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しぇいくすぴあ「マクベス」に登場するマクベス夫人は現代にもいるか?
シェイクスピアの四大悲劇「マクベス」について・・・ マクベスに登場する夫人は、現代にもいる(夫人の要素が現代人の中にもある)と思いますか? またシェイクスピアはマクベスを通じて人々に何を伝えたかったのでしょう 高校生ですので、わかりやすくお願いします。
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きちんと読んだわけではなく、あらすじを楽しんだ程度ですが、 「マクベス」 は好きです。マクベスはもちろん、マクベス夫人もわりと好きです。以下、マクベス夫人についての勝手な注釈をこころみます。 かつて古典的なSF (ヴォネガットやブラッドベリなどのいくつかの作品) を読んで、主人公の妻などの女性が共通してまるで 「マクベス夫人」 のようにえがかれているなあ、とおもったことがあります。男性の主人公が内省的、理想主義的で、優柔不断であるのにたいして、女性は内省することがなく、現実的で果断、世俗的なものさしによって男性を低くみるのです。 たとえば、夫の悪事を背後からリードした妻が現代の 「マクベス夫人」 とよばれるとしたら、そこにはこうした一種の男性中心的な女性観が前提にされているのではないかと感じます。夫が主、妻が従であるのは、日本の神話や仏教、儒教の影響による秩序意識というだけでなく、キリスト教などの一神教における伝統的な価値観でもあります。 マクベスよりも精神的に強かったマクベス夫人が夢遊病のうちに自分を失って死んでしまうことが、わたしにはたとえば、現在のフェミニズムの凋落とすらかさなってみえるのです ( 「さあ、血みどろのたくらみごとに手を貸す悪霊たち、私を女でなくしておくれ」 1幕5場 福田恆存 訳 )。 以上のような俗流の読解にもとづく荒唐無稽な解釈は、シェイクスピアが 「マクベス」 を通じて伝えたかったこと、ではありえません。ただし、作品の解釈とは、かならずしも作者が伝えたかったことを明らかにすることでもないのです。解釈とは、読者によってつくりだされるものです。さらに、作品が芝居として上演される場合には演出者の解釈、翻訳される場合には訳者の解釈もはさまります。もちろん、いろいろな解釈が対等というわけではなく、すぐれた解釈とだめな解釈があります。客観性があって、しかも作品の意味がより豊かになるような解釈がのぞましいのです。そのためには、きちんと作品を読むだけでなく、たとえばもともとの作品の形 ( 「マクベス」 の場合には、もっと長い脚本がはじめに書かれていたという説があり、現在の脚本の一部分がべつの劇作家によって加筆されている可能性もあるそうです) や作者の意図なども、できるだけ明らかにしたほうがよいわけです。そういうわけで、「マクベス」 についても、膨大な注釈や研究、批評があります。あいにく、わたしはそれらをほとんど知りません。 「マクベス」 を書いたシェイクスピアの意図としてよく知られているのは、当時の国王でシェイクスピアの所属した劇団の後援者でもあったジェイムズ1世を賛美することです。 すなわち、この劇は宮中の国王の前で上演されたのですが、バンクォーは国王の先祖でした。王位継承の資格をもち名君でもあったとつたえられていた歴史上のマクベスが劇のなかでは徹底的に王位簒奪者、あっけなく滅ぼされる自業自得の暴君としてえがかれ、一方、自身も王位への野心をもちマクベスの陰謀にもかかわったとつたえられるバンクォーは美化されているのです。4幕1場の魔女の洞窟にあらわれた8人の王の幻影のうち、鏡をもってあらわれた8番目の王は国王の父であって、鏡はスコットランドとイングランドの王を兼ねる国王その人をうつしだすためのものであった、ともいわれます。ついでにいえば、国王は魔術にも大きな関心をもっていました。 こうした作者の意図がたしかにあるとしても、それが劇のテーマということにはならないでしょう。テーマはやはり、マクベスの悲劇 (破滅) のはずです。ただし、どこに悲劇の中心をみいだすかは、観客 ・ 読者しだいなのです。当時 「マクベス」 が胸のすく勧善懲悪のフィクションとして観客に受けいれられたというのはおおいにありそうなことですが、現代の読者が同じようにして読まなくてはならないということはありません。 参考図書 『マクベス』 福田恆存 訳 (新潮文庫) 『シェイクスピアの世界』 木下順二 (岩波 同時代ライブラリー) 『小田島雄志のシェイクスピア遊学』 小田島雄志 (白水社) 『シェイクスピア』 福田陸太郎・菊川倫子 (人と思想 清水書院) "The Tragedy of Macbeth" (Signet Classic)