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論語「天を怨みず、人をとがめず。下学して上達す~」の意味
論語の「天を怨みず、人をとがめず。下学して上達す。我知る者は其れ天か」 という文章の意味をご存知の方がいらっしゃいましたら、どうぞご教授ください。 ある本に意味が書かれていない、その文があったのですが、とても印象に残り、気になっています。
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弟子の子貢に語った言葉で、憲問第十四にあります。 中国思想や論語にあまり関係のない文脈で引用されるときは、「不遇でも運命を怨んだり、他人のせいにしたりしないで、自分のできることをこなして、さらなる修養に努める」といった感じになるのではないかと思います。 全くの想像ですが、ビジネスマン向けの本や講演では、「我を知る者は其れ天か」の部分に「見る人は見ていてくれる」のような意味を引用者が附与しそうな気がします。 もっと原典を尊重した解釈をと思い岩波文庫にあたってみたのですが、ちと素っ気ない日本語なので、ほぼ同じ解釈をしている下村湖人の『論語物語』から引用してみます。 わしは天を怨もうとも、人をとがめようとも思わぬ。わしはただ自分の信ずるところに従って、ちょうどこの泰山の麓から、頂上に上るように、低いところら、一歩一歩高いところに上って来たのじゃ。わしの心は天のみが知っている。 「下学して上達す」が解りづらいでしょうか。 孔子に限らず昔の中国の思想家は、古代人にもかかわらずたいへんなリアリストでした。 論語の中にも「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」「子、怪 力 乱 神を語らず」とあり、あの世や奇跡、極端なものに対しての無関心・冷淡が目につきます。 私の手元にある注釈書には、上記の実生活主義者としての孔子の人物像を踏まえたと思われる朱子の解釈が載っているので、「下学して上達す」の部分を引用してみます。 順序に循ってようやく進むだけで、甚だしく人とちがったことをして人に知られようとするのではないということである。 中島敦の『弟子』に、この部分を理解するのに都合のいい孔子の人物評があるので、さらに引いてみます。 子貢と宰予とが議論をしている。・・・宰予によれば、孔子と能力と弟子達の能力との差異は量的なものであって、決して質的なそれではない。孔子の有っているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変わるところは無いという。・・・ 孔子という人物像を考えると、ありふれたことや誰にもできる「下学」を地道に積み重ねることで、あたり前のことの集積とは思えないほどの高みにまでもっていく、それが「上達」という気がします。 もし時代背景や孔子の置かれた状況をさらに知りたいようでしたら、論語の注釈書より井上靖や前出の小説のほうがイメージしやすいかと思います。
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- luune21
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(私は)天を怨むのでも、人をとがめるのでもない。(私はひたすら)日常のものから深遠なものまでの探求に努めてきた。そんな私を理解してくれるのは天だけだろうか。 「探求に努めてきた」のところを「究めた」という人もいると思いますが、そこまで偉そうなことは言わないと思います。 また、転じて「つい天を怨み、人をとがめたくなるものだが、それをやったら深遠なるものの追究はできないよ。深みに達するということは有名になることとは別なのよ」という意味にとれます。
お礼
回答ありがとうございます。 御礼が遅くなってすみません。 とても勉強になりました。 ありがとうございます。
お礼
回答ありがとうございます。 御礼が遅くなってすみません。 とても勉強になりました。特に、 >ありふれたことや誰にもできる「下学」を地道に積み重ねることで、あたり前のことの集積とは思えないほどの高みにまでもっていく、それが「上達」という気がします。 のところはとても感銘を受けました。 ありがとうございます。