』でも再読してみますかにゃ。^^ お礼が遅れました。ありがとうございました。
- yama_x
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個人的にはおおよそそれで正しいのではないかと思います。 古い言い方をすれば「人様に顔向けが出来ない」ことが恥ずかしい訳ですから、それは「所属する集団・共同体の『規範』に外れた行動をとってしまった」こととほぼ同義だとも言えるでしょう。 最近、「恥の意識が薄らいでいる」と言われますが、それは言い換えれば「共同体」としての意識が薄らいでいるのでしょう。 社会全体を「共同体」としてとらえることはせず、ごく少数の仲間内だけを「共同体」として認識しているから、公共の場で何をしても、仲間内の「規範」から外れていなければ恥ずかしくない訳です。 という、考え方はどうでしょう?
お礼
ありがとうございました。 そうですね。 社会の共同体としての昨日が著しく低下したが故に「規範」が不明瞭になってしまった、という世界観に基づくと、「恥」は発露されにくい感情、というよりも、いつどこで出現するか知れない「恐怖」として人の中で潜在的な擦り替わりが起こってしまったのかも、ですね。 これがいいことなのか、悪いことなのか、は人それぞれ、といったところでしょうか。^^
お礼
語源と文献のご紹介をありがとうございます☆ なるほど「外れ」・・・。説得力あります。 文献の方もあたってみたいと思います。 ありがとうございました。m(_ _)m