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排泄が「恥」と認識されるようになったのはいつごろなのでしょうか
外を歩いているとき催して困ることがあります。 そんな時ふと考えます。 「どれくらい昔にさかのぼれば、道に野に垂れ流しの形態が現れるのだろう。そのころはおそらく排泄行為を”恥”だなどという認識はなかったのではないだろうか」 道端に排泄できないジレンマからそう思います。 いったいいつごろから、公衆で排泄するのに制度的心理的ブレーキがかかってきたのでしょうか。 もちろん都市部と農村部では違うかと思います。それぞれの比較が必要かもしれません。
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地域事情や社会的地位などで差異はあるでしょうが、ここではひとまず日本を限定とします。 さて、No.1さんの回答にもあるように、排泄は一種の無防備状態となるので“決められた安全な場所で行う”という知恵を人類は身に付けたのでしょう。また排泄物がもたらす病気、あるいはそれが貴重な肥料となることの発見で、ますます特定の場所での排泄が推奨され、それ以外での排泄を“悪いこと”“恥ずかしいこと”と認識する文化が形成されたと思います。 また、生殖器を晒すことが異性に対して不必要な発情を促し、生命を脅かすということを人類が認識したことも関係があるでしょう。 では、日本では公衆での排泄はいつごろまで行われていたのでしょうか。 『万葉集』巻十六「忌部首の、数種の物を詠みし歌一首」に からたちの茨(うばら)刈り除(そ)け倉たてむ 屎(くそ)遠くまれ櫛(くし)造る刀自(とじ) とあります。“からたちの茨(いばら)を刈り除いて倉を建てよう。大便は遠くでしなさい、櫛を造るおばあさん”との意味です。 また平安末期に描かれた『餓鬼草紙』(国宝・東京国立博物館蔵)のうち「食糞餓鬼(じきふんがき:不浄な食べ物を人に施した者が死後、この餓鬼となってのみを糞尿を食べる)」の図では、人間には餓鬼の姿は見えないという設定で路傍で排泄をしている女性、子ども、老人の姿が描かれています。 参考(上段左3番目の画像をクリックすると詳細がみれます) http://www.emuseum.jp/cgi/detail.cgi?SyoID=1&ID=w050d&SubID=s000&Link= 高下駄を履いているのは便を踏まないようにする工夫です。 これらの図が当時の世相・風俗を正確に描いていたのであれば、平安末期当時では京都においても、庶民階層での路傍排泄は日常だったのでしょう。なお、当時の貴族はおまるを使用し、排泄後は下人が野山や路地に捨てていました。 平安京での度重なる疫病の流行も、このような排泄事情が一因かも知れません。 仏教、とくに禅宗では便所を「東司(とうす)」と呼び排便も修行の一環としますが、禅宗が流行する室町期以後では、その影響を受けた草庵建築、茶室建築が発展します。そして便所も「雪隠(せっちん)」と呼んで重視されます。 禅文化は茶道や武家の道徳律に深くかかわるので、路傍での排泄をいさめる機運はますます高まったでしょう。 さらに江戸期では肥料としの排泄物が重視され、都市部では農家との売買の対象となります。つまり糞尿は現金化されますから、ますます便所が重視されます(ちなみに長屋からでる糞尿は大屋の収入でした。そこで年末にはお礼として店子に餅などが振る舞われたそうです) ご質問にあるいつぐらいからかは限定できませんが、このように便所が重視されてきた歴史背景も関係あるでしょう。
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- gohannannisiyo
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No.1さんの回答に加えます。 排泄行為、特に「大」をしている時の人間って、とても無防備です。 何か危険が迫ってもとっさには動けません。 それで隠れてするのでしょう。 野良犬も野良猫も、「大」は安全なところでします。 おそらく野生動物もみんなそうでしょう。 「小」も、「大」ほどではありませんがいくらか無防備ですね。それでだんだん人前ではしなくなる運命をたどったのでしょう。 「恥ずかしい」という気持ちは、そのあとでついてきたものです。 どの文化でも、人前でしないことをすると「恥ずかしい」という気持ちが湧くものです。 たとえばインドの女性の民族服は足を出さないので、普段サリーを着ている女性は足を出すことを「恥ずかしい」と感じるそうです。 それに対し日本の普通の女性は、足は出し慣れているから「恥ずかしい」と思いません。 ところが、インドの女性が出し慣れていて「恥ずかしい」とは思わない横腹は、日本の女性は「恥ずかしい」わけです。(日本でもヘソ出しが流行ってたりしますが、インドならどんなおばあちゃんでも保守的な人でも横腹を出していますよ。) でも、排泄行為を道の真ん中でしないのは「捕食者よけ」と「無防備隠し」の理由から世界共通ですから、排泄行為を「恥ずかしい」と感じるのも世界共通でしょうね。 ただ、幼い子供は例外の文化が多いかもしれません。 幼い子は排泄が我慢できませんし、親がそばについていれば無防備さは軽減されますからね。 昔の田舎では子供にその辺でバンバンうんちやおしっこさせていました。 昭和初期の田舎の農家では、庭で子供がしたうんちを犬が喜んで食べていたものです。 最近あまり外で子供に排泄させないのは、させるにふさわしい草むらなどが減ってしまったことが大きい原因でしょう。 舗装道路なんかでおしっこさせた日には、どこまでもつつ~っと流れて悲惨です。草むらにするより匂いもきついです。 犬も最近では子供のうんちなんて見向きもしませんしね。
お礼
排泄中は「無防備」ですか。確かに動きがとりにくというのは人間にはありますね。また確かに肉食獣に発見されやすいと。そういうことから「恥」概念が発生した。それにやはり、人前にはさらしたくないという動物的な配慮みたいなのもあるんでしょうね。子供はそういうものがないので、道端でもできると。よくわかりました。
- babel3
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世界のトイレについて本を書いた人がいましたが… 文化の問題と生物種としての問題があると思います。 服を着る以上、だすとこださなきゃいけない行為は面前でおこなうものではないでしょう。 動物って実はキレイ好きなのですよ。そこらかまわずしてるようですが、自分の身体汚れるのはキライます。 場所選んだり、ってのはいろんな理由からでてきますね。 自分の巣の中で糞しまくるってのはしませんし。 「恥」に関しては、自我を持つようになったころにはあったと思います。排泄物は動物の本能的にもさわりたいものではないからさけるし、生活の本拠とはちょっと離れてするし、服着るようになってからは茂みでやるとか、物影でやるとかしたでしょう。 というわけで、あるていど文化的生活するようになってからは排泄って行為をどうすべきか、というのはいろんな価値観があれ、認識したと考えます。「恥」の程度はいろいろでしょう。 (アフリカで男根ケースしか着ない民族は、これを人前でとることは死ぬほど恥ずかしい行為、と考えます。他はまるだしなのに。)
お礼
本能的な恥概念は原始的にもあったようですね。生物学的な考察になってきましたね(^^;)
どうかなぁ・・・ アメリカ軍のトイレには個室がありません。 便器がずらり並んでみんなそこに座って雑談しながら用を足します。 また、個室であっても顔も足も見えるスカスカの扉の所もあります。 それほど排泄を恥とは思っていないようです。 20年近く前の自衛隊でも、演習中の普通科隊員のトイレは柵の高さが50cm程しか無く、横並びだったそうです。 戦友としゃべりながら富士山を眺めつつ用を足したそうです。 欧米の何処だったか忘れましたが、家族全員で一度に用を足せるトイレなんてのも有りました。 WW2の時にアメリカ軍が日本軍の陣地を偵察しているとき、陣地から日本兵がきょろきょろしながら出てきたそうです。 斥候か?と身構えたところ、日本兵は用足しに陣地から出てきたようで、コトが終わると陣地に帰っていったそうです。 米軍の場合、トイレは陣地中央付近に見えないように作るそうです。 無防備だし、トイレの数で兵員数が概ね計算できるからだそうです。 これは特殊な環境だからだろうけれどね。 アフリカかどこかの乾燥地帯を旅している日本人が現地部落に世話になったとき、用足しをしようと、トイレの場所を聞いたらそんな物はない。 みんなその辺でしている。 ほったらかしても腐るより速く乾燥してバラバラになるんだそうな。 500mぐらい離れたところで、しようとしたら、走ってきてなんでそんなところでするんだ?って聞かれるし・・・視力2.0は軽く越える部族 バイクで4-5キロ走って無事コトを終えたそうな。 所変わればってことで・・・
お礼
軍ですか。それは特殊なのかしかし、その国民一般の心理を代表しているのかですね。今も進行形の話なのだなぁとおもいました。
- ffffffff
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参照URLによると、排泄を恥かしいとみなすようになったのはキリ スト教的な考えのようです。したがって、日本では、明治維新以降の ことではないでしょうか。 であるとすると、江戸時代以前は公衆の面前で排泄を行っていたの かというと、そうではありません。糞尿は、農作物の重要な肥料にな りますので、垂れ流すのはもったいなかったのです。そのため、便所 に溜めて、肥料として利用していました。したがって、排便は便所で 行うということが習慣として、できていましたので、明治以降に、 スムーズに恥の文化に慣れていったのだと思います。
お礼
江戸時代では排泄が役に立っているという意識があるのでしょうね。やはり恥という意識とは違う気がします。恥の理由はキリスト教的な考えですか。
- sekisei
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ほぼ推測なのですが、人類が発生したときには恥と認識されていたと思います。 というのも排泄物はにおいがしますが、それは人間を捕らえて食べる肉食獣にとっては格好の目印になります。 もし人が通常居るところで平気で排泄してしまったらそこに外敵を呼び込むことになります。 それを避けるために排泄を人の中ですることを避けるようになったのだと思います。 それが恥ずかしいという気持ちとして今も残っているのではないでしょうか。
お礼
そうですか。ただ、生物環境的に有利だということと、それが恥に結びつくものなのでしょうか。
お礼
隠れてやるという強制から次第に恥の意識に移行していったということですか。いろいろな歴史的変遷は理解できました。そこがどう「恥」意識に関与していったのかですね。