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使える英語教育はどこにある?

シンガポールは授業料だけではなく、寮費まで支給して、優秀な留学生をアジア各地からかき集め、卒業後はシンガポールでの就労を義務付け、また、大学院に半年在籍しただけでも永住権を与えたりしているようです。授業はもちろん英語です。韓国での英語熱、留学熱はひろく知られています。 例えば、「受験英語」の牙城、大学入試において、各大学で似たようなテストを用意するのは教育産業を喜ばせるだけではないでしょうか。各大学個別の入試より、センター試験、英検、TOEICなどを優先してもいいのではないでしょうか? 日本は「英語の習得」に、もっと注力するべきだと思うのです。 日本で、あまり勉強ができない生徒でも実践的な英語を習得する方法はあるのでしょうか? 「日本人の英語」に革命は起こりますか? * アジア各国での真剣な取り組みに引き換え、日本では Gさんも嘆いていたように、つい数年前まで奇妙な日本式の英語が「英語」に適用されていたような有様です。 当時の状況は最悪で、私には耐えがたいものがありました。Gさんは偉いです。最近は、このサイトでも英語に詳しい人が増えたので、以前のことを知らない人には理解できない話かもしれませんが。 それと最近、よく考えるのは、「正解はひとつではない」ということです。たとえ、ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーから聞いた話でも、日本人による日本語の話がすべて正解とは言えないことを考えれば、簡単に「正解」「不正解」と判定してしまうのは間違いかも知れません。「使える英語」を考える上での重要なポイントに見えます。

みんなの回答

回答No.12

このOKWaveで使える英語を教えてもらえると期待している人には申し訳ありませんが、かなり厳しいでしょう。良心的で熱心な回答者が多くおられるようですが、この種の匿名サイトでは相手が見えないだけではなく、その回答の信憑性を確認する手段がありません。現にオカシナ解釈とか表現が少なくなく、英語学習者にとっては面白いかも知れませんが、有意義な知識としての価値は残念ながら乏しいと言わざるを得ません。でも無料ですから、それに見合う価値と納得されれば良いかと。 良質の英語学習は個人レベルで自分の能力に見合うものを探すのが賢明でしょう。 ちなみに11番さんが5回も熱弁された表現ですが、tightではなくtiedですね。「縛られている」からであり、「きつい」ではないですからね。

taroandjiro2001
質問者

補足

ありがとうございます。 >回答の信憑性 ネイティブでも間違ったことを教えてしまうこともあるし、プロの先生方が正しいとはいえないことは実証されつつあります。オープンな場であるからこそ、間違った答えに対して、再質問も可能です。 かつては先生の権威に従うだけだけだったのが、今では、自由に論議できます。実際、ここで提出される質問に自在に回答できる人など存在しないと思われます。 本などで探しても得られない答えが得られ、いびつな限られた枠組みの中から解放---日本式文法から学習者が解放されたことだけでも、このような場が与えられたがゆえの福音に見えます。 http://www.eigotown.com/jobs/business_english/ask/ask015.shtml

回答No.11

Gです。Helfgottさんのご回答を読んで一言書きたいので書かせてください。 確かに私は日本の学校の教育現場にはいません。 ですから私の書くことが「日本人一億評論家」の言葉ととられているのかも知れません。 確かに改革が必要な現場で先生が、特に生徒のことを思っている先生、悩むのは十分分かっているつもりです。 これをMy hands are tight.と言う表現をして、あまりにも組織が大きすぎる、なりたいのは山山だけどできる立場ではない、と言うフィーリングです。 私も空手と言う業界でこのMy hands are tight.の状況にいます。 日本の本部の考え方と戦ったり、アメリカでの空手の認識、踊りじゃだめだ、黒帯をもらうための野試験に受かるための練習じゃ一生を棒に振る、など、など、など、が私の信念との違いの大きさを感じさせるのです。 しかし、日本人一億評論家と違うことは、私はそのために動いています、そして、実例を作り出してきています。 これがひとつの「アメリカ人以上のことをやる」になります。 自分の信念を貫き通すためには批判する以上のことをやらなくてはだめなのです。 有無を言わせぬ実力を持たなくてはだめだ、と言うことでもあります。 私のやっていることがアメリカ政府にも認められるのに15年かかりました。  そのための原動力となる、絶対的なモチベーションスキル、更なる知識、生徒の養成、指導員の養成、セミナーでの実技講演、Time Management Skillなど若い頃は考えてもいなかったことをやるしかなかったのです。 しかし、これらの原動力がひとつの束になってこそ本当の意味の実力がつき、それを認めてもらおうとしなくても支持者は出てくる、と言うことなのです。 1年前と今とこのカテでさえ変わってきています。 (いいえ、私がしたと言うことではなく) 私の書いていたことに反論・日本人一億評論家をやってた人はあきらめるしかなかったと言うことも一つあると思います。 今ここで回答している人の多くは私が一貫性を持って言ってきたことを違う言葉で言い始めているわけです。 Gが言っていることなら私でも言える、Gの日本語よりわかりやすい日本語で、または、正しい日本語で書ける、と言う人が出てきてくれているわけです。 私なんか、もう少したったらいなくてもいても同じことになります。 私は、Helfgottさんのように、悩んで欲しいのです。 My hands are tightと言ってあきらめたら何もできません。 人生の一度でもいいから何かいい方法に持っていける一部となっても良いと思いませんか? 死ぬときに、自分は自分でできるだけのことをやった、と言いながら死ぬことのすばらしさを私は求めています。 悔いの無い人生、私にはこれができるようになるために自分に改革をし、土台を作り直す事を達成するために必要な最も優秀な部品を作ることを惜しまないことがこれにつながると信じて今までやってきたつもりです。 自分が今あるのは決して自分がしたことではないのです。 1千万2千万と言う人たちが何らかの形で手助けしてくれてきたのです。 そうであるからして、自分も彼らの1千万2千万の人にならなくてはいけないと私は感じるわけです。 人の教えると言うことには自分を捨てる、と言うことも含んでいます。 安月給で自分の命をかけて市民を24/7守っている人の命を救える実力を作り上げる事は、日本の英語教育改革にも等しいものでした。 予算は無い、人材がいない、規律がある、上司の保身根性、私に対する人種差別もあったでしょう、時間が無い、あまりにも基準が高すぎる、など何もかもが壁となっていたのです。 防具さえしっかりしていれば良い、テーザーガンあるから大丈夫だ、なんて無知な反対もありました。 日本の教師がこれができないことは無いはずです。 Helfgottさんがおっしゃる「こうした教育を変えるためには、学歴社会そのもの、試験中心の日本の教育制度そのものを、根本から考え直さなければなら ないのです。それは、とてもとても大きな変革を意味するのです。」と言うことなのです。 それをしない限り、評論家の意見だけを聞いて、丸く治めようとするだけの表面だけの改善は犠牲者を作り出している事実にはまったくと言っていいほど結果が出るわけは無いのです。 現場での教育方針、また、教師の実工場をしていかない限り、徐々に改善しています、の徐々に、はあと100年待ってくれと言っているのと同じなわけです。 40年前とどこが変わっていますか? 40年と言う長い月日がたっているのです。 今できる人は海外で留学・生活をした経験のなる人、英会話学校へ通った人、独学でがんばった人、(そしてこのカテに来る人)くらいではないですか。 もちろん、私のように、中学の一番初めの先生が若くきれいな人だったのでモチベーションも高かった、と言うようなこともあったでしょう。 しかし、学校での英語教育だけで分かるようになった人はどれくらいいると言うのでしょうか。 一人当たり何冊の参考書と辞書があるのでしょう。 学校外教材に使われている金額は一年にどのくらいでしょうか。  My hands are tightだから何もできない、では無く、My hands are tightだからやるんだ、と英語教師の一人一人が自分の人生の一部だと言うことに気がついて欲しいのです。

回答No.10

Gです。 >SWATの隊員が「おれのシューティングの成績が悪いのは、インストラクターが悪い」といえば、どう思われますか? これに答える前に、私の回答で学習者に対しての回答で先生のことを悪く思ってはいけない、その先生よりもっとよくなるんだと思ってくれと私は言います。 「自分」ができないのは「先生」が悪いのではなく「自分の努力」もする必要がある、だからモチベーションを使わなくてはならないと私は言います。 自分の潜在能力を信じ、自分の目標を持ち、、、、、、、と言うことは何回もこのカテで言ってきたつもりです。 Yes, I can and I will.の気持ちは必要なのです。 口先だけで俺はできる、俺はだめだと言っている間は両方とも、結局は現状維持以下になってしまうということなんです。 それを植えつけることのできる教師が今必要だと思います。 これからの教育にビジョンを持って挑戦し、犠牲者を減らすことへの課題にリーダーが必要だと私は言います。 今、そのリーダーはいないとしか私には見えません。 政府のお偉方は「有名大学の優等生」しかいないじゃないですか。 できない子供たちの心理的問題がわかる優等生はそれだけいないと言うことでもあります。 しかし、指導者には、生徒ができないのは指導者が悪いとはっきり言います。 指導者がその生徒を教えられるだけの指導能力がない、と言うことなのです。 ないのであれば、ないのだと言うことを自認しなくてはなりません。 自認した上で、生徒に毎日要求する「上達しなきゃいけないよ」と言う言葉を自分に投げかける勇気がなくてはならないということでもあります。 生徒だけにその要求をする先生と自分もがんばっているんだと見せ付けることのできる先生との違いなのです。 自分もお前たちの苦労はわかっている、だから俺もその苦労を感じたい、感じていると口先だけでなくできる先生が必要なのです。 さて補足質問の本題です。 >SWATの隊員が「おれのシューティングの成績が悪いのは、インストラクターが悪い」といえば、どう思われますか? 私は言います。Maybe your instructor was not good enough. But it's now my responsibility to make sure you are going to be a better shooter. If I can't make you a better shooter, tell everybody you know that I must be no good. But believe me no matter what, you're going to be better. It's not my concer how good or how bad your previous instructor was.と. What do you think I have been doing here with your guys. If you are not good enough at what you need to know, you are the one who will be killed and dies. Believe me, I'm not the one who dies, YOU are. It's up to you if you wanna be good or not. I'm here to help you live with abilities to protect you. Get serious, get more serious about your life. But you missed 5 shots out of 80. That's less than 94%. That can mean your life can be saved by 94%, only 94%. Yeah, I know that's pretty good at the PA (police academy). But you've gotta realize you are no longer under the SAFE PA circumstance. 94% is not good enough here. I can't live with 6% chance to die. Or can you? You have been chosen to do the job that nobody else but you can do. This also means you have to live to do the job. Where in the world do you think one can live with 94%? Jack, you have these problems like ,,,,,,, Michael, You did this wrong, that was serious enough you should be very concerned. You need to do this. I'll show you how. Jack, be my visual aid.,,,,,,, Dan, you have improved on xxx since but how about the xxx that you needed to work on? Were you able to visualize the situation where your "THE shortcoming" could kill you instancely? That's to recoginize your left elbow was about 3 inches too high, 2" too far to the left. Let's do it again. Dennis, help him out on this to show him. というようなレッスンのやり方ですね。  指導員とは各生徒の弱点を知らなくてはなりません。 そのためには指導員としてではなく実際にできる有無を言わせぬ実力を持っている 必要があります。 それができるようになる工程で「習う問題点」に気がつかなくてはならないのですね。 なぜできないのかということが自分が分からなくてただやり方を見せるだけではできるように教えることはできません。 まねをさせるだけでは何をもっと真似しなくてはならないのか分かりませんね。  ですから、私の一番の弱点は拳銃の使い方でした。 なぜ9MMオートマチックで正確さが落ちるのか、どうしたらリボルバーの弱点である弾の少なさを補えることができるのか、重心の違い、構えの違い、100も200もある書かれていない項目を徹底的に知る必要が私にはあったのです。 これで、知らなければ教えられない、経験と言うものの重要性を私は実感するようになったわけです。 taroandjiroさんにできることはたくさんあるます。 このカテでのご回答を見ればはっきりしています。 私ができないこと、知らないこと、経験したことのないこと、すべて私にはかけない事です。 しかし私の知っていることであれば100ページも200ページも一挙に書ける自信はあります。 ただ、私の知らないことが多すぎると言うことに過ぎません。 アメリカでアメリカ人に英語を教えていると言った人はちょっと誇大していたようです。 しかし、その人にもできることはあるはずです。 そのできることをやってくれればいいと思っています。 私を意識しての回答ではなく、質問者のための回答に専念すればいいだけのことだとも思っています。 さて、また長くなってしまったので、この辺で終えておきますね。 ではまた。

taroandjiro2001
質問者

お礼

ありがとうございます。 よくわかりました。 最近、本で学んだのが「すべてを引き受ける」という態度です。自分の周りに起こる一切の出来事を自分とは別物ではなく、「自分事として言い訳せずに引き受ける」、そのことによって、新たな展開が生まれるという概念です。 なかなか、こういうことをイメージするのが難しいですが、指導者が言い訳してはいけないというのは、そういうことなのでしょう。 これからもよろしくお願いします。

  • Helfgott
  • ベストアンサー率44% (66/149)
回答No.9

No3かつNo7です。 言いたいことは山のようにあるのですが、かいつまんで。 1つ目。 「正解は一つではない」という話は、その通りです。英語を話す 現場では、しばしば規範文法的な英語からは逸脱した表現をしば しば使います。そして、「学校英語」は、しばしば限定された一 つの答えを要求します。ここに、確かに矛盾があることは、その 通りです。 しかし、「規範文法的な」言語を教えることは、必ずしも間違いで はありません。まずは、最も標準的で「正しい」とされる表現を身 に着けることは、言語学習の初歩として欠かせないことです。その 上で、次第により幅の広い表現方法を身につけていけばよいだけの 話なのです。この点に問題はありません。問題は、さらに別の側面 にあります。 それは、日本の学校教育が、試験中心の、「唯一絶対の」正答を求 める教育になっている、という点です。中学入学と同時に始まる定 期試験は、その後大学入試まで続く「唯一の正解」を身につけるた めのまず第一歩です。あくことのなき「正しい英語とは?」「正し い文法とは?」という追求は、だから英語教育だけの問題ではあり ません。日本の中・高等教育全体が抱える問題に起因するのです。 言語における「正解」、あるいは「真理」とは、実は深い問題です。 英語における「正解」「真理」は、辞書や高度な文法書の中に書いて ある、と考えている人がたくさんいます。そうではなく、本当は言語 における「正解」「真理」とは、その言語を話す現場にしか存在しま せん。人々が、ある言語を使ってコミュニケーションを図る現場にの み、言語の「正解」は存在します。そして、言語は徹頭徹尾、変化し ていくものです。それは、決して辞書や文法書の中に、固定した絶対 的な真理として、存在することはありません。この点ほど、一般に理 解されていないことはありません。 少し話がずれました。問題は、「正解」を作ってしまう試験中心の 教育にあります。「正解」を要求する中で、不必要に瑣末な文法事 項を追求するような試験問題、それに正答するための英語教育とい ったものが生まれてきました。 これを変えることは、至難の業です。なぜなら、こうした教育は最 終的に大学受験につながっていて、それはいまだに根強く残る学歴 社会に起因するからです。もはや、学歴は意味をなさない、そんな ものは通用しない時代になった、という人もいるでしょう。しかし、 現実はそうではありません。教育「市場」では、いまだに需要は、 「学歴」を強く求めます。これは、徐々に変えていかなければなり ませんが、今ある「現実」として認めざるをえません。 そして、下で書いたとおり、英語をどうしても使わなければならな い、という社会的インフラのない日本において、受験は、英語を習 得するための、ほぼ「唯一」のモチベーションです。これには、反 論があるでしょうが、現実にいる中学生、高校生に触れてみてくだ さい。1000人、2000人、それ以上の中高生、その親に、じかに触れ てみてください。そして、彼らに英語を教えてみてください。 そうすれば、ある程度はわかります。 だから、こうした教育を変えるためには、学歴社会そのもの、試験 中心の日本の教育制度そのものを、根本から考え直さなければなら ないのです。それは、とてもとても大きな変革を意味するのです。 私自身は、大学受験の様式を、少なくとももう少し変えて欲しい、と 思っています。少なくとも、瑣末な文法知識を問う問題は、減らして 欲しいし、一発試験の形式とは、また別の形式もあるのではないかな、 と思います。ただ、これについては、やや無責任な立場でしか物が 言えません。 現場の英語教育も、もっと改善の余地はあるでしょう。これは一つ、 というならば、音声指導をもっと徹底的に取り入れることでしょうか。 しかし、Oral Communicationを特に嫌がる年代である中学・高校生の 教室現場を思い浮かべる限り、革命的なまでに効果のある方策は思い つきません。飛びぬけて実力のある教師にのみ可能な方策ではなく、 現実的に現場の教師が行える具体的な方策が求められているのだと 思います。 2つ目。・・なのですが、長くなったので本当に簡潔に。 大変残念なのは、この議論になると、現実的・具体的・実践的な方 法論を検討することよりも、現在・過去の日本英語教育に対する非 難、不満が、論述の大部分を占める、ということがしばしばある、 ということです。私はこのサイトは新参者だし、過去に何があった かは全く知りません。ガチガチの文法主義者に対する苛立ち、とい った思いも、わからないではありません。しかし、そうしたことよ りも、もっと具体的で現実的な方策を論じて欲しいです。 私は、英語教師になるつもりは全くありませんでした。文法英語、 学校英語にはずっと批判的で、「評論家」的に、学校教育では本当 の英語は身につかない、と言っていました。しかし、予想外の巡り 合わせで、英語教師になった今、それが以下に無責任な発言だった かが痛感されます。日本の学校英語の教育が役に立たない、という ならば、まずは現実に日本の学校英語の現場に立ってみて、あなた 自身が変革の先頭に立ってみてください。日本の学校教育の現状、 そして現実の中学・高校生を目の前にして、本当に変革するため には何ができるかを、批評家的な言葉ではなく、現実に実践してみ てください。壁は厚いのです。自らの力のなさを、嫌というほど 思い知らされるのです。 「変革は起きない」という現場の声は、保守的で現状を諦めたよう な声に聞こえるかもしれませんが、現実を知っている分、重みがあ ります。そうした中で、私も何ができるのかを、ずっと思い悩んで います。

taroandjiro2001
質問者

お礼

以前、テレビで教師と芸能人の公開討論みたいな番組を見てびっくりしたのは、教師の言い訳や現状に理解を求める意見に、「一切言い訳するな」という一方的な意見で大勢が一致したことです。 これには驚きました。 どこにどのような問題があるのか、現場の声を聞き、現実を認識しなければ、問題には取り組めないじゃないですか、自分が教師出身で、現状をよく知った上で、言い訳はできないと諭すならともかく、ほとんどの親・大人は現実の子供たちの荒廃をまったく知らずに、夢のようなことばかり考えているようにしか見えないですからね。 他人の話を一切聞かず、「君たちはプロなんだから」で終わらせているから、プロの建築家や、プロのアスベストやフロン製造業者のなすがままになるのでしょう。いずれにしても、現場の話を聞くことは、どこの世界でも大切だと思いますね。 私も子供が学校に行っている頃は、学校ぐるみの構造的問題などよくわからず、腹を立てることも多かったのですが、実際は、少しずつでも変革はできる、少なくとも可能性があることがわかってくると、考えも変わりました。 いずれにしても、改革、変革者は逆風にさらされるものでしょう。 学校の先生でも、有名になると学校に居づらくなって辞めさせられたり、まぁ、こういうことは何処でも同じなので、受け入れるしかないと思います。 最近、キリスト教でも「神はいる。人間(あなた)を通じて御業を現される。」という概念があるのを知ったのですが、不完全な人間が失敗だらけの試行錯誤するこの世、少しでも社会が良くなる様に「あなた」がここにいると考えるのは、未来の希望かもしれません。 ありがとうございました。 Helfgottさんをはじめとする現場の方々に期待しています。

taroandjiro2001
質問者

補足

お礼が長すぎたので、ここを使います。 >規範文法的な英語からは逸脱した表現 アメリカでもESL教師の悩みの種だそうです。 >コミュニケーションを図る現場にのみ、言語の「正解」は存在します。 まったくその通りです。 >現実の中学・高校生を目の前にして、 これは学校の先生のつらさはわかりますね。教師の言うことにはいちいち逆らう人間も、普通は塾ではおとなしく勉強しますから。 ただ、この件に関して言うなら、学校の風土の荒廃---学校内部での責任の押し付け合い、「校長や管理職、国が悪い」、「教育委員会が、親・生徒が悪い」の類から始まって、あの生徒はA先生が担任だから口出しできないといった、大人の空気に加え、教室内部の荒れた空気に、一層、荒廃のスパイラルがかかっているように見えます。 生徒たちは、大人に比べれば、はるかに純真な心を持っているのに、ある意味では、大人社会以上に荒れているかなと思うことはあります。受験しか頭にない進学校なら、まだ、ましな気もしますが・・・

回答No.8

Gです。 こんにちは!! 感謝祭でした。 零下十度くらいの外でも中では大変楽しい日を迎えることが出来ました。 (私に言いたいことも15分くらいかけて書きながら喋りまくらせてもらいましたし<g>) 英語と言うものの見方が昔と全く同じだ、と言う事が、6年間もやってきて、後になってみれば独学で身に付けなくてはならないと感じるいう犠牲者大量製造的な英語教育では日本の英語教育に誇りを持てるわけはないですね。 英語を使えるようになりたい、と言う中学生のモチベーションを高める事は充分できる時代になっているはずです。 自分が英語を使えるからといって、出来ない人のことを考えないという事は全く持って身勝手で利己主義としかいえません。 英語が出来ない理由はいろいろあると思います。 しかし、狭い観念で「必要もない」事を時間と労力をかけさせて覚えようとして、試験さえ出来れば良い、裏技で得点を上げたりできる、英語を使えるといえる実力をチェックしないTOEICや英検などのハイスコアーを取るだけにがんばっても後になってなんだよはなせないじゃないか、聞き取れないじゃないか、相手の言っている事の本当の意味合いが分からないじゃないか、なんて感じている人がでてくるのは当然ともいえるでしょう。 発音が出来ない教師がどうやって基礎的な発音を中学一年のときに教えこめる事ができるでしょうか。 下唇をかんでFとVを発音するとまだ教えている教師がなぜ現役教師として教えているのでしょうか。 (他の回答者の方々のことを言っているのでは決してないです)辞書的に単語を日本語と英語の対として教えてどうやって自分の言いたい事を英語で伝達できるでしょうか。 実践で使える英語を教える土台を作ろうとしないうちは犠牲者がでるのは止まらないでしょう。  英語を大学院で英語学を習える土台を作るための中学高校の英語の授業では何年その状況で教えようとしても生徒は実践的に英会話ができるようにはならないでしょう。 英語に興味を持っている人、英語使ってちょっとでも何かをしたい人がこのカテで「独学」しようとしていますね。 すばらしい姿勢だと思います。 しかし質問の多くを見ればお分かりのように、この問題の正解はこうなんですがなぜでしょう、と言う質問を良く見ますね。 私は「ちょっと待てよ」と言います。 英語を教えているはずの英語の先生がなぜそれを教えないのでしょうか。 なぜ、その間違った回答がなぜ間違っているとその問題集は説明しないのでしょうか。 canは可能、能力、、、を示す助動詞である、と分類項目の文字を覚えるだけでどうやってこの助動詞の持っているフィーリングを習いそのフィーリングがあるときにこの単語を自由に使えるようになると言うのでしょうか。 英語を使うために教えると言う観念が土台から出来ていないわけですから、私が書く回答が試験には通用しない、と言う事実があると言う事ですらおかしいのです。 日本で英語革命が起こる? 起こるのを待つのではなく、犠牲者のことを考えれば起こさなくてはならないと感じてほしいのです。 もちろんそうする事で英語を知っていると言う優越感はなくなります。 しかし、劣等感の塊で自分が人よりできることを分け与えない、できる人をねたむような人では結局できるようになるように教えられませんね。 改革を起こさせるのは教育者でもあり、犠牲者であった自分が進んで次なる犠牲者を少なくするようにするべきでもあり、自分たちは出来なかったけど少なくとも自分の子供には英語を物にしてもらいたいと節に思っている親御さんたちが団結するべきものでもあり、出来る人と出来ない人との差があまりにもありすぎるようになっておかしくならないうちに起こすものだと私は信じています。 うわべだけの改善ではなく根本的なものを作り直す「やる気」がない政府や失業をおそれる教えられない教師に頼る事は今出来ません。 彼らが改革を起こすとは全く考えられない事です。  しかし、起こさなくてはならないと要求する事は一般人でも出来るはずなのです。 私から見れば、要求しないのは何か理由があってその理由を除かない限りこれは達成できるものではないと私は思います。 この要求する土台は絶対に出来上がりつつあると思います。 英語教育にこれだけの疑惑を持つ人が増えているのです。 この疑惑と欲求不満とを結びつけリードしていく人材が今必要となっているのです。 いっそのこと、学校で教える英語を英語学と名前を変えることです。 英語ができるからと言ってビジネスが出来ると思い違いしている会社管理者の頭を洗脳する事も必要です。 日本語ができるからと言ってビジネスが出来るとは限らないですね。 (私が日本で日本の会社に就職できるはずがないという理由そのものです) 6年間英語を教えているはずなのにその殆どの生徒が使えない、卒業して独学しない限りできるようにならないということをどのように変えていけば良いのでしょうか。 それに英語を言葉なんだと言う事を教えるための土台を作り上げる教育スタンダードを作らなくてはならないと言う事でもあるし、できる教師を優先的に採用しできない教師には受験塾で教えてもらうようにしてもらうしかないでしょう。 もちろん、その出来ない先生にも出来るようなる再教育する事は当然含まれていなくたはなりません。 そしてはそれは政府が負担しなくてはなりませんね。 なぜって、その先生を作ったのは政府なのですから。 出来ない先生を出来るようにする指導が必要と考える観念は必ず正しい事だと信じています。 信じているからこそ、こちらで指導員養成を私の人生の一ページにしてきたわけです。 英語ができる事が必ずしも教えられることと同じ事ではない、と言う事は下の回答者の考えと同じです。 しかし、出来なくては教えられないはず、プロのプロにならなくては教えられない、と言う事ではありません。 しかし、普通の人より出来なくては、また、なぜ生徒が出来ないのか判断しそれを克服できる先生でなくてはいけないと言う事です。 それが出来なく自分の知っていることだけ羅列したところで生徒ができるようにはならないのです。 タイガーウッドを私にゴルフを教えるには彼のやり方を私がやってもダメなのです。 私の弱点を見つけ、その弱点を改良できるように教える方法を知っていなくてはダメだ、と言う事です。 それが出来れば私を一応のプレーヤーに仕上げる事は出来るのです。 一応英語で何とかできるプレーヤーを作り上げる英語教師が必要だと言う事です。 と言う事で、試験のための英語教育ではなく、使えるように教える英語教育を目指す事が必要となり、できなくては(出来るように教育できなくては)中学を卒業させないと言う事も最終手段として考える必要がある、と言うことにもなると思います。  英語学ではなく使える英語のクラスを持つ事ができないはずはないのです。 10年先、20年先のことを今考えないで表面だけ変えただけでは何十年も続いてきているこの問題点はまた何十年も続く事になるのです。 「おじいちゃんも英語良く分からないし私の全然分からないの。 同じだね」と中学を卒業する子供に言われて何にも感じない「おじいちゃん」はいないでしょう。  taroandjiroさん、去年までの馬鹿げた事はもうなくなりましたね。 なぜでしょう? 急にしたくなくったなんて考えられないですね。 したくなくなったのではなく、出来なくなった状況をこのサイトを作る事に決めてそれをしっかり守っている管理者の皆さん、そしてそれを支持してきた会員の人たちがいたからです。 何回も改心してもらいたいと切願しても通用しなかった人たちが名を変え品を変え私を攻撃するだけのために費やしたエネルギーを犠牲者のために使っていたらどんなに英語が出来るようになった人が増えた事でしょう。 非常に残念だと今でも思います。 そして、それに対して猛然と私の盾になってくれたtaroandjiroさんに改めてお礼を言わせてください。 また長文になりましたね。 <g>

taroandjiro2001
質問者

お礼

ありがとうございます。本当はいろいろ話したいこともあるのですが、手短に。 学校のことですが、現状は悲惨です。 政府レベルから始まる官僚体質、組合を含んだ教師の側の問題、保護者、生徒の現状。 日本の生徒は、アメリカの生徒より教師をなめている、そういう態度が許されているように見えます。どこから手をつけていいのかわからないほどの構造的問題が蓄積されているようです。現場の教師が次々とうつ病になっていくのがわかります。私は最近、「今でも教師になりたい人間がいるんだ。」と感心しています。 それとGさん、SWATの隊員が「おれのシューティングの成績が悪いのは、インストラクターが悪い」といえば、どう思われますか? 中には、「潰し屋」「やぶ医者」みたいなコーチングをする人間もいるでしょう。しかし、下の補足に書いたように、英語が出来る人間は、「教師のおかげ」と、あまり言わないものです。出来る人間は黙って結果を出しているということです。 英語に限れば希望はあります。 上級者はどんどんネイティブに聞くようになりました。あらゆる学習書の間違いもどんどん明らかになっていくでしょう。アメリカの掲示板参加者のレベルもどんどん上がりました。彼らがフィード・バックしてくれるでしょう。 私は、ここで皆さんのお話が聞けて、逆に希望をもてました。 一見、悲観的な意見も、「現状を憂いている」「心のそこでは何かを求めている」という意味では我々と同じだと感じるのです。 いずれにせよ、これからもいろんな問題がおきるでしょう。しかし、本当に大本の部分、日本人最大の間違いの部分は、Gさんがもう後戻りできないほど変えてしまったと思いますよ。

taroandjiro2001
質問者

補足

こんにちは。 すみません。今、時間がないので後で書きます。

  • Helfgott
  • ベストアンサー率44% (66/149)
回答No.7

NO.3で答えたものです。 実は私も現役の英語教員です。下で英語とは「英語教育産業を 潤す商品」といったことが書かれています(私が書いた)が、 まさしく、その恩恵を受けている張本人です(笑) 英語教師になって驚いたのは、二つのことです。 1つ目は、昔も今も、ほとんど変わらない教育がなされていること。 特に、高校で行われている逐語訳中心の授業は、20年前と全く変 わりありません。 2つ目は、英語教師に対する一般的な評価が、大変低いこと。 英語教師は英語がしゃべれない、大変英語能力の低い人たち、とい うイメージが少なからず浸透していることには、ちょっとショック を受けました。 1つ目については、こんな話を紹介しましょう。 進学校では、英会話や音声指導を中心とした授業は、あまり生徒か ら歓迎されない、という事実があります。生徒の目標は大学受験な ので、特に難関校を目指している生徒が多い場合、中途半端な英会 話の授業は受験に「無意味」と考えられ、それよりも、伝統的な逐 語訳を中心とした「受験英語」の授業の方が歓迎されるし、現実的 にその方が効果があります。 文科省の指導のもと、「実践的コミュニケーション能力の育成」を 目指したネイティブのALTを使ったOral Communicationの授業がどれ ほど効果を挙げているかも疑問です。多くの場合、ALTの授業は、授 業というよりも「遊び」のようなもの、と生徒に受け取られ、真剣な 授業の場にそぐわないもの、大変限定的な効果しかもたないもの、と 現場では受け取られているのではないでしょうか。 私は、この点については「学校教育の限定性」の理解を求めます。 学校教育が万能のように考えてはいけません。繰り返しになります が、それが効果的に機能するのは、ごく限定的な知識の習得に過ぎ ないのです。特に、日本のような講義視聴型の授業が中心で、40人 程度のクラス規模を考えると、できることは大変限られるのです。 会話や音声指導を実施するならば、中途半端な導入は大して効果が ありません。やるならば、徹底的にやらないと意味がありません。 現実的には、カリキュラムをこなせという要請のもとでは、多くの 学校ではそのような時間的余裕はないでしょう。 本当に繰り返しになりますが、日本では英語を話す社会的インフラ ストラクチャーがないから、日本人は英語ができない、のです。 英語教育が全て悪いわけではないのです。 鶴見俊輔は、「英語教育は日本の最大の失敗に一つである」という ようなことを言っています。私はずっとそれに同意していましたが、 最近、少し考えを変えました。 今の英語教育の現実は、様々な試行錯誤と改善への努力の結果なの ではないでしょうか。それにはもちろん欠陥はあるし、まだまだ改 善すべき点はありますが、現状(社会的インフラがないこと)に条 件づけられた中で、一つの答え、ありうべき形として、あるのだと 思います。 だから、私は、現在の英語教育自体を、もう少し評価すべきではな いかと思っています。現実との折り合いを考えた場合、それが成し 得ている成果を評価すべきです。受験で英語が必須とされているこ とは、社会的インフラがない日本において、ほとんど唯一の現実的 な英語学習のモチベーションを提供しています。逐語訳中心の英語 教育は、決してスピーキング力の力を助長しません。しかし、受験 英語で、英語の文法的基礎と読解の基礎を身に着けていれば、英語 を「使う現場」に将来たったときに、素早く実践的英語を習得でき ることができると思います。英語を使う現場にいる人の多くも、高 校までは普通に受験英語をこなしたあと、社会人や大学入学後に、 必要に迫られてビジネス英語を習得した、という人も多いはずです。 そうしたことを考え合わせると、いわゆる学校英語も、決して無駄 にはなっていません。 本当は、私も現状の学校英語に不満はあるし、自分についても大いに 反省すべき点はあるのですが、それは長くなるのでやめましょう。 2点目の「英語教師の英語力」についてですが、現在では、ほとんど の教師志望者は、1年程度の留学を経験しているのではないでしょう か。少なくとも会話能力について言えば、若い教師の方が、年配の教 師よりも高いと思います。これは、年配の方々の努力不足では全くな く、単に時代的な制約のためです。だから、ある意味では状況は「改善 している」と言えなくもありません。 しかし、必ずしも英語力が高いことが、英語教師の必須条件とは思い ません。No.6の方が見事に指摘しておられるとおり、「教師の英語力 と生徒・学生の英語力に必ずしも相関性はない」。英語力が必ずしも 高くなくても、教えることは大変上手な先生はいっぱいおられるし、 逆のケースも多々あるのです。 とはいえ、最低限のレベルは保つべきでしょう。No.1の方がおっしゃ られている「中学教師TOEIC730、高校教師TOEIC860」は妥当な線だと 思います。本当の英語力を求めるならば、TOEIC900以上や英検1級で も、全く足らないでしょう。しかし、現場で必要とされている能力は、 「英語を教える能力」ですから、最低ラインとしては、上記のライン で十分なのではないかと思います。 本当は、「とはいえ改善すべき点はある。」だから、それについても 書いてみたいのですが、あまりに長くなるので今日はやめますね。 大変長くなり、申し訳ありませんでした。

taroandjiro2001
質問者

補足

1については、まったくその通りでしょうね。 子供の方も価値判断が先に立ちますからね。大学生が楽勝コース(単位)を選ぶのと同じでしょう。 >英語教師に対する一般的な評価が、大変低いこと。 昔のイメージと、もう一つは、生徒や親など、英語を知らない人ほど「完璧な正解」があると思い込んでいるせいだと思います。 少しでも、あいまいなことを言うと子供は、「この人は英語力不足」と決め付けるのではないでしょうか。 >様々な試行錯誤と改善への努力の結果 最近、強く思います。人間のやることはすべてそうなんだと思います。 「完全な世界」「理想」というのは、人間にとっての努力目標ですよね。人間は不完全で制約の多いこの世で、道を開いていかなければならないのでしょう。 機会があれば、改善点について伺いたいですね。楽しみにしています。

  • moguyan
  • ベストアンサー率56% (106/189)
回答No.6

現役の高校の英語教員です。 使える英語教育は一部の学校を除いて日本にはありません。また日本人の英語に革命は起こりません。 英語は語学ですからスキルを身につけることです。学校の英語の勉強だけでこのスキルが身に付くとお考えでしょうか。学校とは本当に英語が必要になったときその基礎となるべきことを教えておく場所だと考えます。英語教師は教育のプロではありますが英語のプロではありません。toeicの点数を出された方がおりましたが,私見では教師の英語能力と生徒や学生の英語能力に相関はありません。相関があるのであれば日本中の英語教師をみなnative speakerに入れ替えれば問題は解決するはずです。優秀な医者とは医学の知識がたくさんある医者ではなく,患者の病気を見つけて治せる医者です。優秀な英語教師とは自らが英語に堪能であろうがなかろうが,教え方がうまく生徒や学生の能力を最大限に引き出せる教師です。 英語の能力は個人のスキルですから個人が努力して英語を身につけるしかないと思います。 シンガポールのことはわかりませんが韓国は英語に限らずあらゆる勉強に熱心です。日本の学校ではもはや命がけで必死に勉強するなどという雰囲気はなくなってしまいました。少なくとも私が高校生の頃は日本中のほとんどのものが,何とかはい上がろうと必死になって勉強していました。その頃の高校生はたぶん英語はあまり話せなかったと思いますが,英文を読んだり書いたりする力は今よりもあったと思います。オーラルが入ってから何もかも中途半端になってしまいました。特に英語で自分の意見を発表させたりすることが不可能になりつつあります。 英語にしてもただ漠然と英語をしゃべりたいとはおもっていてもその努力をする気もない生徒が多いのが現実です。日本にしても韓国にして資源のない国は人材とその人材を育てる教育がすべてのはずなのに勉強熱心ではなくなりました。今に韓国に負けると思います。(もう負けてますが)

taroandjiro2001
質問者

補足

ありがとうございます。 >日本人の英語に革命は起こりません。 この状況だからこそ起こそうとがんばっている人はいますよ。もう少しで目に見える形が現れるかもしれません。 >教師の英語能力と生徒や学生の英語能力に相関はありません。 学校の先生方すみません、私の回りの英語が出来る人間もそのように考えているようです。 ちなみに私は、学校の先生、一部の進学校を除けば英検2級で充分だと思っています。ベーシックなことだけを練習すべきだと思っているので。 確かに、最大の問題点は、一生懸命やらなくてもいいという大人の意識が、あまりにも子供のモチベーションを下げたことでしょうね。 公務員の先生は本当の民間の厳しさをご存じないかな~という気もしますが、必要以上にバッシングされているのは確かだとも言えます。 親や生徒からの圧力も大変なものですからね。ご苦労様です。なんとか、救われない日本人の英語力向上のためにがんばってください。

  • genmai59
  • ベストアンサー率45% (1214/2675)
回答No.5

日本人が英語が不得意と言われるのは、教育のせいというよりも、モチベーションを高めるための社会状況がないからだと思います。エリートになるためには英語を習得して海外留学しなきゃいけないとか、レストランで職を得るのに、カタコトの英会話ができると有利とか、それをやらないと家族の生活や将来がかかっているということが、日本人にはありません。日本人でも、仕事でどうしても必要になった人たちは、みんな英語を使っています。また、ろくな教育などなかった明治時代の日本人でも、多くの人たちが英語を習得していました。 それから、他国の人の英語力がそれほどすぐれているとは思いません。本当にちゃんとした英語を使うのは一部のエリートで、環境客相手の商売のために英語を覚えたような人たちは、かなりなまりが強いブロークンな英語を話しているのではないでしょうか。また、農村部などでは、英語どころか教育も不十分な国もあるようで、平均的に見れば、日本人の教育レベルはかなり高いと思います。 日本の英語教育は変えた方がいい点はあると思います。ただ、それは会話に重点をおけとか、話せるようにしろというのとは、ちょっと違うと思います。 日本人がなぜ英語が使えないかというと、まず、絶対的に英語とふれている時間が少ないからだと思うのです。週に何時間かの英語の授業で、大半は日本語で文法などの説明を受けているだけ…それで、外国語を習得するのは無理でしょう。 その少ない時間を会話練習にさいて、しかも40人学級で交代でしゃべってなどやっていて、会話ができるようになるはずがありません。 日本人は、知識はあるけれど、学校英語だけではトレーニングができていない。このトレーニングというのは、スピーキングではなく、リスニングもリーディングもだと思います。 よく「読めるけど話せない」と言う人がいますが、あれは戦前のリーダーズ教育を受けた人たちのことで、戦後の英語教育を受けた人は、普通は読めていないですね。「読めるけど…」という人が、辞書なしで英字新聞やペーパーバックを見てだいたいの意味が把握しているという状況を、あまりみたことがありません。リスニングと違って文字は逃げていかないので、辞書を使って1文ずつ日本語訳をしていけば読めるような気がしているだけです。でも、そういう読み方では、慣用句の意味の取り違えも多く、全体の意味を正しく把握できていないことも多いのじゃないでしょうか。 日本の英語教育を改善するのでしたら、毎日1時間程度、最低でも30分くらいのリーディングやリスニングの時間をもうけるか、家庭学習してこないといけないようにすれば、ほとんどの人が高校卒業時にはTOEIC500点や英検2級はとれるでしょう。この程度できると、「通用する楽しさ」が多少でも見えてくるので、モチベーションも上がると思います。 スピーキングの練習ももちろん必要すが、まず、リスニングとリーディングだけでも時間をかければ、かなり違ってくると思います。それに、好きなものを読んだり聞いたりさせるだけなら、本やCDを購入するだけで何とかなるので、実行しやすいと思うのですが。 あと、スピーキングやライティングなどの表現力については、まず、日本語でのトレーニングをしっかりするべきだと思います。論理的な思考をして、自分の意志を相手に伝える訓練ができていなければ、英語力があっても、表現はできないと思います。 日本人は、だいたいが自分のコミュニティに属している人とだけ話をするのが好きで、不特定多数の人間や、見知らぬ他人と会話するのが苦手です。英語で会話をしようとすると、最初はたいていは相手は見知らぬ他人です。しどろもどろになるのは当然でしょう。見知らぬ他人ときちんとコミュニケーションする訓練をしておくだけでも、かなり違うと思います。

taroandjiro2001
質問者

補足

ありがとうございます。 おっしゃることはすべて納得できます。 英語ができなくても日本人はいきていけますからね。 英語に触れずに、机の上だけで学習しなければならないのは、EFL 学習者の悲しさですね。 >戦後の英語教育を受けた人は、普通は読めていないですね 思わず笑ってしまいました。そうなんですか。 戦後が戦前よりひどいなら、我々は救われないですね。日本人は大学教授の生活の面倒を見るためだけに大学に通っていたわけか。本当に笑ってしまいます。

noname#20688
noname#20688
回答No.4

日本とシンガポールを単純に比較はできないと思います。ご存知のようにシンガポールは東京23区よりも小さな面積しかない国なのに使われている言語は英語、マレー語、タミール語、中国語の4つに上ります。ですから、シンガポールでは公用語の一つであり、母国語としている人も少なくはありませんからね。それに、 シンガポール独自の言語ってないですからね。 また、フィリピンのような国はいくつかの言語が使われていて、英語が共通語的な役割を果たし、高等教育も英語でないと受けられないのです。 韓国での英語熱も目を見張るものがありますが、英語を知らない人は日本人よりも英語に疎いです。 オランダや北欧なんかも英語を使える人が多いです。 でも、それらの国は人口も少ないし、自分の国の言語では得られる情報も限られますので 余計に英語の必要度も高いでしょう。また、スペインは日本以上に英語が通じにくいですしね。 学校での英語も、教科書だけ生徒に渡しますが、これはダメですね。言葉って 音が大事なのに文字だけ重点的に覚えたら英語を学ぶ意味がないです。それなら いっそのこと英語は止めてラテン語でも勉強した方がよっぽどいいでしょう。せめて、教科書の録音のCDくらいは配布して聞かせないことには、、、。 昔の日本人は一生懸命漢文を読んでいましたが、どれだけ唐の人たちと会話できたでしょう?寧ろ、漢文は全然読めなくても 蒙古人の方が唐の人たちと会話できる人は多かったと思います。 それと、そもそも英語を学ぶ目的は 数多い外国語の中でも最も汎用性の高い外国語である英語を手始めに勉強することで視野を広げることにあると思うんです。 でも、「英語=教科=テスト=受験」という 図式を作ってしまったら 却って小学生よりも視野が狭くなってしまい本末転倒ではないでしょうか? ご質問の趣旨とは少しズレてしまいましたが、思ったままに書かせていただきました。

taroandjiro2001
質問者

補足

ありがとうございます。 確かに、日本人が英語が出来たら、アメリカの奴隷みたいになっていたかもと考えることはあります。 貧しい国の人々が公用語の英語を必死で覚えるのは、悲しい歴史の証明にも見えます。(成功のチャンスが与えられていたともいえますが。) >「英語=教科=テスト=受験」 これでしょうね。日本人の脳みそに刻み込まれているのは。

  • Helfgott
  • ベストアンサー率44% (66/149)
回答No.3

「英語とは、英語を使って意思疎通を図るコミュニティの一員と  なるために必要不可欠な道具である。」 これは、私の英語に対する定義づけです。 英語を話すコミュニティ(人間の集団)があり、あなたはその中 の一員として他の人間と意思疎通を図らなければならない。英語 を話せないと、社会的生活が送れない。日常生活が送れない。 こういう状況があるから、人は必死である言語を習得しようと努 力します。逆に言えば、そういう必然性もないのに、外国語を身 に着けようとすることは、至難の業でしょう。 日本の英語教育に対しては、非常に厳しい批判がずっと浴びせら れてきていますが、私は、ほとんどの人は勘違いをしていると思 います。 日本には、一般的な日常生活の中で、英語を話すようなコミュニ ティは存在しません。英語を使う必然性のある場面は、一般的に は存在しません。そういう環境の中で、必然性も少ないのに外国 語が身につくはずがないのです。 シンガポールであったり、他の外国では多かれ少なかれ、多民族 国家であったり、植民地の歴史があって、ごくごく日常の延長に 英語を話す場面があったりします。ヨーロッパ人だったら、親戚、 ごく親しい友人の中に英語のネイティブが、ごく自然にいるでし ょう。 そういう「インフラストラクチャー」がある場所と、そうでない 場所では、全く状況が違います。同じように学校で外国語を勉強 させたとしても、そうした「社会的土台」があるかないかで、効 果は全く異なってくるはずです。 簡単に言って、学校という場は「勉強」をする場所です。学校で 行う「勉強」とは、主に机と黒板に向かって知識を吸収することに 向いているでしょう。 たとえcommunicativeな教育システムをいくら導入しようとも、本 当の意味での英語、「ことば」としての英語、自分が生きるために 使うための「英語」を身に着けるのは、学校英語=「勉強の英語」で は、絶対に限界のある話なのです。 日常生活の中に「英語を話すコミュニティ」が顕在的に存在する社会 では、英語を身につける必然性、土台があるわけですから、その土台 の上に乗っかる形で、学校で学ぶ「勉強としての英語」が効果的に機 能します。だから、そうした国と日本を、同列にして論ずるのは無理 があるのです。 そうした土台がなかった日本では、歴史的経緯として、英語が受験シ ステムの最重要教科の一つとなることで、社会的選別装置の一つとし て機能するようになりました。だから、多くの人にとって、英語とは イコール「英語の試験」のことです。またそれは、受験業界、英会話 産業に富をもたらす市場的な商品のことです。 もう一つ、人々が勘違いしていると思うのは、言語とは「上からの政 策」によって強制されるものでは必ずしもない、ということです。 言語とは、私たちが日常生活を送る上で不可欠のもの、それがなくて は生きていけないものでしょう。もし我々の日常生活が、大部分英語 を使って行わなくてはならなくなったら、多くの人が困ります。そう したことは、移民をほとんど受け入れようとしない日本で起こること はないでしょう。 もちろん、グローバリズムの浸透によって、少なくとも経済の世界で 英語の必要性は高まっているし、これからも高まるでしょう。国家も、 上からの政策=言語政策を考える必要はあります。 私は、単に「国際社会の中で、英語の習得に力を入れるべきだ」とナ イーブに考えることはできません。アカデミズムや経済界の最先端で 活躍する人にとっては、英語の習得は死活問題でしょう。しかし、 それ以外の大部分の人にとっては、「英語を学ばなければ」という 言葉は、強迫神経的な思い込みのようにしか思えません。 うまくまとまりませんが、以上です。

taroandjiro2001
質問者

補足

ありがとうございます。 確かに、日本は民族的混合など、他言語習得の必然がなく、受験産業のためだけに使われるようになったというのは、誰もが同意できます。 しかし、今やどこにでもある普通の中小企業でも中国企業と英語でやりとりしなければならない時代です。あっという間に、以前では考えられない時代になってしまいました。 >「英語を学ばなければ」 たしかに、明らかに勘違いしているような人もいるようです。 しかし、多くの人が心の底で「英語が出来たらいいのに」と考えているのに実現できない悲しさをかかえている現状が何とかならないかと考えてしまうのです。 少なくとも、習得よりも瑣末なことにこだわる異様な日本式英語教育法から解放されるだけでも日本は変わるかも知れないと・・・

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