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新聞ができたことによる国民の生活の変化
明治時代(幕末?)に新聞が創刊されて、世の中に広まったことで、 人々はどのように影響を受けたのでしょうか? 生活に変化があったのでしょうか。それとももっと違った影響が出ていたのでしょうか。 ご解答宜しくお願いします。
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新聞というものが出来た所以は言論の自由を目指したもので、当時の政府(薩長閥)の政治に反発、批判する勢力が自由に自分たちの意見や思想を発表する場でした。 その意味で色々な意見を民衆は知ることができました。 しかしそれだけでは一部の民衆にしか読んでもらえないので、市井の出来事を報道するように変化していったのです。 新聞には啓蒙という一面と、それを通じて思想の教育、統制という一面があります。 平和時、戦争中など新聞の論調は変化しました。 国民がその論調に次第に誘導されたことは歴史の示す所です。
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- shigure136
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「かわら版」として始まった新聞の歴史ですが、江戸時代後期の幕末には、手書きの回覧文章を「新聞」と称するケースがあり、本当の新聞の歴史は1861年に日本初の新聞として「官板バタビア新聞」の刊行で始まったのです。 以下に新聞草創期のことが書かれている記事を紹介します。 明治になると、1868年には小冊子形態の新聞が刊行され、佐幕色の中外新聞、江湖新聞(1868年創刊)が、1870年には日刊紙である横浜毎日新聞が創刊される。1872年には東京日日新聞、郵便報知新聞などがそれぞれ創刊。それまでの御用新聞から1874年に民選議院設立建白書の提出などを契機として民権派の勢力が強くなり、明治政府は1875年には新聞紙条例、讒謗律が制定されます。 1874年に讀賣新聞、1879年に朝日新聞が創刊。1894年の日清戦争、1904年からの日露戦争の戦時報道、明治38年(1905年)9月1日の大阪朝日新聞には「天皇陛下に和議の破棄を命じた賜はんことを請い奉る」という記事と8月29日のポーツマス条約の講和条件を引用などの新聞報道により起きた民衆の暴動事件日比谷焼打事件、その後の全新聞による「警視庁廃止」の論陣などを経て、従来の論説中心から報道取材が行われるようになる。1909年には新聞紙条例を経た新聞紙法が制定されました。 上記のような新聞草創期の記事を読んでも、狭い範囲の情報し得られなかった人々に与えた新聞の影響は、今の我々には想像できなかったほどのものだったと思います。それは良い意味でも、悪い意味でもですが。 社会の出来事、世界の出来事、生活の知恵、政治の出来事等など、今までの伝達時間とは比較にならないほどの速さで伝わるわけですから。 しかし、その反面、情報の伝達が偏ったものになることもあり、情報操作に等しい現象も起こりやすかったことも事実です。 とにかくラジオ放送が始まるまでの人々の情報源を、新聞が一手に引き受けることになるわけですから。