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死は利益である
宗教というカテゴリーが見つからなかったので、ここに質問します。 先日、高山右近ゆかりのカトリック教会のそばを通りました。 祈りを捧げる人の石像の台座に『死は利益である』と刻まれていました。 これはどういう意味なのでしょうか? 以前、「ミッション」という映画で、銃弾が飛び交う中を平然と歩み、殺されていく宣教師の姿を見ました。 その時にも、私には彼らの行為が理解できませんでした。 よろしくお教えください。
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理解できなくて当たり前です 「先日、高山右近ゆかりのカトリック教会のそばを通りました。 祈りを捧げる人の石像の台座に『死は利益である』と刻まれていました」 伝えている判っている事実はこれだけです 以前映画で見たことと、この事実とのつながりを説明してください 言葉を知らなければ、話ができないように、 事実を知らなければ、何も判りません 事実が、一体何なのか、判るようでしたら、教えてください。 私が、知ってる思想団体なら、その考え方を答えることもできます しかし、 特にこの「死」というものに対する考え方は、 他の物事以上に、自分が納得するために、人それぞれ苦しんでいるのです 最近、手抜きビル乱立のニュースが、報道されていますが、 既に、死を選択した人がいます 何故でしょう? 死人に口無しです 事実は、判りません 責任を感じたのでしょうか? そんなことは、周りの憶測に過ぎません 事実は判りません 死を恐れる人間は、死を肯定し、悪くないものだとして その恐怖から逃れることもありますが、それでしょうか? わかりっこないのです 彼らのその行為が、一人一人違う理由に基づくかもしれません 哲学や、思想、宗教、そして、洗脳 幸せを求めて、さまよっているのだと、言うことしか、 他人のことはわからないのです こんな質問をすると、色んな思想の人が、 それぞれの考え方を押し付けるように、 語るだけの、くだらない答えが返ってくるだけです 本当に聞きたい事はもっと違うところにある気がします 聞きたい事は何ですか?
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- merlionXX
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キリスト教徒にとって死は人生の一部です。 聖書によれば、生命が必ずしも最高の価値を持っているとは限りません。 「私にとって生きるのはキリストであり、死は利益である。(フィリッピ人への手紙一)」 「友人のために生命を与える以上の大きな愛はない(ヨハネによる福音書十五)。」 つまり、敬虔なキリスト教徒は、「自然死」なら歓迎することができるのです。死んで神と「面と向かって」話せる日を待ち望むわけです。 逆に、自ら命を絶つ「自殺」は、神から与えられた命を自分勝手に捨てることになるので厳しく戒められています。
お礼
よく判りました。 お答え、ありがとうございました。
- バグース(@bagus3)
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キリスト教徒にとって、死ぬことは 天国へ行くことであり、神やキリストのそばに 行けることなんです。 この世がすべてではなく、現世は天国へ行くための 通過点です。 死は利益であり勝利です。 http://72.14.203.104/search?q=cache:lC-_Wc62mJIJ:japan-lifeissues.net/writers/wel/wel_01xianeuthanasia.html+%E6%AD%BB%E3%81%AF%E5%88%A9%E7%9B%8A%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B&hl=ja
お礼
よくわかりました。 お答え、ありがとうございました。
- rinring
- ベストアンサー率18% (822/4396)
私にも理解は出来ませんが、聖書の中の一文かと思います。
お礼
よくわかりました。 お答え、ありがとうございました。
お礼
言葉足らずで、失礼しました。 私が知りたかったことは、他の方がお答えくださいました。 ありがとうございます。 あなたに祝福が訪れますように。