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徐福伝説
豊田有恒の短編に「熊野伝説」という作品があります。熊野を舞台に徐福伝説を取り上げている作品です。この作品の中で、近親相姦の話題が出てくるのですが、熊野の伝説、徐福伝説にそのような言い伝えが実際にあったのでしょうか。超能力を次世代に残すために、血がうすくならないようにそうしていたようなのですが。実際、考えられることでしょうか。
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その作品は読んでいませんし、「徐福伝説」「熊野伝説」もよく知りません。ただ、徐福は、始皇帝の要望に応じ、東の方、海上にある蓬莱島に行けば得られるという「不死不老」の仙薬を持って来ましょうと名乗り出たはずです。肩書きは「道士」ですから、道教の師匠か、または老荘思想の実践家だったのかも知れません。 徐福は、財宝と大きな船を始皇帝に求めました。と同時に、合計だったか、それぞれだったか、清純な童子・童女500人を求め、彼らと一緒に、巨大な船で、東の海の彼方に船出して消えてしまったとされます。その徐福一行が辿り着いたのが、いまの熊野だという説がある訳です。 ところで、昨年にNHKで放送していたのですが、「日本人の故郷」を求めるというスペシャル番組の第五回目は、弥生人の登場で、紀元の始まる数百年前、水稲式稲作と共に出現した、この弥生文化の担い手は誰だったのか、という話で、それはどうも、戦国時代の中国の動乱に絶望した江南の中国人が、日本列島に渡って来て、縄文人と争ったのではないかという話になっていました。 始皇帝は、秦を起こし、戦国を終わらせた人物です。徐福は、道士ですから、あるいは日本列島についての詳しい知識を持っていたのかも知れません。清純な童子・童女が何故多数必要になるのかは、それらの子ども達によって子孫を造るというのが、一番考えやすいです。徐福は、老荘思想に叶う、理想の世界を築こうと、船出して日本に来たのではないかという想像が可能です。 他方、「熊野」というのは、どういう土地かというと、かなり特殊な土地で、それは或る説では、九州から本州のかなり東まで、黒潮に乗って勢力を築いていた、あま(海人)族の本拠地ではなかったのかという推測があります。神武天皇は、何故、奈良盆地に入るのに、回り道して、熊野から山を越えて奈良に入ったのか、考えると何か意味があるように思えます。 また、壬申の乱において、大海人皇子(天武天皇)は、熊野から山を登った先にある、吉野に身を隠棲させ、そこでひそかに叛乱の計画を進行させて行ったとされます。大海人は、伊勢へと脱出し、伊勢神宮の天照大神に祈願した後、北上し、丁度、後の関ヶ原に当たる場所で、大津朝廷軍と戦い、これを打破します。 「徐福伝説」については、諸星大二郎に、そのテーマの中編があるのですが、諸星ほど想像をたくましくしなくとも、熊野は、新しく日本に入って来た人々、(これが弥生人のことか、あま族という、また別の一族かは別として)、彼らにとって、「聖地」であり、何かの理念あるいは理想の建設の伝説があったのだと考えてもおかしくないでしょう。 徐福伝説の500人の清純な童子・童女が、新しい土地で、新しい世界を建設するための基礎だったとすれば、「純潔性」を守らねばならないという理由が出てくるかも知れません。また、あま族の「純潔性」を守る必要もあったのかも知れません。「聖地」とは、そういう場所だからです。 言い伝えがあるかないか、よりも、(というか、言い伝えはあるのです。現に、中国側では、徐福一行は行方不明になったと言っているのに、熊野に上陸したというのは、誰が言っていることかと言うと、熊野にそういう伝承が残っているのです)、また、超能力を次世代に残すというような飛躍した発想をしなくとも、聖地において、「純血」を守るため、何かの措置や儀式があったのだろうと考えるのは、自然なことでしょう。