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カンボジアについて
アンコールワットに興味があります。 しかし、カンボジアは90年代まで争いが絶えなかったと聞きます。 どのような経緯で起こったのでしょうか? 現在は安全なのでしょうか? ぜひお教え下さいませ。
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ベトナム戦争を有利に戦うために、隣国カンボジアの地を使いたいアメリカですが、いいなりにならない国王シアヌーク殿下の影響をうすめようと、誕生させたのがロン・ノル政権です。 アメリカの影響下でのロン・ノル政権時に、優秀な青年たちをフランスに留学させた(シアヌーク殿下の意向だったと思います)結果、共産主義に染まって帰国したイェン・サリ、ポル・ポト(実名はサルト・サル)キュー・サムファンなどの若者たちが、中国の支援を受けて誕生させた共産主義政権、それがクメール・ルージュ(ポル・ポト政権)です。ポルポトは傀儡で、イェン・サリが実力者だったということです。 汚職にそまったロン・ノル政権は、たちまち理想に燃えた共産主義青年や下層階級の若者たちに駆逐されました。実権を握った若者たちは、都市の繁栄、アメリカ的なもの、知的なもの、伝統、宗教などすべて、悪とみなし破壊していったのです。人間の命など虫けら以下でした。 工業も農業も治水も経済も教育も、なにもかもがめちゃくちゃにされました。専門家はほとんどがインテリだとされて、処刑されていったのです。 4年間そのような暗黒の時代が続いた後に、ポル・ポト派の中から、隣国ベトナムに逃亡し、ベトナムの協力を得て、カンボジアに攻め戻ったのが後のフン・セン首相の一派です。 そのようにして、ポル・ポトの時代は終わりました。タイ国境で生きながらえていましたが、ポル・ポトも、イェン・サリも最も凶悪と言われたタ・モクも亡くなり、もはや息絶えたと言ってもよいと思います。 あくまで、一カンボジアウォッチャーとしての私見です。
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- sweet_old
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- ajihira
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1965年に始まったベトナム戦争では、シアヌーク国王政権下のカンボジアは中立の立場をとっていましたが、国内でのベトミン(ベトナム解放戦線)の活動を小国ゆえに黙認せざるを得ませんでした。しかし、南ベトナムを支援するアメリカは、カンボジア国内のベトミンの活動を阻止する必要性を感じ、カンボジア国軍のロン・ノル将軍のクーデターを支援、1970年にロン・ノル政権を成立させます。これ以降、アメリカの支援下のロン・ノル政府軍と、シアヌーク国王と手を結んだ共産主義勢力(クメール・ルージュ)との間で内戦が起きます。この内戦で国内は乱れ、亡くなった国民は50万人にも及びました。 この内戦は、1975年に首都プノンペンの陥落で、ロン・ノル軍の敗北で終結します。勝利した共産主義勢力(クメール・ルージュ)の指導者はサロト=サルと云いましたが、彼はポル・ポトと名乗り、内戦後の首相に就任、「原始共産制」を国是とした政策を実施します。その結果、国民は集団自給自足体制の下におかれ、政府に反対する者や知識人(農村での開墾作業に向かないとの理由で)などが虐殺され、その数は一説によると100万人にも及ぶ(当時のカンボジア人口の6人に1人の割合)とも言われています。 一方、内戦に敗れたロン・ノル政権のヘン・サムリン将軍が新生ベトナムの援助のもと「カンプチア救国民族解放戦線」を結成、カンボジア国内に攻め入ります。強力なベトナム軍の支援を得たヘン・サムリン軍がプノンペンを奪還し、以降、ポル・ポト軍がゲリラ化し、カンボジア国内は再び内戦状態に陥りました。 その後、1991年に両勢力間で「パリ和平協定」が結ばれ、カンボジアは国連管理下に置かれ内戦が終結し、ようやく平和が訪れました。 それ以降「国連カンボジア暫定統治機構」によって再建の途に付いたカンボジア国内は、徐々に落ち着きを取り戻し、1993年に総選挙を実施しました。
- sweet_old
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質問の内容が、明確でないため、お答えできません。歴史ですか、観光ですか。 旅行なら、何ら問題ありません。観光地を廻る分には。
補足
すいません。ポルポトについてお教え下さいませ。