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ファンダメンタリストとカルトの境界
ファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)とは、聖書を文字どおり一字一句信じている人のことのようです。 1)しかし、ということは、普通の信者はキリストの奇跡を信じていないのでしょうか? 2)どの奇跡を信じるとカルトになり、どの奇跡を信じないと普通の信者になるのでしょう?線引きがよく分かりません。 常識では復活はアウトな考えだと思うのですが。オウムや新興宗教が信じているオカルとじみたとこはもちろんアウトな考えが多いような…
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ファンダメンタリストは必ずしもカルトではありません。まず、そのことを押さえていて下さい。 アメリカはキリスト教国で大半がクリスチャンです。 アメリカで[お前の宗教はなんだ?]と聞くと、それはキリスト教か仏教かをきいてるわけではなく、キリスト教の教派を聞いてるんです。その教派のなかにファンダメンタリストがいるわけです。 アメリカの教派について基本的な事を述べます。 アメリカ人の6割がクリスチャンでその6割がプロテスタントでその6割がメインラインと呼ばれる主流派の教派です。具体的にはメソディスト、ルーテール派、長老派などです。この教派には社会の上流階級が主に属していて、政治家や弁護士や科学者などインテリが多いため、現代の科学知識と矛盾しないように聖書のある部分(天地創造など)は神話またはたとえであるとして合理化を図ろうとしてます。つまりアメリカの主流の教派はファンダメンタリストではないということです。 それに対して、反主流派のなかで大きな力を持つ南部パブテストは社会の下層階級が主に属していて、あまり教養のない人が多いため、現在においても聖書を文字どうりに信じていて、他の教派がとっくに捨てている教義、マリアの処女懐妊、キリストの復活、再臨なども頑なに真実だと主張してるわけです。もちろん進化論も認めないのでこの地域の学校では進化論は教えてません。つまり、この教派がまさにファンダメンタリストであるわけです。あと、この教派以外では、日本でも有名なセブンスディアドベンティストという教派がファンダメンタリスト中のファンダメンタリストと言われるぐらい聖書を文字どうり信じてます。彼らは日曜日を安息日とするのは聖書にてらして誤りだとして、ユダヤ教徒と同じように金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として固く守ってます。 アメリカのカルトについて自分の思う事を述べます。 アメリカにおいてカルトと呼ばれる集団は主にキリスト教系の新興宗教の中から出てきます。その場合、教祖にカリスマ性があって聖書の言葉以上に教祖の言葉が真実とみなされます。つまり、教祖があたかも神のような地位になり、聖書から外れたとんでもないことを言っても誰もが絶対服従となりおかしな方向へと進むわけです。だから、カルトは聖書を文字どうり信じるというより聖書にたいして独特の解釈または誤った解釈をすると考えたほうがいいと思います。
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- bender
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> ...奇跡を全部信じているわけではないと。 そう書いたつもりではありませんでした。正統的と書いたのは、例えばイエスが殺されてから三日目に復活したことなど、「従来のキリスト教の教えの中で外すことができない部分がある」ということを意図したのであって「聖書に書いてあるそれ以外の奇跡が正統的な信仰ではどのように扱われるか」について触れたつもりはありませんでした。 また誤解のないように書いておくのですが、正統的と書いたのは、それが「正しい」という意図ではなく(かといって「正しくない」といいたいのではないのですが)、キリスト教一般に受け入れられる、といった意図で使いました。キリスト教の中心になる考えについては、例えば、「使徒信条」と呼ばれる文章などを参考にされるとよいのではないでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E4%BF%A1%E6%9D%A1 > そしてファンダメンタリストは、... これも僕が適切に書かかなかったのだと思うのですが、「ファンダメンタリストは一般の信者より何かもっと多くのことを信じている」と書いたつもりではなく、「いくつかの点においてある聖書の解釈の仕方をする人たちが『ファンダメンタリスト』と呼ばれることがある」ということを書きたかっただけです。ところで終末論と書いたのは、必ずしも「世界の終わりが~年にやってくるぞ!」とかいう考えのことではなく、世界の終わりはこのようになる、という理解の仕方なので、「普通の信者」であってもそのことについては考えることと思います。 > どの奇跡を信じるとカルトになり、... 先の回答にもすでに書いたのですが、繰り返し書くと、聖書に書かれた奇跡を信じる教派であるからカルトと呼ばれるわけではないと思います。 使っておられる語の意図する内容や(「ファンダメンタリスト」や「普通の信者」)、質問された方が聖書の内容をどの程度お知りになっているのか、また質問の意図など、このような掲示板を通してはわかりかねるので、そこで、月並みな意見ではあるのですが、それが信仰心からでは全くなく興味関心からであっても、お近くの教会にちょっと立ち寄って牧師や神父に直接質問してみることをお勧めしたい気がします。 と、書くといかにも気のきかない回答なのですが、個人的に、聖書の内容は非常に興味深くまた重要であると考えているので、安易に適当なことを書きたくないものの、とはいえ適切な回答のないまま質問が締め切られてしまうのも残念であるように感じていました。ある程度責任のある回答を得るためには、匿名の掲示板より(すべての牧師や神父がそのような資質をもっているというわけではないにしても)牧師や神父に聞くことは有用であるといえるのではないでしょうか。
お礼
たびたびありごうとございます。 結局、教会へいかなければわからないという結論は、私にとってとても残念なものになりました。掲示板には長所と短所があるともいますが、たとえ本人に宗教への勧誘の意図が無いとしても、こちらには非常に重いものとして受け止められました。 私の質問の意図は単純なものです。なので、実際のファンダメンタリストや普通の信者の実態に関してはほとんど知りません。それぐらいの知識で質問をしています。ましてや教会へ行くほどのことでもないと思っています。 果たして、教会へ行かなければ分からないようなことだったのでしょうか?私には分かりません。親切心からのアドバイスでしょうが、いささか私には荷が重過ぎたようです。
- bender
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「ファンダメンタリスト」という語は、使われる場面によってその意味が異なります。質問された方が書かれている「聖書を文字どおり…」というのは、どちらかといえば広義な用法ではないかと思うのですが、最近では、アメリカのプロテスタントで特定の教義(ある種の終末論など)を信じている人たちを指す狭義な意味で使われる場合も多いので、その辺りで質問内容が曖昧であるように感じます。また、1)にある「普通の信者」という表現が具体的にどのような人たちを指すのかは、さらに曖昧だと思います。 アメリカのプロテスタントの教派についていえば、かつて主流派とみられた「メインライン」と呼ばれる教派は、その信仰する内容において、よく言えばおおらか、保守的な見方をすれば非聖書的になってきたので、もっと聖書に忠実にやろうよ、という教派がその後でてきたようですが、それでも、これら後者の団体が必ずしも原理主義と言われているわけではありません。ところで、例えば、バプティストにおいては、American Baptist Churches USAという団体が「メインライン」と目されるようですが、現在ではSouthern Baptist Conventionのような(「メインライン」とはみなされない)他のバプティストの団体の方が会員数が多い場合もあるようです。また、バプティスト、メソジスト、などの名前は具体的な団体の名前ではないので(団体の歴史や教義的な系列を示すかもしれませんが)、「バプティストは『メインライン』」あるいは「メソジストは非『メインライン』」のような言い方はあてはまらないと思います。 2)について言えば、カルトという語は、おおよそ、正統的な教義から逸脱した団体に対して使われると思うので、例えば、必ずしも奇跡を信じない信者が通うリベラルな教会であっても、奇跡をすべて信じる保守的な教会であっても、キリスト教の正統的な教義を踏まえている場合、普通はどちらもカルトとは呼ばないように思います。ただ、イエスの復活はなかったと断言する団体は、おそらく、キリスト教の正統的な教義を踏まえてるとは言い難いように個人的には感じます。
お礼
ありがとうございます。 曖昧さのある質問だということすら、私には認識がありませんでした。 色々宗派はあるが、とにかく復活は基本的にみんな信じていることなんですね。 その上で、正統派というのがとにかくあって、奇跡を全部信じているわけではないと。 そしてファンダメンタリストは、ある種の終末論を含めて全てを信じてしまっているらしいのかな。 カルトかどうかの線引きは、正統派との主義主張の違いにかかってくるようですね。 正統派の主義主張とは、いったいどんなものなのでしょうか? 正統派は、どの奇跡を認め、どの奇跡を認めなていないのかが知りたい。 どの奇跡を信じるとカルトになり、どの奇跡を信じないと普通の信者になるのでしょう?
- hhituji
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私は、キリスト教の信者であり、しかも理工学を生業としているものです。結論を言うと、私はキリストの奇跡も復活も比喩的な意味ではなく、事実として信じています。そして、日本でも、アメリカでも、かなり多くの科学者が、キリストの奇跡を事実として信じています。これは、非常に不思議なことなのですが、証拠がたくさんあるからなのです。 この証拠については、ここでは長くなるのでお話はしません。なにかの機会があれば系統立てて説明しようと思います。 この質問について答えると、 (1)キリスト教を本当に信じている人であれば奇跡を事実として信じています。それは、思い込みではなく、さまざまな、人の批判にも耐えられる証拠(あるいは状況証拠)があるからなのです。事実がなければ信じることはできません。 (2)上の回答を考えると、奇跡は、本来は全てのクリスチャン(科学を信じる人も)が信じているものであり、どれを信じてもカルトとはいえません。ただし、彼らは確たる自信と根拠を持っているのです。
お礼
ありがとうございます。 確たる証拠があるから信じているとは、これまでの皆さんの回答とは相反するとらえ方ですね。まさに、回答者さんのような方は、ファンダメンタリストなのでしょうか。 自然科学では、不完全帰納法によって、実験から法則を導き出します。このことは理工系出身ということでよく分かる話だと思います。 人は死ぬという法則は、不完全帰納法から導き出された結論に過ぎない。だから、正しいとは限らない。 この法則は実証することが出来ない。ただ、一人の反例があればそれでくつがえるのですから。 これは論理的には正しいかもしれない。神の存在問題は、啓典宗教に付きまとう宿命かもしれませんね。ときには、背理法を用いて神の存在を証明したりと。 大晦日に、テレビタックルを少し見ました。韮澤さんや矢追純一、コンノケンイチといったオカルトスター(トリックスター?)は、あいもかわらずの宇宙人エンターティメントで楽しめました。グラハム・ハンコックもその番組に出ていましたが、苦笑していました。何だか証拠は?証拠は?と叫ぶ大槻教授や吉村教授が目に浮かびました。
- pyon1956
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1)については皆さんの回答に付け加えることはありません。 なお、カトリックでは実はこのあたりかなり「合理化」がすすんでいます。というのはもともと聖書以外に教会の権威が大きいためですね。 2)ですが、どの奇跡がカルトと普通の分かれ目になるか、というとそんなものはない、というのが答えでしょう。 ある意味で既に書かれた文書を第一とする(正典宗教)姿勢は、常にカルトになる可能性をもっています。 またキリスト教自身その最初の姿はまぎれもないユダヤ教内部のカルトだったわけで。 また復活がアウト、というのも必ずしもそうともいえないでしょう。それをいいだしたら2000年前の書物は多かれ少なかれアウトな考えを含まないものはひとつもありません。オカルトというのも妙な話で、科学がもはや論破できないものに成長したため、排除されたものがオカルトなわけです。という点では18世紀前半以前の文書は残らずオカルト的でもあります。 こういった点で矛盾が生じるのに対するしかたは#4さんが仰るように2つに大別されます。 友人に前者のひとが何人かいて、彼らにこれらのことを質問すると「そういうのは専門家(牧師とか神父とか)に聞いて下さい、私にはわからないので」という返事が決まって返ってきます。 つまりそういうことは考えないし、気にしないし、気にならない、ということのようです。 後者には、八木誠一(イエスとその時代)のほかにも高尾利数(「イエスのミステリー」なる本を訳して顰蹙を買ったが・・・)、荒井献(主にグノーシスの研究で有名)、田川建三(イエスという男)などの新約聖書学者がいます。 この中でおそらく田川さんはもう「キリスト教徒」ではないのでしょうが、それでも「キリスト教思想への招待」という本はそのあたりを徹底的に突き詰めた上でなおキリスト教「思想」を評価する、という元信者の極致の本です。一読をおすすめします。
お礼
ありがとうございます。 確かに、今みたいに科学が発達しない時代においては、復活のようなこともさもありなんと受け止められたのかもしれない。それは思考停止の快楽もある程度含まれるのかも。人間界の苦しみを救うにはそれぐらいの力が宗教に求められるのかもしれない。 ただそれでも、人間の知りたいという欲求が信仰の上で、さらなるキリスト理解のために、少しでも合理的な説明を欲するのかもしれない。それが後者の聖書学者の立場なのかな。 オカルトの魅力と重なるのかも知れないが、疑わしいところが少しはある方が調べがいがあるような気がする。 ある種のフェチズムかも…。知的チラリズムが想像力をかきたて、今では絶対に知りようがない本当のキリストとはいったいどんな人だったんだと問い続けるのだろう。
補足
「キリスト教思想への招待」という本を今度読んでみたいと思います。仏教徒だから本当は、もっと釈迦について書かれたものを読みたいところですが。手塚治虫の漫画ぐらいじゃやばいなぁ。釈迦についての良本があったら、またよろしくお願いします。しかし、グラハム・ハンコックのタリズマンも気になる。神々の指紋は私的にはアウトな本でしたが…
- hisya
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#2です。補足しますね。 >彼らはどう非科学的な教義と折り合いを付けてるか謎だ。 キリスト教と科学との矛盾 これは日本人がキリスト教を信じようとする時に大きな問題になります。 このときの対応には二つのパターンがあります。 (1)聖書をそのまま受け入れる→聖書の科学と矛盾する部分を特別な事として認める。神が全能=奇跡などがその理由です。しかし、現実においては普通に自然科学のほうを真実と思っている。この人たちの関心の中心は人文系で、あまり深く疑問に思わないようです。神やキリストによる救いや愛などが重要であって、宗教は科学を超えると簡単に考えてるのでしょう。日本のクリスチャンのほとんどがこれで、ファンダメンタリスト的内容を受け入れるということです。作家でいえば、プロテスタントの三浦綾子がこれに当たります。 (2)聖書を批判的に受け入れる→現代聖書学の批判的研究によって、聖書の自然科学と矛盾する部分は排除されます。天地創造、処女懐妊、病気治療などは伝説とみなされます。で、残るものは何かそれはイエスの言葉です。それでイエスの言葉を基にイエスの思想を受け入れるわけです。聖書学者の八木誠一など最先端の考え方です。日本の知識人でキリスト教と科学との矛盾に苦しみ何とか折り合いを付けるクリスチャンは最終的にはこれに行き着きます。しかし、日本のクリスチャンの中ではあまりに少数派なために、彼らは個人的に自分の内部だけで合理的解釈をしてるわけです。作家でいえば、カトリックですが遠藤周作はこういう考え方に近いです。
お礼
まいどありがとうございます。 人間は矛盾をも包括した存在とでも言いましょうか。 愛とかそういうものは、論理で語られるものではないですね。もしくは語りたくないような気持ちがある。 太田光が愛とは麗しき誤解といっていた。 遠藤周作と三浦さんの本は少し読んだ事がるかもしれません。彼等はよく死と生というものを見つめていたような気がします。
- hisya
- ベストアンサー率22% (65/285)
#2です。日本の場合を簡単に述べます。 日本のプロテスタントはアメリカのファンダメンタリスト系統の教派が多くて、日本のほとんどのクリスチャンが聖書の内容=キリストの奇跡を文字どうり信じてます。 そのために、日本人はキリスト教といえばファンダメンタリスト的な信仰のことだと思っています。これ以外のキリスト教信仰の仕方があるとは全く思ってないのです。そのせいで、日本では、アメリカのキリスト教の主流派がキリストの奇跡を合理化して解釈してるなど全くといっていいほど知られてないのです。つまり、日本のキリスト教は世界的に見ればかなり特別なものですが日本人はクリスチャンを含めてそれを自覚してません。 それで、もしファンダメンタリスト=カルトとなると日本人のクリスチャンのほとんどがカルトになってしまうわけです。まあ、一般的な日本人から見ればクリスチャンという人種はかなり胡散臭く思えるかもしれませんけれどね・・・ 補足 ↓ 日本という国は中流社会なので国民の教養レベルがかなり高いです。そのために、今の日本のキリスト教のファンダメンタリスト的な内容では、キリスト教と科学の矛盾が障害になって一般の人が信じるのは難しくて、信者の数はあまり伸びないように思います。もし、日本においてアメリカの主流派のような教派が伝道に力を入れれば、キリスト教と科学の矛盾が信仰の妨げにならず一般人にも受け入れら易くなって、信者の数は伸びると思います。
お礼
ありがとうございます。 日本のキリスト教事情は、かなり特殊なもののようですね。ビックリしました。でも、科学者やある程度の知識人でキリスト教徒の方も中に入ると思いますが、彼等はどう非科学的な教義と折り合いを付けているのかな。謎だ。 人によりそれぞれが解釈できる方が原理主義にならなくてよさそうですね。授業でも進化論について認めずに、創造論のみを教えられたら、親としてもかなり困る気がする。進化論なしに、新型の鳥インフルエンザが発生するしくみをどう説明しようか? 先史時代のロマンもなくなる。恐竜は?アノマロカリスは?冷凍マンモスはいつ神が創ったのか…
- yow
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ぜんぜんわかりませんが、敬虔ではないカトリック信者です。子供の頃カトリックの学校にかよっていました。普通の信者というよりも、信者じゃないのかもしれません。 おもうに、自分が信じているものを人を物理的に傷つけてまでもつらぬこうとするのがカルトになるのではないかな、と。 私個人的には、復活はあったのかもしれないし、比ゆとしてつかったのかもしれないし、誰かがそのように見えるように操作したのかもしれないか、今となっては、真実は全くわからないけれど、どんな暗闇の中でも希望があるのだ、ということだけ信じていればいいかな、と思っています。 ファンダメンタリストかどうかはわかりませんが、まずしいアフリカに救済にいったキリスト教の人たちは、そのアフリカの人々にキリストの教えを説きます。そして、避妊をやめさせるわけです。そして、育てきれない子供が生まれています。 中絶を神はゆるさない、といって、中絶クリニックの施設を爆破したり医者を殺害したり、、、というクリスチャンもいます。 どうなんでしょうね。まったく参考にならずにすみません。
お礼
ありがとうございます。 カトリックというのは、生まれつきでしょうか。私も、親が仏教だから何とはなしに仏教というだけです。 私の場合、余りにも宗教が世俗化されていて信徒というよりも無宗教なんじゃないかとそんな気さえします。 それでも、宗教的な気持ちは多少というか、まあ、あります。でも、仏陀に祈るという感じじゃないな。なんとなく親や祖先というか自然を畏敬の念で感じられれば見たいな。感謝の気持ちは宗教に関係なく大事なことですね。 アフリカの例もそうですが、戦争があると宣教師がやってくるのは歴史のサガみたいなもんですかね。イラク戦争後、原理主義的なキリスト教徒がイラクをキリスト教にかえる計画を立てているなんてこともあるくらいだし(2003, タイム, 無知と尊大)。
お礼
ありがとうございます。 なるほど、比喩やたとえ、神話としてとらえるのなら、信仰上の妨げにはなりませんね。 日本の新興宗教が仏教に基づくのと同じく、アメリカの新興宗教がキリスト教に基づくのも、ただ先にそれがあったから利用したみたいなことかな。 カルトは教祖の独裁体制下にある組織ということですね。そして教祖が神になり代わり発言する。 しかし、原理主義を掲げるカルトも結構いそうな感じです。いわゆる輸血拒否事件が問題になった、エホバの証人など。 聖書の解釈にも関わるのかもしれないが、原理主義の解釈はどうも現実世界に大きな軋轢を起こすような気がします。当時の理想と今の世の現実をくっつけるのはかなり無理があるのは当たり前なことなのに。