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郡代「について
郡代って郡奉行と代官を足して2で割った侍さんでしたっけ?ちょっと忘れてしまったのですがご存知の方お願いします。
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No.1さんの答えは幕府領(天領)の郡代ですが、このほか各藩の郡代、郡奉行があります。 郡奉行は地方(じかた、農村部のこと)の行政、司法、警察、裁判などを担当し、郡代は年貢の徴収を担当しました。 大藩では双方置きましたが、小藩ではどちらか一つしか置かず、両方の仕事をさせました。 例として、高遠藩では郡代がさらに、寺社奉行に相当する社寺奉行も兼任していました。「稲垣史生氏の郡代(藩)に拠る」
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- shigure136
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幕府領で、比較的広域を支配する代官のことをいいますが、10万石以上の直轄地に置いてありました。 江戸時代初期には関東郡代のほかに上方、尼崎、三河、丹波、河内などほぼ1国単位に郡代が置かれていました。 関東郡代は、旗本から任命された勘定奉行配下に属した後、老中支配となりました。 江戸時代中期以降は、関東・美濃・西国・飛騨の4郡代となったのです。 郡代の身分・格式は、代官よりも上であるが、職務内容については代官とほぼ同じであったとされています。 足して2で割ったという表現がどのようなものを指すのかは判りませんが、代官制度が整備されて郡代が確立されていることから見ても、両者はほぼ同じと理解する方が妥当かもしれません。 関東郡代(かんとうぐんだい)とは、江戸時代に4ヶ所設置された郡代の一つで、関八州の幕府直轄領の民治を司る地方官であり、約30万石を管轄しました。 行政・裁判・年貢徴収を中心に、警察権も統括し、将軍鷹狩の鷹場の管理までも行っていたのです。 徳川家康の関東入府の際に伊奈忠次を関東の代官頭に任じたことに始まり、その後十二代200年間に渡って伊奈氏が世襲した。実質的には関東郡代はこの伊奈氏だけの役職みたいなものになるのです。 三代忠治より代官制度が整備され、関東郡代となる。1692年(元禄5年)飛騨高山藩領地が天領となった際には六代忠篤が飛騨郡代も一時的に兼務した。 本来郡代は代官と同様に勘定奉行の支配下にあったが、1733年(享保18年)八代忠逵の代には勘定吟味役を兼任しており、関東郡代は老中の直属支配下に入ることになる。そのようなこともあり、関東郡代伊奈氏は他の郡代とは別格だったのです。 しかし、十二代忠尊がお家騒動と讒言によって罷免、改易されてしまうと、関東郡代職は廃止され、勘定奉行と、代官による分治となるのです。 その後一時的に復活したり、関八州見廻役、という名称に変わるなどして明治を迎えました。
お礼
幕府での郡代などの歩みを書いていただきありがとうございます。参考にします。
お礼
郡奉行と郡代の関係はそう言うことですか、参考にします。