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宮本武蔵
宮本武蔵という人は、剣豪と言われてますが、この剣豪というのは、剣道で強かったのか、それとも真剣を使った殺し合いで強かったのかどっちなのですか?
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こんにちは。 剣豪と言われる人は基本的に真剣での勝負で強かった人です。 武蔵の時代には、まだ竹刀という物は創生期で、一部の流派が試験的に使用してるだけでした。 剣道が成立したのは、明治になってからです。 各流派の稽古でも普通は木刀(流派によっては木の棒とか、真剣もあったようです)です。 武蔵が竹刀で打ち合った例というのはないと思います。 武蔵の作った二天一流でも竹刀は使いません。(現在も続いてます) なお、剣道成立以後は、真剣での試合も少なくなり、真剣勝負は衰退し、竹刀での試合で強い人も剣豪と言われるようになります。
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おそらく宮本武蔵という人は武芸者というより兵法者である事を目指したと思います。 試合形式の1対1の戦いでは強くはなかったのではないかと思います。もちろんある程度は強いと思いますが、そこを兵法で補う戦いかたをしたんだと思います。 この時代、武芸者というのは芸人と同じに武士階級の中では下の身分でした。(芸は蔑まれていました) よって武芸者や剣豪で出世した人はおそらくいないでしょう。 有名な柳生にしても剣術指南ではありますが剣の道で出世したのではありません、政治を選んだために出世ができた。
お礼
ありがとうございました。
- Scull
- ベストアンサー率26% (248/951)
この時代、まず幕藩体制の創成期ということで 1.多数の武士が禄を失った。 2.再び乱世となる可能性があったため、まだまだ武術指導員、すなわち「剣術指南役」の需要はあった(ただし、減少傾向にはなっていた)。 つまり、多数の浪人にとって各国に召抱えられる、すなわち禄を得る機会というのは「死活問題」だったのです。ただし、浪人も大勢いますので、生半可なことでは仕官がかないません。そこで、腕に覚えのあるものたちは「互いの剣術を比べあった」のです。 剣術指南役ともなれば、それなりの家禄を得、安定した生活が送れます。一方浪人のままでは明日をも知れぬその日暮らし。太平の世で役に立つ学問を身に付けているのならまだしも、そうでない武士は腕を競うしかなかったのです。さもなくば武士を辞め、町人に身を落とすか。 家名を自分の命よりも大事に思う武士ですから、命をかけて禄を得ようとするのは「ごく普通のこと」ですよ。
お礼
剣術指南役という職があったのですね。ありがとうございました。
- nemosan
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宮本武蔵の戦いは1対多数とか十文字槍や鎖鎌等、異種格闘っぽい戦いが多い。相手に合わせて戦い方を変えるので、必殺技も存在しない。 「五輪書」を読むと、剣技でなく全力戦、つまり使えるものは全て使って勝利を得る戦術論となってますね。剣術家というより兵法者。そこが武蔵の特徴で、現代のサラリーマン向けの教本や人生訓として取り上げられる所以でしょう。 >殺し合い・・・なんのため 修行とその成果を試す実践の為では?
お礼
一対一の戦いだけじゃなかったんですね。初めて知りました。ありがとうございました。
- pyon1956
- ベストアンサー率35% (484/1350)
剣道の成立は明治期ですが、竹刀剣術は江戸期に発達しました。#1さんがおっしゃるように武蔵の頃(桃山時代~江戸初期)にはまだ戦場で鍛えた剣術使いが沢山いましたから真剣や木刀が主流。新陰流が袋竹刀というものを考案したといわれています。 この時代一般には型練習が中心であったわけです。ですから本当に強いかどうかは斬り合いをやってはじめてわかる、という状態でした。 で、これは江戸期のまあ平和な世の中には使わないため、また実際の撃ち合いをしてみたい、という要求もあり、江戸時代に「竹刀剣術」が発達します。たとえば北辰一刀流は竹刀剣術です。(ただし、真剣の使い方はちゃんとやっていたと思いますが) 幕末に一度剣術は実用のものとして復活しますが、明治には剣道に収束するわけです。
補足
殺し合いですか・・。自分が傷ついたり死ぬかもしれないのに、なんのためにしてたんでしょうか?
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殺し合いですか・・。自分が傷ついたり死ぬかもしれないのに、なんのためにしてたんでしょうか?