秀吉の生まれ故郷の名古屋在住で、歴史を専門に勉強したオバサンです。
まず、秀吉の実子とされているのが(一応)4人ですね。
まず、「秀勝」という男の子で、長浜城主時代に側室・南殿との間に設けた。幼名は石松丸。法名は本光院朝覚居士。
お墓が長浜の妙法寺の裏手にあって、天正4(1576)年10月14日没。
同じく長浜の徳昌寺には位牌があります。
元亀元年(1570年)生まれという説がありますから、それからすれば、6歳ぐらいで亡くなってしまったようです。
次が娘ですが名前は不詳です。
1の秀勝の同母妹(母は側室・南殿)とのこと。
天正2(1574)年生まれという説がありますが、秀勝同様に早世したと思われます。
ただし、こちらはお墓も位牌も残っていません。
あとは、広く知られている鶴松と秀頼です。
秀勝と娘が?というならば、鶴松と秀頼も本当の父親は秀吉ではないのでは?と言われていますからねぇ。
あとは、養子になります。
先に述べた秀勝が亡くなった後、織田信長の四男を養子にして二代目の秀勝を名乗らせています。
さらに、秀吉はよほど「秀勝」に愛着があったのか、三好吉房と姉・ともの間に生まれた次男に、三代目の秀勝を名乗らせています。
姉・ともの子については、(秀頼が生まれる前に)長男の秀次も後継とするために養子にしています。
また、正室・北政所(のちの高台院)の兄・木下家定の五男も養子にしています。これが後の小早川秀秋です。
政略の関係で、徳川家康の次男を養子としましたが、この子をとても可愛がり、自らの手で元服をさせ秀康と名乗らせています(後の結城秀康)。
何といっても一番可愛がった養子は、前田利家の四女・豪姫でしょうね。
この子が男だったら天下を譲りたかった-と言っているくらいですから。
のちに豪姫の夫となった宇喜多秀家も養子だったという説もありますね(母親が秀吉の側室になっていますし)。
猶子だったのが、正親町天皇の第一皇子である誠仁親王の第六皇子・智仁親王(八条宮)です。
この智仁親王が作った別荘が桂離宮。
という訳で、秀吉の「子供」というならば、10人以上になります。