- ベストアンサー
三国志の時代の部下の領地
三国志の時代において、部下の将軍は領地を所有していたのでしょうか? よく「500戸を与えられた」というような文章がありますが、 実際の領地を与えられて、現地に赴任したのでしょうか? それとも江戸時代の御家人のように、実際は代官が現地を治めたのでしょうか? または褒美あらわす抽象的な概念としての戸数なのでしょうか?(「年収5百万」加増みたいなイメージ) 確か張繍との戦いで、夏侯惇の配下の青州兵が狼藉を働いて、 于禁が成敗する場面があったかと思おうのですが、 あの場合夏侯惇の所領が青州であった、ということなのか、 それともたまたま、青州兵の部隊をあのときは夏侯惇が率いていたということなのか、 どちらなんだろうと思いました。 (あの当時は青州は袁紹の支配下でしたっけ?)
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「500戸」の戸とは、世帯のことです。 だから五百世帯のいる村(と土地)を与えられて そこから徴税していいということでしょう。 また年棒である「秩石」は別にあって 役職に応じて払われます。 中国は隋の統一まで均田制などがなく 豪族の集合体でした。 与えられた土地は荘園のように その武将の管轄というか財産になるわけです。 ほとんどの場合、三国志時代の武将だと 与えられる戸数は年金に相当すると考えて良いでしょう。 つまり功績を評価してその武将の一族郎党が その後も暮らしていけるように与えられるものです。 そしてまだ科挙も存在しない、縁故主義の世界ですから、 そこから育った豪族の子弟もいずれは任官し 武将となることが期待されるわけです。 青州兵は曹操に直接忠誠を誓った近衛兵たちなので それが夏侯惇の指揮下にあって その庇護下で傍若無人にふるまっていたのを 于禁が成敗したというだけで、土地は関係ありません。 夏侯惇は前将軍でしたか、三国時代の編成や配置は あまりよくわかってませんが。
その他の回答 (1)
- Pinhole-09
- ベストアンサー率46% (597/1294)
三国志の時代より60年位前ですが、後漢の西紀146年の調査では、戸数934万戸、人口4756万人とあります。 一戸あたり約5人です。 500戸の食邑を賜ったとあれば、人口約2500人の土地を財産として得たので、江戸時代でいえば2500石取りの旗本という所です。(1人=1石) 「奇貨おくべし」の言葉で有名な呂不葦は、秦の王を助け、洛陽10万戸を賜り宰相になりました。 50万石の大大名の老中という所です。
お礼
数字を交えたご回答ありがとうございます。日本の石高に例えていただくと、イメージ分かりやすいですね。500戸はかなりの大身の旗本ですね。 食邑というのはやはり代官が治めているものなのでしょうか? ありがとうございました。
お礼
なるほど、年金ですか。ということは現地を直接治めるわけではないのですね。 ということは戦地に赴いている将軍を除いて、普段は武将たちは首都に常駐しているものなのでしょうか。 青州兵は近衛兵という位置づけなのですね。そういえば劉焉にも東州兵っていたように思いますが、同じですね。 ありがとうございました。