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「いただきます論争」について
さきほど、ある記事を見てビックリしたのですが、とある小学校で児童の母親が「給食費を払っているから、『いただきます』を言わせないでほしい」というお願いを学校側にしたそうです。しかも、こういう親は最近は少なくないとか。 なんでも、お金を払っているのだから、わざわざ誰かに言う必要性はないとか、手を合わせるのが宗教的であるとか、いろいろ理由があるようですが、僕自身は、食べ物やそれに携わってきた全ての方々に自分が「生かされている」と考えているので、人の親がこういう見解を持っている事自体、憤りを通り越して悲しみと哀れみを感じてしまいます。今、こういう考え方は当たり前なのでしょうか。皆様の意見を、お聞かせください。
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がると申します。 ………ありがとうございます。一瞬、目の前が本気で暗くなるほどの衝撃と共に、新しい知識を身につけました。 タイトルを見たときに「いやまぁそれはなかろう」と思っていた内容がまさかそのまま記述されているとは… いずれにしても、あまりにも愚かな見解だと思わざるをえません。 一つには。いただきます、ご馳走様は、感謝の意です。では、よしんば給食費を払っているとして。子供の立場から見れば、それは「親が払ってくれている」という感謝の対象であるはずです。無論「美味しい(……よねぇ? きっと多分)給食を作ってくれている人々」への感謝もあるでしょう。もしかすると「一緒に食事をすることが出来る友人たち」への感謝があるかもしれませんし(昔はともかく、昨今の家庭事情を考えると割合に深刻です)。 …いやまぁ、小さな子が心の底から「無事に食事が出来ることを感謝する」ほど達観できるとは思わないのですが。それでも、本来であれば「食物があること」自体もまた、感謝の対象のはずです。 ちょっとえぐると「両親が収入を得ることが出来る状況」への感謝とか。まぁあげていけばきりがないですね。 こういった「他者への感謝」の心を、まずなによりも当の親御さんが失われている気がしてしかたがないです。 口で言う必要がない、というのはある程度まで事実ですが。躾として考えると、きちんと口で言うことで身に付く側面もありますから、否定材料にはならないですね。 宗教的云々に関してはなにをかいわんや。宗教ってものをあまりにも勘違いしている、無知のきわみとしか思えません。 宗教というものの定義はじっさい出来ないのですが(宗教学者が複数人そう答えていたので恐らくそうなのでしょう)、私はそれを「聖なるものの顕れ(ヒエロファニー)」であると考えます。 自らと「自らではないもの」の存在を知ること。それは、他人を知る上でも大切な思考なのではないでしょうか? 何故に宗教というものが出てきたのか。それに対してどう向き合うべきなのか。 妄信し食いつぶし食いつぶされるという「もどき」ではなく、本来のあるべき宗教感というものをきちんと取り戻したほうが…と思ってしまうのは私だけなんでしょうか? 総括して。 そうですねぇ……質問者さんのおっしゃるとおり。子供がかわいそうです。 というか、親御さんのその発想があまりにも理解を超越しすぎていて…なにか異世界の思考が流れてきたように感じられてしまいます(苦笑
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- Feb12
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こういう考えをしている人は少数派ではあるがいると思います。 対価を払っている(お金を払ってる)ほうが偉いって感じの考え方。 「お客様は神様です」という言葉がありますが、どこかの経営者の言葉ですね。 あくまでサービスを提供する側の心構えを表した言葉なのですが、客側が「お客様は神様」と勘違いしている人がいるように思える。 そうやって客側の要求がエスカレートしていくと、サービスを提供する側が表では口当たりの良い事を言いながら、裏で舌を出すことが増えてきたのではないかと。 三菱自動車の不祥事、株主のためにと常に言っていたのにそれを影で裏切っていたライブドア。 今こそ、「いただきます」の精神が大切なんだと思います。
snkronizedさんのおっしゃるように考えるべきであるとは思いつつ、なかなか私はそう思えない未熟者です。それにしても、その親の発言には、唖然としてしまいますね。 知識がなくて不確かなことを申してしまいますが、子供の給食にかかる費用のうち、親の負担は一部ではないでしょうか。たぶん、税金によって賄われている分も相当あるような気がします。とすれば、少なくともそれに対する感謝の念は当然必要だと思いますが、いかがでしょうか。 こういう親の発言への対応にも、マニュアルが必要な世の中になってしまったんでしょうかね。寂しい限りです。
- shiro-joe
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肉になった命や調理された(殺された)野菜の命に対して”(命を)いただきます”であり、調理してくださった方への感謝をこめて”いただきます”だと思います。 全ては感謝の念の表れだと考えています。感謝できる事は他人を敬えることでもあると思います。こういう事を考える親は子供に敬われることも無く感謝されず、老後は見捨てられていくのでしょう。 きついことを申し上げましたが、これが私の考えです。
- yamiyo
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本当に・・・ 悲しくなっちゃいますね。 『いただきます』の言葉は、私や私の子供からは時と場所を選ばずに自然に出てくる言葉です。 みんなで『いただきま~す!』って食べる食事の風景はとても温かいもののはずです。 理解に苦しみます。
- Sombart
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当たり前などではありません。 まあ、よく言って、阿呆です。
- asakusacologne
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私 ブログでネタにさせて頂きました。 コピー+貼付で恐れ入りますが よろしければ お目通しくださいませ。 お金をたくさんお持ちの方が 金額と等しく 偉いのでしょうか。 所持金が,所持資産が イコール 地位名誉人徳資格 なのでしょうか。 私が “人間は いきとしいけるもの の 底辺たる 醜い生き物,地上の悪魔” という 歪んだ価値観を持つ 私の感覚論で お話を進めます,ご了承下さいませ。 「頂きます」 には 2つの意味と 3つの目的を含む物と 解釈しております。 意味は 「命を有難う」という 食材への感謝と 「お料理を有難う」という 料理人への感謝ですわ。 上記2点は 目的とも重複致しますが もう1つ, コミュニケーションの為でございます。 お金を払うのだから 振る舞って頂いて 当然なのでしょうか。 では 全国のお母様, お子様から 毎日 食費を徴収なさっておいでですの? 決して お金が唯一のものさしだと 誤認なさいません様に。 仮に 私が お友達をお家に招待致しまして お茶でも 食事でも 何か 振る舞う場面に 遭遇した と 仮定して下さい。 その場合 別に「頂きます」と 言って頂かなくとも 構いません。 言葉でなく 行動や表情で 「あら 美味しそう,早く食べたいわ」 と 思って下さっていると 感じ取ることが 出来るからでございます。 そして 人間 誰しも 信じる物がございますでしょう。 私の場合は 我が家の世帯主 くまさんのマツザキ君でございます。 無宗教と仰る方でも お守りのパワーストーンを肌身離さずお持ちであったり いい歳の大人なのに お母様には 頭が上がらない という方も いらっしゃいます。 これら 形は違えど 立派な信仰 紛れもない信頼ではございませんか? 何故“宗教的・儀式的”を 理由になさいますの? 人であれ 物であれ 人間は 何かにすがって生きておりますのに。 何にせよ。 お金はお金, 物でしかございません。 お金を持っている人と 消しゴムを持っている人の どちらが偉い では ございません。 努力の賜物として 博士号をお持ちの方は 偉いと思いますが 博士号が偉いのではなく 努力なさった功績が 尊く 偉いのです。 お金と 感謝の気持ちは 同じ天秤で はかる事が 適わないと存じます。 しかしながら 「ありがとう」という 感謝の気持ちを抱ける キレイな心は お金の輝きに勝る 価値の有るもの であると思います。
- 参考URL:
- http://y7.net/blog-cologne/
- rinring
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私もその記事は見ました。 お金を払っているのだから言わなくても良いという考えに驚きました。 調理した人にも、この食材を作った人たち(畜産、農業、漁業など)、生き物すべて(この野菜やお肉に対していただきますというのが宗教的なんでしょうか)に感謝の意味を込めて「いただきます」なんだと思います。 そういうことを言ってこられたお母さんはお家ではきちんと「いただきます」と言わせているんだろうってふと思いました。 お金を払っていないものには「いただきます」「ごちそうさま」なのかなと。 きっとそのお母さんの母親がそういう考えの持ち主だったのかと思いました。
- silpheed7
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宗教的な意味合いもあると言われますが、「いただきます」は問題ないと思いますよ。