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なぜ、欲まみれの生き方を我々はしてしまうのか?
我々人間は、欲という煩悩に突き動かされて日々生活・活動をしております。特に、金に対する執着というか、欲望は凄まじく、それの為に人に迷惑になってでも、邁進する場合があります。 金があっても幸せとは言い切れないと思います。しかし、現代の人は、腹底の心で金、金と思い、結局はお金目当てで活動しているわけですが、そんな汚い心を持ってまでして、なぜ欲まみれの生き方を選んでしまうのでしょうか?お金が貯まっていいことがある、と見込んでいるのでしょうか?そのいいこととは何でしょうか?
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一応ご返答差し上げます。あまり突っ込んでお話すると論争になってしまいますので、簡潔に…(gooの規約違反になるかもしれませんし) マネーゲーム狂乱社会ということですが、おそらくこれはいまのグローバル市場、とりわけ多国籍企業や、株などの投機的行為を想起されているのでしょう。 そのネーミングどおり、たしかにそういった見方は間違いではないでしょう。ただモノの売り買いそのものが悪いというわけではありません。今の残る市場(いちば)という制度は、古くから残された経済的な取引の場です。 野菜や工芸品などを売り買いし、交換する。おそらくこういったものの現代的形態は商店街ということになるのでしょう。つまり、経済社会という側面は、人間の豊かさの基盤になっているのです。私の考えとしては、欲望が問題なのではなく、欲望のコントロールとバランスだということになります。 少し欲望という言葉で肯定と否定の両面から理論的にとらえてみましょう。 欲望を否定的にとらえた人は、たとえばトマス・ホッブズです。彼は、人間を欲望にまみれた利己的な人間として認識しました。よって、そのままにしておくと人間は争いあい、戦争状態に陥ると考えたのです。彼が導き出した処方箋は、国家による個人と社会の調整でした。国家が制度的に確立されることで、人間の欲望が抑制され、秩序がもたらされると考えたのです。 逆に、経済学の祖アダム・スミスは、ホッブズの考えを転倒させました。彼は、ホッブズと同じく、人間を利己的な人間としてとらえました。しかし、スミスは人間が「共感」能力を持つことを指摘しています。つまり、たとえばAさんが病に苦しむことで、Bさんは自分が病になったわけでもないのに、それに共感することで苦しみを共有しようとします。 この人間観から彼が導き出した結論は、人間の利己は実は公益になるということでした。たとえば、商店街をとってみましょう。商店街で店を営む人々は、あくまで自分の利益や生活のために商売をしているはずです。ところが、結果としてそこでモノを買うことによって、人々は益を受けることになるのです。 彼は、市場が生み出す秩序に注目し、国家がそれを阻害するとして、国家の介入を最低限のものにするように主張したのでした。 ただ、いずれの見解も、仏教的思考と異なることがあります。それは、欲望そのものを否定しようとはしないということです。人間の利己を否定しようとはしていません。ただ、それをコントロールする手法をとらえようとしているのです。 煩悩という枠組みは、残念ながら、直接的な制御にはつながりませんし、それを抹消することもできません。あるヘゲモニーに対しては、別のカウンターヘゲモニーを作るしかないのです。ですから、今のグローバルな新自由主義的市場は、暴走していることはたしかですが、それは欲望だけの問題として解決しえません。 人は、お金を得ることではなく、お金から獲得されうる社会的な資産や地位を求めています。ですから、お金という物質が欲しいのではありません。その意味で、お金とは象徴的意味を持ちます。つまり、お金は別に落ち葉でも貨幣的機能をもちうるということです。過去の物々交換の時代はそうでしたが… お金をもって、服を買う。家を買う。洗濯機を買う。旅行へ行く。こうした何かの願望の達成が、お金の機能です。 少しまとめます。現代社会はもはや過去の原始的社会へと回帰しえません。なぜなら、市場的秩序は人々の生活の心臓をなしているからです。つまり、グローバルな市場の崩壊が示すものは、人類の崩壊に等しいともいえなくありません。 とりわけ都市部の人々は、土地をもたず、作物を育てる意識も能力もありません。それ以前に土地は道路で敷き詰められ、ビルが建ち並んでいます。もし、突如としてモノが変えず、賃金の得られない社会になったとすれば、人間の多くは再び自らの生存欲に従って、争いをするでしょう。 それは今の状況以上にひどいものになるでしょう。スミスはこうした状況を市場(しじょう)が抑制しうると考えたのでした。 まとめましょう。私の立場は、一見あなたのおっしゃる言葉で述べますと、マネーゲーム狂乱社会を肯定するところにはありません。その市場社会がもたらした肯定的側面と、否定的側面の両サイドから見つめようとする位置に立っています。 おもしろいことをいいますと、人間の普遍的価値、たとえば人権は、実は国家によって守られている側面があります。つまり、国家はみながいうように人権の侵害者でもあるのですが、同時に歴史的には保護者でもあったのです。 煩悩という言葉だけでは、なかなか今の社会はつかみとることはできません。しかし、そういった見解に立つことは間違いではありません。私自身も良いとはとても思えません。しかし、現代の市場社会(経済社会)の肯定的側面をはっきりさせつつ、その否定的側面について考えること、それが答えなのだと考えています。
その他の回答 (11)
いいことがあると見込んでいるのではなくて 弱いだけです。 だらしがないだけです。
お礼
回答ありがとうございます。 人としてお金に目が眩むとは、人として心が弱い、ということですね。 ある意味、欲という誘惑に左右されてしまう人間ですから、仕方ないとも言えますね。
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お礼
回答ありがとうございます。 詳細は上に。。
補足
>私の考えとしては、欲望が問題なのではなく、欲望のコントロールとバランスだということになります。 私も、この考えには賛成です。欲望を真摯に認めつつ、この欲望に振り回されない生活が肝要と思います。 >彼は、市場が生み出す秩序に注目し、国家がそれを阻害するとして、国家の介入を最低限のものにするように主張したのでした。 >スミスはこうした状況を市場が抑制しうると考えたのでした。 市場至上主義的な考えを回答者さんからは感じます。今の、暴走した新自由主義的市場も、結局は、自浄能力のある市場に任せるのが妥当であろう、という事だと思います。市場がそれだけ洗浄能力が高いのであれば、期待したいとこですが、・・・。 煩悩は、死ぬまで残存するので、無くすことはできません。その煩悩(欲望)をどうコントロールしていくか、によって、お金、お金、という意識を持つ人間集団の社会を少しでも変革できるのではないか、と思ってしまうわけです。 http://ameblo.jp/trueye/