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祖父が戦時中にいた師団

祖父がラバウルで終戦を迎えました。 シナに4年いた後、そのままラバウルに移ったと聞いています。 祖父が亡くなった今となっては、祖父が戦時中どの師団に居たのかさえわかりません。 祖父の戦友も高齢の為、筆をもてない方ばかりです。 祖父が戦時中、どの師団に居たかを調べる方法があれば教えてください。 この頃の歴史に興味がでたのはここ数年で、祖父に戦時中の事をもっと聞いていればと後悔ばかりです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • KITAIKKI
  • ベストアンサー率55% (462/838)
回答No.4

お探しの部隊ですが、第17師団もしくは第38師団ではないかと思います。 第17師団は姫路で編成された部隊で、所属連隊は鳥取の第53連隊、岡山の第54連隊が主力でした。最終師団長は酒井 康で、した。 日中戦争前は中支派遣軍の指揮下で、無錫、常州、宣興で警備行動を行い、武漢攻略作戦に参加後、第二次世界大戦後は昭和18年にラバウルに派遣されています。 その後昭和19年2月に海軍航空隊がラバウルを撤退してからは、部隊ごと1年半の自活生活のまま終戦を迎えています。 第38師団は名古屋で編成され、所属連隊は名古屋の第228連隊と岐阜の第229連隊が主力でした。最後の師団長は影佐禎昭でした。 この師団は昭和14年に中国広東省に警備任務に就き、大戦突入後は香港攻略戦に参加後、ガダルカナル奪還作戦に参加しましたが、輸送船のほとんどが沈められ、ほとんど手ぶらの状態でガ島に上陸しています。 その後ガ島を撤退後ラバウルで再建され同島の陣地構築に当たっていましたが、そのまま終戦を迎えています。 個人的には、中国に4年ほど駐屯していたということですので、おじいさまは第17師団ではなかったかなと考えています。 おじいさまの出身地や昔話などに、前述の地名などが出ていれば間違いないと思うのですが。 一度ご両親におじいさまの略歴などを聞かれてみればいかがでしょうか? 師団が分かれば、その師団師団の歴史をつづった書籍などが発刊されている可能性もありますので、根気よく探してみておじいさまの苦労でも偲んであげれば、きっとおじいさまの喜ばれると思いますよ。 余談ですが、アメリカ軍から利用価値なしと決断されたラバウルは、太平洋戦線ではある意味恵まれた戦場でした。 その辺のことも、時間を作ってじっくり調べて見られるのも良いでしょうね。 もしまだ何かのご質問があれば、手持ちの資料で分かる限りはお答えします。 おじいさまはよい孫を持たれてよかったですね(*^_^*)

その他の回答 (5)

回答No.6

補足 軍籍は厚生労働省社会援護局援護課または都道府県の援護課(これらの呼称は都道府県によって多少異なるそうです。)

回答No.5

軍籍を請求してみてはいかがでしょう。軍籍とは、丁度軍人の戸籍謄本のようなものです。請求先は、旧厚生省あるいは、旧軍人戸籍があったの都道府県保健福祉部に電話してみるとよいでしょう。 私は、北海道の保健福祉部に請求しました。 実は、私もつい最近まで知らなかったのですが、叔父の軍籍を採ってみたら入隊から戦死までの記録がありました。詳細はこれからの調査しようとしているところです。因みに、私は戦後生まれで軍隊経験はありません。

  • been
  • ベストアンサー率39% (490/1243)
回答No.3

結論から言えば、質問の内容だけでは所属部隊を特定することはできません。手掛かりとなる情報が少なすぎます。 昭和18年ころまでは、太平洋の島々には陸軍の部隊は全く配置されていませんでした。なぜなら、太平洋の戦いは海軍の担当であり、陸軍は海軍の作戦に興味も関心もなく、また、これに口をはさむことが許されるはずもなかったからです。しかし、海軍が拙い戦をして負けそうになったため、急遽、海軍の尻拭いのために中国大陸から部隊を転用するハメになったのです。事態は急を要するため、直ちに転用可能な部隊を多くの師団などから中隊・大隊という小部隊単位で抽出し、これらを寄せ集めた集成部隊(混成連隊・混成旅団など)を編成して太平洋の島々に配置せざるを得ませんでした。もちろん、このような寄せ集め部隊を作るのは好ましいことではありませんが、戦況の急変のためやむを得なかったのです。 つまり、終戦時、太平洋の島々に配置されていた陸軍部隊の「本来の」所属部隊は実に様々であり、少なくとも所属大隊・中隊の名称・番号がハッキリしなければ親元の部隊を特定することはできないのです。 もっとも、親元部隊から離れて諸島に配置された部隊も、後には親元から完全に切り離されて現地部隊の編制に組み込まれました。この段階の所属部隊、いわば養子縁組先の部隊なら、終戦時の所在地である程度の見当をつけることができます。質問者の祖父が「師団」に所属していたことが確実なら、第17師団または第38師団であった可能性が非常に高いといえますが、陸軍の部隊には師団の指揮系統に属さない部隊も多数存在していたので、これも条件付の結論、可能性に過ぎません。 結局、質問の内容だけでは手掛かりが足りません。所属部隊を特定するためには、最小限、所属中隊の名称(秘匿名称でも可)または指揮官の階級・氏名が必要です。出身地(本籍地)や部隊の種類(歩兵、砲兵、工兵など)などの情報も特定のため役に立ちます。ご両親や親戚などにこれらについて確認してみることをお勧めします。

  • merlionXX
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回答No.2

おじい様が将官クラスであれば図書館あたりで調べられると思いますが・・・。 そうでなければ、お亡くなりになるまで支給されていた軍人恩給から調べることは可能かと思います。旧厚生省援護局を引き継いでいる現厚生労働省の部署にあたってみれば記録があると思います。 終戦当時ラバウル方面にあった日本軍の部隊は以下の通りです。 ご参考まで。 【陸軍】 第8方面軍 (ラバウル) 第8方面軍司令部 第8方面軍築城部 第8方面軍特情部 第8方面軍通信部 第8方面軍独立飛行隊 第9砲兵司令部 野戦重砲兵第7連隊 独立臼砲第1大隊 戦車第8連隊 第19野戦高射砲隊司令部 野戦高射砲第39大隊 野戦高射砲第47大隊 野戦高射砲48大隊 野戦高射砲第50大隊 独立野戦高射砲第36中隊 独立野戦高射砲第37中隊 野戦照空第3大隊 野戦照空第5大隊 野戦機関砲第15中隊 独立混成14連隊 電信16連隊 電信第47連隊 第8固定通信隊 第9固定通信隊 第15固定通信隊 独立有線第91中隊 独立無線第1小隊 独立無線第61小隊 独立無線第62小隊 独立無線第63小隊 第26野戦兵器廠 第26野戦自動車廠 第26野戦貸物廠 第6野戦憲兵隊 独立自動車第38大隊 第31野戦道路隊 第6遊撃隊 第7遊撃隊 第14兵站衛生隊本部 第67兵站病院 第103兵站病院 第10患者輸送隊本部 患者輸送第63小隊 患者輸送第76小隊 第24野戦防疫給水部 第16兵站病馬廠 独立海上勤務大隊 第4船舶輸送司令部 船舶工兵第8連隊 第4船舶団司令部 第14野戦郵便隊 第48飛行場大隊 第25飛行場中隊 第26飛行場中隊 第17軍 (ラバウル) 第17軍司令部 歩兵第53連隊 歩兵第54連隊 歩兵第81連隊 捜索第51連隊一部 工兵第17連隊 野砲兵第23連隊 輜重兵第17連隊 第17師団通信隊 第17師団衛生隊 第17師団兵器勤務隊 第17師団第1野戦病院 第17師団第2野戦病院 混成第2連隊 第38師団 (ラバウル) 第38師団司令部 歩兵第228連隊 歩兵第229連隊 歩兵第230連隊 山砲兵第38連隊 工兵第38連隊 輜重兵第38連隊 第38師団通信隊 第38師団衛生隊 第38師団兵器勤務隊 第38師団装甲車隊 第38師団第1野戦病院 第38師団第2野戦病院 第38師団病馬廠 混成第3連隊 第65旅団 (ラバウル) 第65旅団司令部 歩兵第141連隊 旅団工兵隊 旅団通信隊 旅団野戦病院 独立混成第40旅団 (ニューアイルランド) 独立混成第40旅団司令部 独立混成第34連隊 独立混成第35連隊 旅団砲兵隊 旅団工兵隊 旅団通信隊 旅団輜重隊 旅団野戦病院 独立混成第14連隊 【海軍】 ラバウル地区 南東方面艦隊司令部 第11航空艦隊 第105航空基地隊 第958海軍航空隊 第81警備隊 第84警備隊 第85警備隊 第86警備隊 第8潜水艦基地隊 横鎮第8特別根拠地隊 第8通信隊 第8湾勤部 第8根拠地隊 第10設営隊 第28設営隊 第101設営隊 第211設営隊 第212設営隊 ニューアイルランド島 第18根拠地隊 第83警備隊 第89警備隊 第18設営隊

回答No.1

Googleで「ラバウル 守備隊」と引いてみると、鳥取の第17師団に所属していた第53連隊(岡山?)が引っかかりました。おじいさんが中国地方(兵庫から、岡山、鳥取、島根あたり)の方ならあるいはこの師団かもしません。仰る条件に大体合致しますが、第53連隊というよりも第17師団に属していたいずれかの部隊かもしれません。 「昭和13年7月14日に軍旗を再拝受され再編成され、改めて第17師団の隷下に置かれる。 日中戦争の第17師団の動員に伴い、中国へ渡り江蘇省無錫・常州・宜興などで警備に当たる。 昭和13年10月、第3大隊が武漢攻略戦に参加。 以後、連隊は甘木関突破作戦・慈口鎮附近の戦闘などに参加する。 昭和19年9月、師団の第1梯団として上海からラバウルへと向かう。 12月からの戦闘では死闘の連続。 シリマチ岬の守備隊と第1小隊の一支隊が玉砕。 エボシ岬守備に当たっていた第1中隊の1小隊と歩兵砲中隊主力が玉砕。 ナタモ附近で第1大隊の第1機関銃中隊主力と第1歩兵砲小隊の主力が玉砕。 やむなく連隊主力は12月31日、残存兵力をもってツルブ飛行場で持久戦に入り、ビール川で戦闘中に終戦を迎える。」 ちなみに旧日本陸軍は、それぞれの部隊が置かれた地域から兵員を補充していたので、出身地がわかると所属していた部隊もわかりやすいことが多いです。

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