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赤松満祐の墓
嘉吉の乱で有名な赤松満祐の墓の場所はどこでしょうか? 一応、自分なりに調べてみたのですが、どこにも満祐の墓に関する記述がありません・・・。 満祐は京の赤松邸で首をさらされたようですが、その後どうなったのでしょうか。 以上です。よろしくお願いします。
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- kawamebaru
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もう随分前になりますが、上郡町で行われた「白旗城まつり」(もしかしたら他のイベントだったかも)の際に頂いた上郡町歴史研究会のプリントによると、 城山城の山麓にある赤松満祐他多数武将の菩提寺「霊亀山興聖寺」(揖保郡新宮町。現、たつの市)に「赤松満祐外武将位牌、満祐念持物・毘沙門天像。徳門祖隆が刻んだ盤珪禅師像。祖隆の母の手紙で造った観音像」が所蔵されているという記事がありました。墓があるかどうかまでは書いてありませんが。 また、城山南麓の井関三神社と恩徳寺では毎年お盆に「さいれん坊主」という奇祭が行われています。表向きは雨乞いや虫送りの行事だとされているのですが、実態は城山で散った赤松満祐の供養のための行事なんだそうです。 http://www.geocities.jp/guresummit_hp/syashinkan.html 昨年実際に見に行ってみたのですが、満祐の墓そのものは恩徳寺には無かったような気がします(気が回らずよく探してないのですが・・・) ちなみに満祐の嫡男、教康の墓とされているものは彼が殺害された三重県に有ります。 http://www.gtoweb.com/native/spot12_6.htm
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URL添付するのを忘れました。
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私も興味が有るのでちょっと調べてみました。 獄門に掛けられた首がその後どのように扱われるのか知りませんが、満祐の五輪塔が菩提寺の法雲寺にあります。 法雲寺には3基の五輪塔が並んでおり、円心、則祐、満祐の墓とされていますが、遺骨があるかどうかは知りません。 URLに円心の五輪塔の写真が出ていますが、この右に則祐、そしてその右に満祐の塔があります。 寺では満祐の墓として標柱を建てていますが、矢代和夫著『赤松物語 嘉吉記』では「推定」とされています。 円心の墓も京都・建仁寺にありますから、法雲寺の五輪塔も後世の供養時のものと思います。 百姓一揆でさらし首になった首領者の首は後日、その人を慕う人々によって丁寧に葬られたという例がありますが、満祐の遺骨はどうなったのでしょうか。 満祐が城山城で自害した後、火が放たれていますから、戦火の中、ほんとうに満祐の遺体だと分かり、首を京へ運んだのでしょうか。 獄門に掛けたと赤松物語にありますが、「火の中に乱入し、どの首がだれの首か、もう分からなくなっていた」とも書かれています。 余談ですが、赤松一族の末裔である赤松光夫によれば、後世、赤松庶流の中で戦国を生き延び徳川を経て現代に残った家系は赤松有馬の家、すなわち九州有馬家のみだそうです。
お礼
ありがとうございます。法雲寺にあるのは供養塔かもしれませんが、興味深い情報をありがとうございました。円心の墓は建仁寺にあるのは知っていましたが、赤松家はその後、建仁寺と関わりはなかったのでしょうか。その辺が気になります。
赤松満祐は城山城の城主として嘉吉の乱の際に幕府軍と戦った結果落城、満祐は子孫の生命の保証と引換えに自刃したと聞いています。 満祐の墓所についてはいずれの文書にもはっきりと記されていませんが、置塩赤松氏の菩提寺はもともと松安寺というお寺だとされています。 松安寺も今はただ松安寺跡として史跡のひとつとなっているようですが、松安寺跡でしたら当時置塩城のあった兵庫県飾磨郡夢前町にあると聞いています。 「京の赤松邸で首をさらされたようですが」ということは初めて聞きましたが、いずれにせよ遺骸あるいは遺骨は家系の菩提寺に安置されたはずですから、このあたりから何か手掛かりが掴めないでしょうか。
お礼
御礼が遅れ申し訳ありません。ありがとうございます。置塩赤松家の菩提寺も関係あるかもしれないですね。
お礼
興味深い情報を本当にありがとうございます。 新宮町に何か手がかりがあるかもしれないですね。 興聖寺と恩徳寺を少し調べてみます。 嘉吉の乱という比較的大きな事件を起こした人物の 墓がなぜないのか…不思議なところです。 もし、何かまた情報があればよろしくお願いいたします。