「作者の死」はどこまで妥当なんでしょう?
文学や映画作品の考察についての質問です。
よく、作品のディティールについて、「何故そうした表現がとられるのだろう?」という考察が為されています。例えば、主人公が寿司を食べている場面があれば、「何故ここで(カレーやうどんなどではなく)寿司なのだろう?」という問いが立てられたり、登場人物の容姿・服装について、それが何を象徴するのか、といった議論がなされたりしています。
こうした評論を見ているとき、時折、そんなに細部にまで問いを立てて意味はあるのか?と思ってしまうことが有ります。例えば、上の例でいえば、「寿司は江戸っ子の気風を暗示する」だとか、「生で動物の肉を食べるということが獣性を暗示する」、だとかいう考察に対して、作者は主人公にとりあえず寿司を食べさせたに過ぎないのであって、別に、他の食べ物でもなんでも構わないのではないか?と考えてしまいます。
そうした疑問への反論のひとつとして、「作者の死」という発想があるでしょう。
「作品を、作者からの強力なメッセージだと考え、それを作者の意図どおりに受け取ることこそ至上、とすることは止めよう。受け手が主体的に意味を作り出していこう」という考えが「作者の死」、と理解しています。
しかし、寿司が作者の気まぐれに過ぎない要素であるとしたなら、そこに受け手が「何故寿司なのか?」という問いを投げかけることがどこまで生産的でしょう?作者がそれをカレーやうどんにしていたら、立てられる問いも寿司からカレーやうどんに変わっていたはずであり、それに応じて結論も変わってしまうはずです。
僕が疑問に感じているのは、「作者の死」という言葉の下、「元々の作者の意図」というのを殆ど無視していながら、結局、作者のきまぐれで結論が変わってしまう、という議論がなされている、ということです。
「ここで作者はこういう小道具を用意しているが、物語の内容から考えるに、もっとこうした小道具があるべきだ。それを登場させなかったのは作者の細部をくみたてる力の欠如を示す」という議論に繋がって行くのならまだ、批判の生産性というものが感じられます。
しかし、作中で描写されているもの/出来事を、絶対的なもの/あるべき場所にあるべきことが描写されている、というように考えていながら、作者の意図を排除し、自由な解釈を与えてしまうという議論には、いびつさを感じてしまいます。
こうした議論にも価値はあるのでしょうか?それとも、作者の死という発想から生まれる批評には、もっと正しいやり方があるのでしょうか?
みなさまのお考えを聞かせてもらいたいです。
お礼
さっそくの回答ありがとうございます。 私は実際に見ていないんですけど。 あるテレビ番組で京極さんが出演された際、澤井澤田事件(?)のことは仰っていましたー。 やっぱり誤植なんですかね?ちょっと幻想的な一文だと思ってしまった自分が情けないやらあほらしいやら(笑)